第43話

「な……!」

「近づかないでって言ったでしょう! 二人が成人するまで会わせないって言ったでしょう!」

「わ、わかった。出て行くから」


 亜郎が真由美の肩を抱いて立ちあがる。

 茫然となった梓を哉哉がかばって前に立つ。じりじりと近づく母さんに四人の表情は強ばった。


「母さん、冗談はやめてくれ。ほら、包丁から手を放して」


 俺は必死になって止めようとしたが無駄だった。俺の手も足も石頭も母さんを通り抜けてしまう。


「我々はもう帰るから。落ち着いてください」

「脅しだと思ってるの。馬鹿にしないで。私はいつだって本気よ」


 母さんが包丁をめったやたらに振り回した。悲鳴があがる。梓の頭上を刃が薙いだ。


「なにしてんだよ、母さん!?」


 母さんはどうかしてしまったのか。目が血走り、見境がなくなっている。

 なんとかしなくては。

 全員の身体をすり抜けて玄関に向かった。美羽から実体を奪い返さないとなにもできない。

 今ごろは歩道橋についたころだろうか。

 いまから駆けても間に合うわけがない。森崎一家に何かあってからでは遅い。母さんを人殺しにしたくない。いや、絶対にしてはいけない。

 どうしたらいいんだ。

 ふと玄関先に落ちていたモノに目がいった。

 迷っているヒマはない。それに頭から飛び込んだ。




「きゃああああ」


 母さんは俺を見て絶叫した。森崎一家も俺を避けようとして逃げ惑う。その中で唯一真由美だけは玄関にあった長い靴べらを手に取って、勇敢にも俺をやっつけようとした。

 だが俺の動きは素早い。素早いだけでなくて軌道がめちゃくちゃだ。なにしろ俺自身がコントロールができなくて何度も壁に身体を打ちつけた。

 飛び回る内に書道教室に使用している部屋に転げ込んだ。添削用の朱墨にダイブ。翅を振るわせたせいで部屋中に朱墨が飛び散った。

 やばい。母さんに怒られる。

 そんなこと、どうでもいい。いま俺がやるべきなのは──

 朱墨をまといつかせた身体で、俺は母さんを止めようと必死で飛んだ。


「ジージジージ ジージジージー ジジ ジジージジー」


 包丁の刃に、朱墨とは違う深い赤がついている。誰かが怪我をした。誰が、とまで確認する余裕はなかった。

 俺はぎりぎりを飛んだ。朱墨が母さんの顔にべったりとついた。

 真由美の振り回す靴べらを避けて玄関を出る。包丁が三和土にぶつかって弾んだ音がした。

 やった! 母さんが包丁を手放したんだ!


「殺しなさいよ、その包丁で、梓を! 望んでるんでしょう!?」


 母さんの慟哭は隣人の耳に届いたようだ。スマホを耳に当て、険しい顔をした老夫婦が公道からこちらを覗いていた。どこに電話しているかは訊ねるまでもない。

 俺はそのまま空を飛んだ。虫一匹では騒動の後始末はできない。

 美羽をつかまえて身体を返してもらわなければ。

 今日は日曜日。モールに向かう自家用車は多い。

 車にひかれそうになりながら際どいところでかわす。次に来た車のフロントガラスに背があたる。ルーフのふちにギザギザした前脚を引っかける。制動に慣れてきた。だが寿命を迎えた蝉の体力がどこまで保つものか。いつまで動かせるものか。美羽と清水のところまで保ってくれと願った。

 やがて歩道橋が見えてきた。

 歩道橋の上に清水と美羽の姿を認めたとみるや、飛び立つ。

 すぐ横を大型トラックが轟音を立てながら通りすぎた。


「ジ」


 笑おうとしたが声にはならない。清水の姿をとらえたら自然とおかしみがわいた。あまりに焦りすぎて情緒が崩壊していやしないか。

 清水の奴、ストライプシャツにチノパンで爽やかな格好をしているのに、またヘルメットを被ってる。カーボンファイバー製で頑丈だとか言ってたっけ。

 そんな情報、いまはどうだっていい。

 歩道橋の手すりにすがりつく。美羽に話をしなければ。朱墨がまだらにこびりついた、死に体の蝉の衣を脱ぎ捨てようと思った矢先、美羽の笑声が聞こえてきた。


「ヘルメット、もう脱いだらどうです? 暑いでしょうに」

「心配ありがとう。でも保冷剤が入ってるから見た目ほど暑くないんだよ。弓弦が暑いならモールに移動しようか」

「ううん。もう少し、ここで話がしたいんです。この場所で」


 俺が追いつくのを美羽はここで待ってくれたのだろうか。

 それとも事故の瞬間を思い出しているのか、階段のほうに視線をやっている。清水も追うように階段を見やった。


「ハグしてもらえませんか」


 ふかふかの布団の上で子守歌をねだる子どものような美羽の笑顔。

 いま出て行ったら空気を読めないやつだと思われる。美羽も嫌がるだろう。俺はしばらく蝉の中に留まり、じっと動かずに見守ることにした。


「今日は積極的なほうの弓弦なんだね」

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