第40話
翌朝、フレンチトーストの朝食にはバニラアイスが添えてあった。母さんはてきぱきと動き、ご機嫌麗しいように見える。が、おもねっているようにも感じた。
母さんがおもねるなどありえないことなのに、なぜそう考えたのか。
不安が胸を圧迫する。
バニラアイスの甘い味だけが口の中に残った。
「ごちそうさま」
「マンションもいいかなって思ったけど、書道教室は続けたいわねえ」
一晩考えたのだろう、家と土地を処分するのと新しい引っ越し先は一括して不動産会社に相談するつもりだという。司法書士や銀行も紹介してもらえるようだし、高校生の自分がしゃしゃり出る幕はなさそうだ。
「今日は日曜日だから、明日、行ってこようと思ってるの」
「うん、いいと思う。一緒に行こうか」
しゃしゃり出るつもりはないが精神的な支えになるなら母さんのそばにいた方がいいだろうと思う。
「弓弦は学校があるでしょ」
母さんはうきうきとしているように見える。『躁』という単語が浮かび、かぶりを振って追い払う。
「どうせ不足分の授業時間潰しだし。あ、神田の悔しがる顔は見たいな」
テストの返却は明日から、試験結果を集計した順位表が貼りだされるのは火曜日だ。学年トップに躍り出る俺を、神田はどんなふうに称えてくれるだろうか。すべては美羽の実力なのだが。
「大丈夫よ。一人で行けるから。引っ越しは夏休みになるでしょう。ちょうどよかったかもね」
「梓は?」
「……まだ寝てる。疲れたのよ」
無理もない。今日が休日でよかった。
部屋に戻ると窓から外を眺めている美羽の横顔があった。いい天気だ。燦々と陽射しが降り注ぎ、蝉の大合唱が鼓膜を打つ。
「デート日和だね」
美羽が眩しそうに青空を見上げる。
「さっきシャワー浴びておいた、歯も磨いた」
「うん」
「下着と靴下も新しいのにしといた。格好はこれでいいか」
「うん、ありがとう。ハグで成仏できなかったときのこと考えてくれたんだね。イヤじゃないの?」
俺は美羽の眼前に正座した。俺なりの誠意の見せ方はこれしかない。頭を下げる。
「ケツぐらいいくらでも使ってくれ。それで美羽が満願成って未練なく成仏できるなら、かまわない。本当に心からそう思っている」
「ならいいけど」
他に償いかたがあるとは思えない。俺の腕は二本しかない。手をさしのべることはできない。できるのは尻を貸すことぐらいだ。身体を貸すことで美羽の希望が叶うなら、美羽が成仏できるなら。
迷いは消えた。
「うちの家族が少しおかしいのはわかってるよ。美羽が悪霊になってほしくないんだ」
美羽はふと真顔になり口をきゅっと引き結んだ。
服を着替えるよりかんたんに、俺と美羽は肉体を交換した。
「ふう。久しぶりの弓弦の身体、すごくいいね。しっくりくる感じ」
美羽は目をつぶり、しばらくのあいだ両手を握ったり開いたりして感覚を確かめていた。
「でも、なんか痛い、かな」
わずかに眉を寄せ、額に指で触れる。
「ああ。昨日美羽に土下座したとき、何度も頭を床に打ちつけたせいだ」
「バカなの? 衝撃で脳細胞ってどんどん壊れていくんだよ。なんか痛がゆい。ねえ、こぶになってない? 清水先輩に笑われたらどうしよう」
「少し赤くなってるだけだよ。前髪に隠れて見えないから、大丈夫だって」
「ファンデーションどこ?」
「持ってるわけないだろ」
美羽はベッドに腰掛けると爪を切り始めた。
「もう、バカだけならともかく、だらしないんだから」
「あ、下のほう、皮剥いとくの忘れたけど」
「バカ! 死ね!」
『正午、歩道橋の上で』
美羽は清水にメッセージを送った。どこで会うかは美羽に決めさせたのだ。
「直射日光浴びまくりの歩道橋で待ち合わせかよ」
「いいのよ。誰かさんが譲ってくれなかったから、昨日ハグしそこねて悔しいの。涼しいモールでデートして、先輩のおうちに行くか、駄目ならこの部屋で……んふふ」
「ここは勘弁してくれ」
母さんや梓に見つかったら俺の方が成仏したくなる。
「昨日の夜、先輩とモールスでやり取りしてたでしょ。なに書いてあるかわからなくて、私、すっごい疎外感なんだけど」
「待ち合わせ場所は明日連絡するとか、そんな業務連絡ばかりだよ」
「まあ、いいわ。私はちゃんと言葉で会話するから。……あ、森崎哉哉から電話だよ」
美羽はスマホをトロフィーのように自慢げに掲げる。
「俺が出る」
「無理。いまは私のカ・ラ・ダ。……もしもし、森崎? どうしたの?」
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