第3話
「ありがとうございます。妹さんですね。私は森崎哉哉といいます。高村君とは、あの、友達ってほどではなかったんですが、その」
「哉哉さん。お兄ちゃん、もしかして、学校でいじめにあってました?」
俺は自分の手指をさすって、その存在を確かめた。細いわりに握力は強いほうだ。
妹の梓を見やる。森崎よりもさらに一回り小さい梓は中学生にしては小柄なほうだ。ハムスターがキーキーと鳴いているように見える。
缶コーヒーをぐびぐびと飲んでいる。一気に飲み干すや、「ぷはー」と息を吐いた。外見は可愛いが、中身はおっさんだ。
そして俺のことは、まったく目に入っていない。
梓だけでなく、母さんや森崎にも、おれは見えていない。
「おい、梓」
伸ばした手のひらは、するりと妹の後頭部をすり抜ける。
「あぁ……やっぱり……」
俺には実体がない。
ベッドの上の人物を見る。あれは俺なのだ。穏やかな顔。意識不明の重体。そりゃそうだ。目が覚めるわけがない。魂の抜け殻なんだから。
「私は気づかなかったけれど、なかったとは言い切れないかもしれません。屋上から飛び降りるなんて、よほど追い詰められていたんですね」
森崎が眉をひそめる。
いや、俺はいじめられてなかった。そもそも自殺なんかしていない。そんなキャラじゃない。誹謗中傷された気分だ。そのときの記憶はないけど、死にたいなんて考えたことは人生で一度もなかった。ほかでもない、俺が保証する。
「いつも明るくて笑顔で。高村君はクラスの人気者です。でも人知れず、何か悩んでいたのかもしれません。それをおくびにも出さない強さが、心の柱を折ってしまったのかも。SOSに気づけていたら、私でも何かできたかもしれないのに」
「森崎ぃ、勝手にお前の高村弓弦像を語るな」
悪くない評価で嬉しくはあるが。だが、いくら声を張り上げても、誰の耳にも届かない。
しんみりとした空気が病室を支配する。そろそろ身体に戻ったほうがよさそうだ。これ以上、母を苦しませるのも、森崎を苦悩させるのも、妹に心配かけるのも──
「バカじゃん、お兄ちゃん」
梓がベッドを蹴った。
ベッドの上の俺の身体がぐらぐらと揺れる。妹はすぐに手が出る性格だが、重体の兄にたいして蹴りを見舞うなど理不尽きわまる暴力だ。
「やめなさい」母がたしなめる。
「死に損なうなんて、バカじゃん」
妹はさらに強く蹴った。
「死んじゃえ」
梓の顔は怒りで上気している。意識不明の兄の左頬に拳をぐりぐりと捻じ込んでいる。
早く目を覚まさないと妹に殺される。急いで身体の中に戻らなくては。
「よせよ。ハンサムな顔が歪んだらどうするんだ」
そう言って、俺の肉体が妹をぎろりとにらみ上げた。
「え…?」
俺はまだ体に戻っていない。なのに、なんで俺の体が勝手にしゃべっているんだ。
「お、お兄ちゃん!?」
「弓弦!」
「高村君!」
俺の身体はむくりと上半身を起こして大きく伸びをした。
「ふああ。よく寝た」
「よかった、意識が戻ったのね。気持ち悪くない? 痛いところはない? すぐに先生と看護師さんを呼ばなきゃ」
「大丈夫だよ。気分爽快。お腹がすいたくらいかな。早く家に帰りたいよ」
俺の身体はベッドから降りようとして、母さんに止められた。
「先生に診てもらわなきゃダメでしょ。それより」母さんは一拍置いて「どうして病院にいるか、わかってるの?」
「え、あ、まあ」
「なんで自殺なんてしたの。悩み事があるなら全部話してくれたらいいのに。家族なんだからなんでも支えあ──」
「え、自殺?」俺の身体は一瞬目を瞠った。「心配しないで。自殺なんてしてないよ」
「……事故だったの?」
「うん、そう、足を滑らせただけ。はーはっはっは」
俺の身体は絵に描いたような大笑いをした。
「そ、そう。ならいいの。そうよねえ、あんたが自殺なんてねえ」母さんはあからさまに安堵した顔になった。「なんだあ、誤解だったのね」
「お兄ちゃんのばかあ」
梓は俺の首、いや、実体のほうの首をヘッドロックした。
「おい、せっかく命拾いしたのに絞め殺す気か」
「だってえ」
「わかってるよ。お前はほんとは優しい。でも素直じゃない。もう充分、気持ちは伝わってるよ。僕を心配するあまり言動が百八十度ずれちゃうんだよな」
「きも!」
妹は俺の肉体を突き飛ばしたが、その顔は真っ赤になっている。
「お兄ちゃん、おかしいよ。頭壊れたんじゃないの?」
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