第39話

「……動揺じゃねーよ、ただびっくりしただけだ。なんで帰ってきたんだよ」

「そんなの決まってるじゃない」


 美羽はまっすぐにこちらを見て微笑む。かなり機嫌が良さそうだ。


「清水の情けない姿を見て熱が冷めたのか?」

「んなわけないでしょう。弓弦に用があったからよ」


 じっと見つめてくる。その表情は顔に貼りついた仮面のように見えた。機嫌が良いのではなく、おそらくだが、とても悪いのだ。


「清水、あれからどうしたんだ。美羽の家に行ったのか」

「それがね、もう少し調べてからにするみたい。いまごろはあの日の、私が死んだ日のことを丹念に追いかけているみたい。嬉しいなあ、先輩が調査してくれるなんて。先輩の頭の中は私でいっぱいなんだもん。でもずっとくっついていくにも限界があってね、また囚われる危険があるから私は病院には行けない。置いてけぼり」


 清水は病院に向かったようだ。病院が個人情報をもらすわけがない。警察も保険会社も一介の高校生になんの情報も与えまい。どんなに調べても行き詰まるだろう。

 俺はスマホに触れた。森崎とのやり取りを終えて、清水にさぐりをいれてみようと思ったのだ。そのとき、美羽の台詞がよみがえった。思わず問う。


「さっき、『だから弓弦なんだ』って言ったよな。どういう意味だ」

「弓弦の名前の由来よ。弓矢に関係あるでしょ。梓ちゃんも」


 美羽が梓にちゃん付けをしたことで、俺は内心で安堵した。


「それで?」

「亜郎はアロウ、英語のARROWは弓矢の矢でしょ。偶然にしてはできすぎてるよ。森崎哉哉の父親って弓弦のお父さんなの?」

「うわ、おまえ、天才か」

「あらら。弓弦は英語が苦手なんだね」


 森崎亜郎は俺と梓の父親で間違いないだろう。だが森崎を産んだ寧々は他界している。認知した上でのシングルマザーだったのだろうか。母さんと離婚後に哉哉を引き取り、真由美と結婚したということか。だとしたら、父さんは寧々とも真由美とも浮気してたクズじゃないか。

 母さんが近づくなと言ったのもわかる。母さんが毛嫌いするのもわかる。

 がっくりと全身の緊張が溶けていく。森崎哉哉をカノジョにすることはそもそも無理だったのだ。だが思いのほか衝撃はない。恋愛感情を抱くまでには至っていなかったのだろう。

 なにも知らずに俺を好いてくれる森崎を、ただただ気の毒だと思った。

 なにも告げずにそっとフェードアウトしよう。


「明日、先輩に会う約束してるでしょ」

「え」

「やり取り見てたから知ってるもん。隠しても無駄だよ」

「ああ、うん、そうだけど」

「身体を貸してね」


 美羽はファストフード店の店員みたいな笑顔だ。


「ハグしたら成仏できそうなのか?」

「うん。貸してくれるのはそのときだけでいいから」

「でもさ、もしハグで成仏できなかったら……」


 聞き分けのいい美羽なんておかしい。警戒信号が灯る。

 もしハグで成仏できなかったら、俺の尻が裂ける行為を強行するにちがいない。

 俺のためらいを見て取ったのだろう、美羽は真顔になった。


「私、記憶を取り戻したの」


 手からスマホが滑り落ちた。床にぶつかって鈍い音を立てる。


「高村家は私に大きな借りがあるんじゃないかしら」

「……っ!」


 美羽は片方の口端だけを吊り上げて白い歯を見せる。


「清水先輩はまだ確信までいたっていないみたい。とめるならいまのうちよ。私ならとめられる。ハグで成仏しないほうが弓弦にとっても都合がいいんじゃないかしら。清水先輩と肉体関係を持つのは悪い手ではないわ。ちょっとずるいけど、弓弦に情が移れば、真相を掴んでもきっと黙っていてくれるから」

「すまなかった!」


 俺は土下座した。何度も床に額を打ちつける。


「俺の家族が美羽を見殺しにしたこと。さっき母さんに聞いて全部知ったよ。謝っても許されることじゃないけど。母さんと梓の代わりに俺が謝る。俺にできることは何でもする」

「ああ、やっぱりそうなのね」

「え、やっぱりって」

「記憶を取り戻したってのは嘘。清水先輩と同じで、まだ確信がなかったの。でもぼんやりと梓ちゃんの驚いた顔が蘇ってきたところだったのよ。そうか、私は梓ちゃんたちに殺されたのか」

「よせよ、そんな言い方。殺意はなかったんだから」


 身体中がかっと熱を帯びた。なんとかしなければ、と焦りばかり感じた。


「そうかしら。見捨てたくせに? どうせ私がカマをかけなければ、真相を明かす気はなかったんでしょ。弓弦の誠意ってそんなもんなの」


 ぐっと喉が鳴った。

 美羽に真相を知られたくないと思っていたのは事実だった。


「俺自身が、まだ、受けとめきれてなくて」

「真相を知ったら、私が苦しむと思ったの?」


 ここは正直に話をすべきだろう。


「それもある。だが美羽はもう死んでしまっただろ。いまさらどうしようもない。母さんや梓を、生きている人間を憐れんでほしいんだ」

「人殺し!」


 美羽は叫んだ。頭蓋を削られるような鋭利な叫び声だった。

 美羽が怒るのは無理もない。


「卑怯者! なんて醜いの!」


 どんなに醜く惨めな姿であろうと後悔はない。俺は全力で家族を守る。


「弓弦は洗脳されてるよ」


 そうなのかもしれない。狂っているのかもしれない。かまわない。外野の騒音などどうでもいい。

 だが美羽に罵倒されるのはこたえた。軽蔑されるのはつらい。憎まれるのは痛い。


「私が悪霊になっても、弓弦はかまわないんだね」


 美羽の声は空気が抜けた風船のように萎んだ。

 はっとして顔をあげる。負の感情に飲まれたら美羽は成仏できずに枯れ果てるまでこの世を彷徨う悪霊になるのだ。なんの罪もない少女を見殺しにしたあげく、悪霊になるとわかっていてなお見捨てるのか。

 しかし腕は二本しかない。右手は母さんを左手は梓を掴んでいる。美羽に手をさしのべることはできないんだ。

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