●平良のうんちく
天慶二年<939>五月二日、将門は朝廷に五か国の解文と共に謀反無実の言上をしています。忠平はそれを受けて五月十五日・十六日、六月十六日に坂東諸国の国司の任官が行われました。当然、そこには将門の名前はありません。
六月、将門は朝廷に坂東平定の功が認められると、叔父にあたる上総介・平良兼は公的な立場が逆転したため、病床中に剃髪してすぐに亡くなります。将門は坂東の国人に富と権力を約束しますが、ここから歯車が狂い始めました。
将門は、子分である悪逆非道な藤原玄明を罰するどころか、常陸国の国府を攻めて助け出します。ここが忠平の言う『義侠や私情に流されやすい』という欠点なのでしょうが、坂東の国人にとってはヒーローなのでしょう。
この後に興世王は「一国を攻めた罪は免れない。もはや一国も八国も同じこと」と言います。将門は「どうせ罪ならば、八国取った後に都に攻め上ろう。祖父は王であり、私は三代目だが苟も高貴な血が流れている。帝の位に登っても問題ない」と答えます。
『将門記』にはこう記されてます――『大議已訖。<大義すでにおわんぬ>』と。