●平良のうんちく
皆様、お久しぶりです。
今回は貴族の婚姻風習について語りたいと思いますが、所謂(いわゆる)教科書にあるような内容……。
平安前期は結婚しても夫婦は別居し、夫が妻を訪ねる 妻問婚 (つまどいこん)。
中期になると、夫が妻の家に同居する 婿入婚 (むこいりこん)。天皇の外祖父になる藤原氏の外戚など、妻の実家の影響力が重要だった時代。
平安後期以降になると、妻が夫の家に同居する 嫁入婚 (よめいりこん)。
について、ここでは省かせて頂きます。でも、日本史が苦手な新庄や有元はテストに出るポイントなのでチェックしておいてほしいな。
さて、実際はこんなにはっきりと時代に沿った変遷を区別できるはずもなく、また都と坂東のような地方といった具合に生活風習に差異があったわけでもありません。
例えば坂東へ下った『高望王とその子供たち』。。。。身分はあっても財政基盤がないので有力国人の『源護の娘』のもとへ通います。『平清盛』はお金を持っていても身分が欲しいので『平時子』のもとへ通います。逆に平忠常の乱を平定して勢力を築いた『源頼義・義家』に坂東の国人たちが所領安堵のために娘を娶(めと)らせようとします。また『源義朝』は坂東平定の際、国人たちに娘を差し出させる形で娶ります。当然頼朝にも坂東の国人たちは娘を娶らせますが、八重姫と北条政子はちょっと特殊なので次回で説明します。
というように、俺の私見ですが、時代というより両者の利潤や立場で使い分けてたように思います。
最後に恋愛長編絵巻『源氏物語』第十三帖 明石より、源氏が都落ちして明石の入道と語らうシーンです。。。。
『……明石には、例の、秋、浜風のことなるに一人寝もまめやかにものわびしうて、入道にも折々語らはせたまふ。
「とかく紛(まぎ)らはして、こち参(まい)らせよ」
とのたまひて、渡りたまはむことをばあるまじう思したるを、正身はた、さらに思ひ立つべくもあらず。
「いと口惜しき際(きわ)の田舎人こそ、仮に下りたる人のうちとけ言につきて、さやうに軽らかに語らふわざをもすなれ、人数にも思されざらむものゆゑ、我はいみじきもの思ひをや添へむ……』
……明石は秋になると例によって浜風が激しく、源氏も一人寝の寂しさもあって明石の入道に時折話を持ち掛けます。
「とにかく人目に付かないように私の下へ娘を連れて来なさい」
とおっしゃり、源氏自ら娘の下へ通(かよ)う様子はありません。娘の方でも全くそのつもりもない様でした。入道は源氏に娘の言葉を伝えます。
「身分の低い田舎者は、ほんのひと時でも都の貴人に声を掛けられれば、簡単に靡(なび)くのでしょう。でも私はその後で大変つらい思いをするのは嫌です……」
かなりの意訳で申し訳ありません。『源氏物語』は様々な人間模様を描く壮大な恋愛ストーリーですが、これを『歴史』という視点で見た場合、当時の貴族が国人の娘に対してどう思っていたが伺えます。実際、国司は任国の国人たちの娘を召し出させ、娶っていたようです。
『源氏物語』の絢爛(けんらん)で美麗(びれい)なイメージを壊してしまって申し訳ございません。。。。。