第9話

 なんでここから落ちたんだろう。わざわざ金網のフェンスを越えて。

 相応の理由がないとおかしいのにそれらしいことが浮かばない。首をひねる。


「なにか思い出した?」

「いやなにも」


 こっそりと忍び込んだ校舎は当然だが人の気配がなくて、殺風景な屋上はより広く感じた。


「どこから落ちたか、わかる?」

「うーん。なんとなく、ここら辺かな」

「ここ?」


 美羽は金網をよじ登った。


「おい、危ないぞ」

「ほんとにここ? だって真下には樹木や植栽がたくさん生えてるよ。室外機の載ってるひさしも邪魔じゃない? あ、木の枝が折れてる。植栽がつぶれてる」


 眼下は暗く鬱蒼としていたが、目を凝らしてみると地面に乱れたあとがあった。さいわい血痕などではなく、たくさんの人が立ち入ったことによる靴あとの密集といったところだ。

 樹木と植栽のクッションのおかげで骨折もしなかったのだ。我ながらなんという強運だろう。


「ここで間違いいなさそうだね。よいしょっと」

「おい、何やってんだ」


 美羽はフェンスの向こう側におりた。立ち上がりとフェンスの間には人が余裕で立てるだけの幅がある。


「弓弦は自分でフェンスを越えたんでしょ」

「だろうけど……」

「記憶はよみがえらない?」

「残念ながら。よせ、身を乗りだすな。また落ちたら困る」


 美羽は立ち上がりの部分に手をついて、下を覗き込んでいる。


「ねえ、こっちに来てみない。どうせ霊体なんだから落ちても大丈夫だよ」

「……やめとく。気分が悪い」

「また死にたくなっちゃうから?」

「俺は飛び降りたりしない」


 だが、それならば、なぜここから落ちたのだろうか。誰かに突き落とされたのだろうか。フェンスの高さは2メートルほどある。


「二人がかりで抱え上げればギリ落とせるかな。暴れないように薬を盛れば。不可能とは言い切れないよね」


 美羽は名探偵気取りで顎に手を当てて考えている。薬を盛って屋上から投げ捨てられたという想像は恐ろしすぎる。


「誰かに恨まれていた?」

「ないよ」


 実際に心当たりはないし、考えたくもない。


「じゃあ、なんだろう、うーん……」


 美羽はもう一度体を乗りだして下を覗く。そのまま落ちてしまうのではないかとハラハラする。


「クラスメートや友人に訊けば事情がわかるかもね」

「俺のことはいいから、もう戻って来いよ」

「きっとフェンスを越えなきゃならないことがあったのよね」


 美羽はきょろきょろと周囲を見回す。つられて俺も見たが、とくに何もない。


「例えば、例えばだけど。うっかりと手を滑らせてスマホを金網の外側に落としたとしたら、フェンスを越えないと拾えないよね」


 フェンスを構成しているひし形の金網は横の対角線が長く、水平にすればたしかにスマホは通りそうだ。


「真下なら取れるけどパラペット近くだと金網越しでは腕が届かないでしょ」

「パラペット?」

「外周部にある手すりみたいなこれよ」


 美羽は立ち上がり部分をとんとんと叩く。フェンスからパラペットまでは腕を伸ばしてギリギリの長さ。だが金網のひし形は腕を通せるほど大きくはない。


「そうだな。フェンスを乗り越えるしかないな。フェンスにもたれてスマホでも弄っていたのかなあ。それで手が滑って?」

「スマホは例えよ。ワイヤレスイヤホンでもなんでもいい。フェンスを越えて取りに行こうと思うほどの物があったとしたら」

「それでうっかりバランスを崩して……か。面白い推理だな。でも何も落ちてないぞ」

「だから拾ったんじゃない? 拾えたけどバランスを崩して一緒に落下したのかも。なにか思い出した?」

「いや、ちっとも」


 肩をすくめると、美羽はつまらなそうに唇を尖らせた。


「不安にならないの? ここから落ちたんだよ」

「美羽の説でいいよ。それを信じる」

「……思い出したくないんじゃないの」

「なんで?」


 美羽はわずかに逡巡してから、思い切ったように口を開いた。


「いじめられてなかった? 靴やかばんをいじめっこに盗まれて、このパラペットの上に放置されてたんじゃない? 弓弦はきっと泣きながらフェンスを越えたのよ」


 美羽は次々と憶測を出してくる。それも残酷な妄想をいくぶん楽しそうに頬を上気させながら。

 腹立ちをなんとかおさえて記憶を辿る。

 ない。いじめられた記憶はまったくない。きっぱりさっぱり欠片もない。


「脳に損傷があるのかなあ」


 美羽は頭部をこんこんと叩く。失礼な奴だ。


「おまえだって死に際を憶えてないんだろ。どうせなら自分を掘り起こせよ」

「弓弦のほうが謎めいてるもん」


 美羽はそう言って、だがひとつ推論ができたことで気が済んだように、夜空に向かって大きく伸びをした。


「実体があるって最高だね。もう返したくないなあ」


 フェンスの内側に戻ってきた美羽は、さらりと恐ろしいことを言った。


「いいかげんにしてくれ」

「安心してくれていいよ。そんなに長くはないから。幽霊ってね、現世に長くはとどまれないの。死んでから四十九日以内に成仏できないと最悪、悪霊になるから」

「おまえ、死んだのは」

「6月12日」

「今日は7月3日──」

「7月30日までに清水先輩を誘惑しないと」


 悪霊になるの。薄く微笑んだ美羽は唇だけで笑った。むりやり作った笑顔だ。


「悪霊って……」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る