第42話

「どうしてわかったの?」


 真由美の声はどっしりとした男の声に変化している。

 森崎家の三人はリビングに通された。


「お兄ちゃんに似てる。とくに母さんに怯えてる目がそっくり。隣に並んだらわかるよ。あと名前。マユミでしょ」

「弓弦くんがいないのは残念ね。でも梓ちゃんに会えて嬉しいわ」


 興奮気味の梓と和やかな真由美の会話をかたわらで聞かされている母さんの顔は蒼白だ。

 父さんの本名は『松元真弓』といい、森崎真由美は通称なのだそうだ。

 梓は中学の修学旅行で韓国に行った。パスポート取得時、戸籍謄本の父欄を見たのだそうだ。初めて聞く話だった。

 物心ついた頃から性別違和を抱えていた父さんは、それでも人並みに結婚を望み、子どもをもうけた。後悔や不満があったわけではない。その後森崎亜郎と出会い、惹かれ、恋をしたくだりを語る真由美を、興味津々の梓とどこか誇らしげな哉哉と気恥ずかしそうな亜郎が見守っている。

 なんとも尻がもぞもぞする光景だった。


「お茶くらい出してあげるわ」


 いたたまれなくなったのか、母さんは台所に逃げた。真由美が気遣わしげな視線を送る。

 俺は母さんのそばに寄った。

 母さんの気持ちがよくわかるよ。

 そう、声をかけてあげたいけれど、母さんの耳には俺の声は素通りしてしまう。ここに母さんの味方は誰もいない。

 母さんが守ってきた世界を壊す人間しかいない。

 母さんの気持ちを思いやると、心が痛む。

 俺と梓に目隠しをして父さんの姿を消したのは母さんだ。その好意は理解できる。説明するにはこどもすぎたし、知る必要さえないと判断したのだろう。二度と姿を見せないようにと父さんに念押しをしたようだ。

 母さんの視野は狭い。価値観は堅固になり、世界の中心には母さんが君臨した。

 だがそれは俺と梓を守るためにはしかたがないことだったと思う。

 せめて俺の肉体があれば、俺だけでも母さんを労ってあげられたのに。


「弓弦君、出かけちゃったんですか。ショックだな……」


 約束をすっぽかされた森崎は小さくため息。

 美羽のせいで俺はすっかり気まぐれでちゃらんぽらんなやつに仕立てられた。リビングの会話は母抜きで続いていた。


「なんとなくママに似てたから弓弦くんのこと、転入以来、ずっと気になってたの。ママに話したのは弓弦くんが飛び降りたって聞いたとき。名前を言ったらママが真っ青な顔になって、あ、そうなのかって」


 哉哉は梓の相槌に気をよくしたようすだ。


「絶縁状態のまま弓弦君が死んじゃったらママは後悔するだろうって。会ってほしいなと思って。絶縁されたって聞いたけど、余計なお世話だとわかってたけど、弓弦君が会いたいと思うなら誰にもとめる権利はないかなと思って」


 余計なお世話だ。とめる権利は母さんにある。

 森崎が見舞いに来たのは俺への好意からではなく、継母のためだったのだ。


「とんだソロダンサーだな、俺は……」


 そろそろ美羽のところへ行かないと。焦ってきたころに無遠慮な台詞が耳朶を打った。


「父さんはもう女の人になったの?」


 梓の質問は興味本位で品がない。

 母さんは埃を払うように手をひらひらさせた。声にならない感情を仕草が語っている。


「戸籍の性別変更のこと? まだなの。身体も中途半端だし」


 真由美が照れたように答えると、哉哉が補足した。


「手術は要件ではなくなったけど、子どもがいる場合はその子が成人するまで無理なんですって」


 梓が成人するまでは性別変更出来ないということか。

 同性婚ができない現状では待機するしかないのだろう。


「早く結婚できるといいねえ」


 無邪気な梓の声に促されたのか、真由美の声も弾んだ。


「これまでちゃんと父親業できなかったから、これを機にサポートしたいと思ってるのよ」

「いい加減にして!」


 母さんの声は尖っていた。声に色があれば深紅だろう。来客用の飲み物を置き去りにしてリビングに戻ろうとする。


「母さん……!」


 どんなに叫んでも俺の声は誰にも届かない。

 次の瞬間、リビングに緊張が走った。


 母さんの右手には包丁が握られていた。

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