第34話
「お昼、フードコートにする。ソフトクリーム食べたい」
梓はご機嫌だ。ゴールデンウイーク以来の家族ですごす休日の朝である。たまには映画でも観たいという母さんの希望で、俺はネットで予約を取った。
いまにも雨が降り出しそうな空模様だったので、母さんはコンコースから濡れないでモールに直行できる電車で以降と提案した。例の歩道橋を通らない行き方なので、内心でほっとする。
美羽は昨夜帰ってこなかった。
どこかで事故にあったのでは、と考えかけて、それがいかに的外れか、我ながら苦笑するしかない。
どうせ清水のそばから離れられなくなっただけだろう。
ストーカー気質なので心配するだけ損だと頭を振る。せっかく美羽抜きで家族団らんできるというのに。
「上映十五分前だ。入館しようよ」
まずは母さんのお目当ての映画を楽しもうとシネコンに向かう。
「ポップコーンセット頼んでいい?」
梓は母さんの手を引いてフードコーナーに向かう。
ふたりが戻るまでのあいだ、上映中のラインナップと上映予定作品のチラシなどをザッと確認し、もし森崎を誘うならなにがいいだろうとデートプランを描いた。
ロビーがざわざわと騒がしい。上映終了した回の客が吐き出されたようだ。
「弓弦」
母さんの声が聞こえたので振り返ると、真っ青な顔をしている。
「どうしたの。あれ、梓、ポップコーンセットは?」
「……母さんが」
「?」
客の流れに背を向けて、母さんは左右に視線をさまよわせる。なにかを探しているというより後ろを見ないように目を背けているようだ。
「あれ……?」
去って行く客の中に森崎がいたような気がしたがすぐに見失ってしまった。その隣には継母だと言っていた中年女性がいたような……。
森崎も家族で映画を観にきたのかもしれない。
上映中、母さんは終始ぼうっとしていた。母さんがリクエストした映画なのに、心ここにあらず。うわのそら。
映画館をあとにする。
フードコートでランチをとる。家族団らんのはずが、淡々とタスクをこなすロボットになった気分だ。周囲の家族連れとはまとう空気が違う。
「母さん。なにか考え込んでるみたいだけど、いったい……」
「具合が悪いのよ。帰りましょう」
そう言う母さんは真っ青な顔色をしている。具合が悪かったと気づけなかった自分を反省した。もっと気配りをすればよかった。
「14時ちょうどのバスに間に合うよ」
「そうね、早く帰りましょう」
強張った空気に気づいていないのか、ソフトクリームを食べ終えた梓はひとり満足そうだ。
歩道橋が視界に入るころになって母さんが足をとめた。
「蝉がいそう。並木道があるし。やっぱり電車で帰ろう」
そう言われればとたんに蝉の鳴き声が降りかかる。鼓膜を叩きつけるような暴力的な蝉の声を、ついさっきまでまったく認識していなかったのだから不思議なものだ。当たり前すぎて、慣れすぎて、取りこぼしてしまう情報はこういったものなのかもしれない。
母さんは梓の手をしっかりとつかんで踵を返した。
「急いで、弓弦」
だが歩道橋を降りればバス停は近い。もう一度モールの人混みの中を縫っていかなければ駅に辿り着けない。体調が悪いのなら最短コースが良いのでは、と常識的な思考を抱いた。
「ここまで来たならバスの方が早いよ」
「弓弦!」
振り返ってこちらを見た母さんの顔は恐ろしかった。息を飲む。
「なんで言うことが聞けないの!?」
鬼面のよう、という表現があるが、母さんの鬼面は幼い頃から見慣れている。
悪さをしてよく怒られた。やましさで目を伏せてしまったのは昔の話で、いま俺は母さんの両目をしっかりと見つめ返すことができる。
母さんはなにかに激しく怯えていた。
恐ろしいものから身を守るために、より恐ろしい姿にならなければならないと決意したかのようだ。
手をつかまれている梓が「痛いよ、母さん!」と手を放して歩道橋に走る。追いかける俺の頬に雨がぽつぽつとあたる。
「大降りになるかもしんないから、やっぱ電車にしようぜ」
歩道橋の上で立ち止まっている梓の背に声をかけた。
「やあ、こんにちは!」
階段の下から声がした。見下ろした先には用意万端、傘を掲げた清水がいる。自転車用の例のヘルメットを被っているところから、自転車で来たことが想像できた。清水にまといつくような美羽の姿も見える。
「清水!?」
軽快に階段を駆け上る清水。
「あ、あら、清水さん」
母さんは戸惑いながら会釈をした。
「どうも縁がありますね」
清水は爽やかに微笑んだ。
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