第32話
「ん?」
先生方は身を乗り出した。
「事故で頭を打ちました。打ち所がよかったのか、利口になりました」
「そんなばかな」
「ではいまここでなにか問題を出してみてください」
英語教師と数学教師のふたりが顔を見合わせてうなずいた。
英語教師は英語で美羽に話しかけた。美羽は流暢な英語で返答する。
なにを話しているのか聞き取れない。ちんぷんかんぷんだ。
やがて英語教師はどもり始めた。単語が喉の詰まって苦しそうに見えた。
続いて数学教師が美羽の前に赤本を開いた。難関大学の過去問だ。
紙とペンを借りた美羽は思い迷う素振りなく計算式を書き連ねた。
解答が正しいことは数学教師の驚いた顔が物語っている。
校長と教頭は顔を見合わせてうなずいた。
「カンニングではなかったね。疑ってすまなかった」
「誤解が解けたのなら謝罪はけっこうです」
「きみはきっと我が校の誇りになるだろう。我が校のアルジャーノンだ」
美羽は一瞬だけ不快げに顔をしかめたものの、すぐに微笑を浮かべた。
俺はひそめていた息を盛大に吐き出した。
「この調子で頑張ってくれたまえ。高村君ならT大やK大だって現役合格できるよ」
掌を返したようにちやほやする浜田に会釈をして、美羽は校長室を出た。
「ありがとう。美羽のおかげで助かった」
「いいけど。二学期の中間は実力で頑張ってよ」
美羽の四十九日は7月30日。彼女の頭脳を借りられるのは最長でその日までだ。
「四十九日過ぎたら悪霊になるんだっけ?」
「悪霊になるのは負の感情に支配されて成仏できなかったとき。わたしは四十九日を待たずに成仏を目指す。言っとくけど、清水先輩への渇望は負の感情にあたる。早く埋めたい」
「負の感情、か」
「弓弦にはよくわかんないかもね」
生徒の多くはテストから解放されて帰路についたのだろう、人気のない廊下を美羽は足早に歩む。競歩のようになりながら俺は必至についていく。
「負の感情さえなくなれば悪霊になることなく四十九日で強制成仏になるってことか。ものは考えようじゃないか。清水先輩に会える時間をなるべく引き延ばしたほうがよくないか。四十九日ぎりぎりまで、さ」
「ひとが悪霊になるかどうかの瀬戸際なのよ」
美羽は突然、廊下の端にしゃがみ込んだ。
「美羽!?」
「悪霊になったら清水先輩を認識することもできなくなる。それこそアルジャーノンよ」
美羽は鼻を啜りだした。
女の子を泣かせてしまった。俺はどうしていいかわからずにオロオロするしかない。話題を曲げることがせいぜいだった。
「校長も言ってたけど、そのアルジャーノンって誰なんだ」
「『アルジャーノンに花束を』って本、知らないの?」
首を左右に振ると、美羽の表情が曇る。
「弓弦がうらやましい」
こっちは美羽の頭脳がうらやましくてしかたないんだが。
早めに帰宅してシャワーを浴びてほしいと、美羽はあっさりと俺に肉体を明け渡した。
「弓弦の言うとおり、清水先輩に会える時間は限られている。だから粘着してくるね。夜には帰るわ」
幽霊の特性を存分に活かして清水に張りついてくるようだ。
身体を取り戻せたのはよかったが、うっかりと犯罪教唆をしてしまった。心の中で清水に土下座しつつ、校内の図書館に向かった。
アルジャーノンは鼠だった。実験的な脳の手術で天才になった鼠。主人公チャーリーはアルジャーノンに続いて同じ手術をうける。
俺も天才になりたいなあ、などと羨望しつつ読み進める。
単純な憧れはラストに向かって木っ端みじんに砕かれた。
俺はバカでいい、まやかしの幸せでいい。
図書館から本を借りて読むなんて初めてだった。本を読んで涙ぐむことも。
俺の落下事故を推理した清水の目には俺には見えないものが映っているだろう。隠れた真相が手に取るようにわかるのだろう。同時に知りたくないことも見てしまうだろう。
清水が美羽の事故死を調べたら、俺の見えていなかったものも明らかになるだろうか。
俺は鈍感だから気づかないこともたくさんあったはずだ。
今ごろは清水も自宅にいるだろう。美羽は清水をストーキングしているだろう。
俺はスマホにモールス記号の点と線を打ち込んだ。
『 ・- --・-・ ・-・・ -・- ・・-・- ・・- 』(いしかわみう)
『 -・ ・・ --- 』(だれ)
間髪入れずに返信が来た。
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