第36話
「引っ越しをします!」
帰宅後の母の第一声。声というより布を引き裂いた音みたいだった。
「いきなりなんで」
「不動産を処分すればまとまったお金になるし、弓弦が大学進学するお金はあるから心配しないで」
母さんはあきらかに常軌を逸していた。瞳孔が開いていて呼吸が荒い。引っ越しは思いつきであることは明白だった。
「母さん、落ち着いて。大学なんてどうでもいいよ。進学の話なんていままでしたことなかっただろ。それに大切な書道教室、どうするんだよ」
「弓弦! 母さんの言うことが聞けないの!?」
ボストンバッグに手当たり次第に衣類をぶち込むようすは、引っ越しというより夜逃げだ。
「お兄ちゃん、どうしよう……梓はどうしたらいいの!?」
梓が床にぺたりと座り込んで泣く。
不思議と冷静になる自分がいた。冷静さを欠いた母さんと泣きじゃくる妹を救えるのは自分しかいない。
「まずは引っ越し先を決めよう。ネットで情報を集めるよ。母さんの希望は?」
「……弓弦」
「この町からなるべく遠い方がいいかな。俺と梓が編入できる学校があるといいんだけど」
「……お兄ちゃん」
「俺、進学しないで働くよ。そのほうが母さんに負担をかけないだろ」
「弓弦、ごめんね。そんなつもりじゃ……」
「でも理由を話してほしい。俺たちは家族だから助け合ったり支え合ったりするのは当然だと思っている。母さんはなにか重い荷物を一人で抱えてないか。俺はもう17歳の男だ。信用して頼ってほしい。役に立ちたいんだ」
母さんは顔を歪めてうつむいた。そして小さく首を振る。
「母さん……」
「重い荷物を背負うのは母さんだけでいいの。おまえたちはまだ子どもなんだから」
「母さん……!」
「引っ越しは家族を守るためなの。私たちがずっと家族でいるために必要なことなの。理由は言えない。たとえ弓弦でも」
「……」
頑なに拒絶するさまは、曲がったことが嫌いな、いつもの母さんではなかった。
いつだったか幼い頃、なぜ父さんと離婚したのかと訊ねたときも、「知らなくていいのよ」としか答えてくれなかった。そのときの顔によく似ている。
おまえには立ち入る権利はない。そのときは、そう宣告されたみたいで急に母さんを遠くに感じたのだった。
しかし、たとえ拒絶されようとも憶測することはできる。
『あいつ』ならどう考えるだろうか。清水の微笑がふいに浮かんだ。
脳裏に、歩道橋での清水との会話と美羽の表情がよみがえる。美羽はあのとき、記憶の欠片に手が届いたのかもしれない。
針の先でついたような小さな点がか細い線で繋がる。
知らず知らず、拳を強く握っていた。掌に爪が食い込む。
美羽が歩道橋の階段から落ちた日、俺は神田とファストフードで夕飯を食べた。では母さんと美羽は家にいたんだったろうか。
日曜日、ふたりはショッピングに出かけたのではなかったか。あのモールに。
ふたりは目撃したのか。美羽が階段から転げ落ちるところを。
いや、それだけだったら美羽を見捨てることはしないだろう。スコールのような雨が見知らぬ少女の身体を容赦なく叩き、急速に熱を奪っていくのを見て見ぬふりなどできるわけがない。すぐに救急車を呼んであげたはずだ。
見て見ぬふりをする理由などあるだろうか。やましいことでもないかぎりは。
事件を知っているかと清水に問われて、知らないと答えておきながら『人が死んだ話は嫌いだ』と言った母さん。少女が死んだ事実は、清水は口にしなかったのに。
母さんは事故を知っていたのだ。
「わ、たしは引っ越した、くない」
か細い声が弓弦の意識を引き戻した。
充血した目を見開いて、梓は弓弦を見ていた。
「私のせいで、みんなに迷惑が」
母さんは梓を強く抱きしめる。
「梓は悪くないのよ。あの子は運が悪かっただけ。黙っていれば誰にもわからないんだから、知らぬ存ぜぬでとおすのよ。心を強く持ちなさい」
息ができなくて苦しい。俺は浅い呼吸を繰り返した。
初めて見る母さんの顔が恐ろしかった。
作り笑いの歪んだ顔面に懇願と焦燥と怒りと媚びが膿のように噴出している。感情的になっている母さん、腰を屈めて下から見上げてくる、その顔のなんと醜怪なことか。醜怪さを晒してでも家族を守ろうとしている。
感動で体が震えた。
無意識に梓を見つめていた視線は険しさを含んでいたのだろう。梓は目を伏せた。
「階段で足を滑らせたのは実は私なの」
「もういいわ、梓。黙ってちょうだい」
「ううん、お兄ちゃんは知っていたほうがいいと思う。そのほうが私も楽になるから」
荷物を一緒に背負ってくれと、梓は助けを求めている。
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