第20話
「畳に墨でも零しちゃったのかな。弓弦のママ、けっこうこわいね」
「こわいんじゃなくて強いんだよ。でもその程度のことだったら」
怒らないだろう、と言おうとしたら、母さんはバンと小机を叩いた。
「名乗り出ないなら、今日はもうおしまい。みんな片づけなさい」
子供たちはびくびくしながら帰り支度を始めた。
「泥棒は私の教室の生徒に相応しくありません。次回までに名乗り出るか、勇気がなければ手紙でも書いていらっしゃい。正直に名乗って謝れば許してあげます」
とぼとぼと帰る小学生を見送って、俺は冷えた麦茶を母さんのそばの小机に置いた。
「あら、ありがと。気が利くわね」
「聞こえちゃったんだけど、泥棒ってどういうこと」
「ああ……」
母さんは麦茶を一口飲むと、重そうに口を開いた。
「さっき電話があったの。あの中の一人の親御さんから。子供に持たせた小遣いが盗まれたそうなの。今日も教室には行かせたけど、よく見張っておいてもらえないかって」
「え、じゃあ、あの中に犯人が? いくら?」
「500円」
なんだ、と思ったのが表情に出てしまったのだろう、母さんはきっと眉をつり上げた。
「金額の多寡じゃないのよ、問題は私の監督する教室で犯罪が行われたことなの」
美羽が首を傾げた。
「大袈裟じゃない?」
「ところであんた、明日から期末試験でしょ。退院したばかりでこんなこと言いたくないけど、少しは頑張って、留年はしないでね。母さんに恥かかせないでよ」
「ワカリマシタ」
俺は二階に退散した。スマホをいじる気に慣れず、勉強机に教科書を並べてみたが、こちらもページを繰る気になれない。表紙を見下ろして頬杖をついた。
美羽はさっきからちらちらと俺を見ている。
「言いたいことがあれば、どーぞ」
「教育指導の厳しい先生みたいだったね」
「母さんのことか。うん、まあ、書道教室を運営している、一応は先生と呼ばれる身だから」
「それは理解できるけど……ちょっとこわかったな」
「性格上、間違ったことを許せないんだ。こわいんじゃなくて強いんだって、言ったろ。あの強さがあったから、俺と梓はまっすぐに育ったんだよ」
俺と梓がまっすぐ育ってるかは疑問だとでも言いたげに「ふうん」と美羽は適当に返す。
「さて、試験勉強するから邪魔しないでくれないか」
「まずはやる気出すためにグラビアを見たらどう」
「ナイス提案」
俺が雑誌に飛びつくや、美羽は「気晴らしに散歩してくる」と言いおいて部屋を出て行った。
せっかく病院から抜け出せたのだから、清水の家でも自分の家でも自由に出かけるがいい。そしてそのまま成仏してくれたら言うことなし。
勉強に集中できず、ライバル神村の謀略に負けた。このまま神村の得点にまで負けてしまったら梓にバカが近づく機会を与えてしまう。
そう考えると頭が痛い。妙に胸がざわざわする。
俺はなにか大事なことを忘れている。
事故に遭う前、神田に負けることはまったく考えていなかった。微塵も心配していなかった。なぜだ。負け慣れているからか。いや、違う。なにを忘れてるんだ。
「神田に絶対に勝てる方法だ!」
秘策があったはずだ。焦る必要がないほどの秘策が。どんな方法だったんだろう。それを思い出せばあくせく勉強しなくてすむじゃないか。
「カンニングペーパー……なんてありきたりな方法じゃない。もっと確実な……なにか」
確実ではあるが、母さんにだけは知られてはいけない。そう考えていた。
後頭部がひどく痛んだ。思い出そうとするとなにかが邪魔をしているようだ。
左右を見回したが美羽はいない。
思い出せない以上、地道に頑張るしかない。両頬を叩いて気合いをいれたところで、ラインの着信音が聞こえてきた。清水からだった。
『きみは悪い子だね。ますます興味がわいてきたよ』
「……!?」
「ただいまー」
いやなタイミングで美羽が帰ってきた。固まっていた俺の手元を見て歓喜の声をあげた。
「清水先輩! やだあ、だいしゅき!」
美羽に身体を乗っ取られていたとき、清水はキスをしたのだ、俺の頬に。衝撃の場面を思い出すと悪寒が走った。まるで自分がキスされたように、ないはずの感触がよみがえる。
「やばい。集中できない!」
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