第14話
無事に病室に滑り込んだ。ただしトラブルがひとつだけ起こった。トイレに行った美羽が不機嫌な顔で戻ってきたのだ。
「触らないでやろうとしたのに、狙いが定まらなかった!」
下半身の話題だと気づくまで、俺は五秒かかった。
「ああああ。やだやだ。あんなもん、触りたくなかったのに、洗うときとパンツにしまうときに触んないとだめだったし」
枕に突っ伏して悔し涙を流されては、こちらも黙っていられない。
「洗わなくていいんだよ。振って雫を落とせばいいの。見られて弄られた俺のほうが叫びたいよ!」
清水に俺の身体を献上しようとしたくせに。
「やだー、汚いじゃん。初めて触るのは清水先輩のになるはずだったのに。しかたないから次に触るのは清水先輩ので妥協する!」
「俺の手が汚れるわ!」
どころか、抱いてくれとか言いやがったよな、こいつは。一刻も早く体を取り返さなきゃ。
「ちゃんと寝ろよ。熱でも出たら明日……もう今日か、退院させてもらえないぞ。……ところで俺ってどこで寝るの?」
「そこらに転がればいいんじゃない? どうせ誰も見てないし」
素朴な疑問だが、霊体も眠らないといけないのだろうか。訊いてみたら、美羽の答えはこうだった。
「寝なくても問題はない。でも寝たほうがエネルギーの浪費をふせげる」
「なるほど」
なんとなく察してはいたが、同じベッドに誘われることはなかった。
翌朝の検査結果は異常なし。化膿も骨折も無し。擦り傷と多少の打ち身だけで意識明瞭。健康で元気な患者は退院させられるものだ。
迎えに来た母さんは機嫌がよかった。紙袋の中から着替えを出してベッドに並べていく。
「そりゃ事故に決まってるわ。自殺だったら恥かしくて世間に顔向けできないもの」
反応に困ったのか、美羽がこちらを見る。
肩をすくめて見せた。
母さんは昔から厳格だ。好き嫌いがはっきりしている。好きか嫌いかが善悪にすりかわることもよくある。母さんにとっては、自殺はあるまじきことなのだ。
美羽には異論があるかもしれないが俺は母さんを落胆させたくはない。
個人経営の書道教室で長いあいだ先生と呼ばれてきた人である。生徒には『書の乱れは心の乱れ』『墨を磨るときは心をまっすぐに立てなさい』と生徒を叱咤している。『黒い墨を含んだふくよかな筆を白い半紙にのせるとき、迷いはすべて消える』と怪しいこともよく言っている。残念ながら、意味はわからない。正座が苦手な俺は中学生のときに書道をやめた。粗忽ものの妹は墨をよくぶちまけたので、小学校低学年でやめた。母は嘆いたが人間には向き不向きがある。
ただし、墨を磨ることだけは今でも好きだ。透明な水が艶のある墨色に変わっていくとき、濃くなっていく墨の香りに恍惚となることもある。母さんとの目に見えないつながりも感じられる。
「あんたが飛び降りたって連絡があったとき、私ったらてっきり……」
「てっきり?」
「ううん、なんでもない」
母さんは埃でも払うように手をひらひらさせ、顔をしかめた。嫌なことを見たり聞いたりしたときの癖だ。
「かばんを一緒に落としちまった気がするんだけど。どこにあるか知ってる?」
「家にあるわよ。全部預かったから。でも一緒に落としたんじゃなくて、教室に残っていたみたいよ」
「……スマホは無事?」
「一緒に落ちたのにひび一つなかったよ。運がいいこと」
スマホを拾おうとして落ちた説が優位になった。ほっと息を吐く。
警察の聴き取りには美羽が上手く対処した。
「校舎は三階建てで屋上から地面までは15メートルくらいだろ。真下にはエアコンの庇や樹木や植栽があってクッションが多い。自殺するなら、もっと場所を選びますよ。フェンスに頭をつけてスマホを弄っていたら誤って外に落としちゃって。手が届かなかったからフェンスを越えたんです。で、バランスを崩して……ああ、怖かった。思い出すと、ほら、手が震える」
「自殺じゃないときいて安心したよ。しかし強運だねえ」警察は頬を緩ませる。「内臓破裂や脳挫傷どころか、全身打撲や骨折もなく、せいぜいが草木が当たって掠り傷ができただけなんて」
「京都の清水寺、行ったことありますか?」
「ああ、大昔だが、修学旅行で行ったことあるぞ」
「清水の舞台は地面まで約13メートルあるけど意外に生還率が高くて、十代の男女は9割が助かっている」
「へえ、詳しいなあ」
「失敗率の高い清水の舞台程度の高さしかないとこで飛び降り自殺なんてしませんよ」
美羽が笑うと、警察も母も看護師も笑った。どうやら美羽の言い分を信じてもらえたようだ。
もし俺だったら「自殺なんかするわけないだろう、バカにすんな!」って警察に怒鳴っていたかもしれない。
隙を見て「グッジョブ!」と親指を立てると、
「措置入院にならなくてよかった。時間の無駄だもんね」と美羽が呟いた。
措置入院がなにかわからないので曖昧にうなずいた。
「母さんや梓を残していくなんて、俺がするわけないじゃないか。そう言ってくれ、美羽」
そう耳元で囁いたが、あっさりと無視された。
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