第25話
清水がなにを言っているのかわからなかった。しばしぽかんとしてようやく、それが落下事故のことだと気づいた。
「なにをいって……」
反射的に首を左右にふった。妄想で非難されてはたまらない。
「あ、そうか」美羽がぽんと手を打つ。
「屋上から教員室に忍び込んで……教員室?」
「テスト用紙は教員室に保管はしない。校長室のキャビネットの中だ」
自分で言いながら目眩を感じた。次いで脳みそをこじ開けられるような強烈な痛みに襲われる。工具用ニッパーが脳裏にちらつく。我慢できずに頭を抱えてその場にうずくまった。
「大丈夫か、弓弦」
教員室は二階、校長室は三階。フェンスを越えて屋上から下を見下ろした記憶がよみがえる。俺の右手はスマホではなく、工業用の無骨なニッパーを握っていた。その重さを確かめて腰に手挟む。視線の先は張り出した庇の上にあるエアコンの室外機。
「私、さっき現場をもう一度見てきたのよ。外壁の出っ張りを伝えば屋上から庇に降りられる。庇から校長室に潜り込むことは可能。ただし窓に鍵がかかっていたら無理だけど。さすがに窓を割って入ったら大騒ぎになるでしょ。弓弦は校長に窓を開けさせたのね」
エアコンが壊れていたら熱気が溜まらないように窓を開けておくだろう。校長はクーラーの効いた教員室に避難して、校長室には鍵をかけておく。それを期待して──
「俺がエアコンを壊したのか」
口に出した途端、真っ暗な部屋の電灯が突然灯ったかのように、記憶が現れた。
ニッパーで配線を切ればいいとタカをくくっていた。だがフードをはずすのが困難で、フィンを止めようとして隙間にニッパーを突っ込んだ。嫌な音がして停止した。結果オーライ、と額の汗を拭った。
「弓弦は二回フェンスを越えているね。エアコンを壊すためと忍び込むため」
一回目はエアコンを壊すため。二回目は開いた窓から校長室に忍び込んで問題用紙を盗むため。
七月になって急に暑くなったせいで修理業者は忙しい。すぐには来れないと踏んだんだろう。清水はそう言って、確信を込めた目で俺を見た。
彼の言葉の隙間を埋めるように、俺は口を開いた。
「室外機を壊したのは放課後。業者が忙しいのは知ってたけど、いつ来るかは賭けだと思ってた。清水が言うみたいに綿密に計画してたわけじゃない。でも校長はいつも定時に帰ることを知ってた。業者を待って残業するタイプじゃない。夕方、人目が少なくなったららくに忍び込めるだろうと期待してた。テスト用紙は盗むのではなく撮影するつもりだった。気づかれたら差し替えになるからね」
思い出したと同時に、すらすらと告白が口から流れでた。清水に隠しても仕方がないし、隠しても無駄だと思った。
それから、告白した内容を、うんうんと頷きながら噛みしめている清水を見るのは不思議と悪い気がしない。
「でもさ、もしあの厳格なお母さんに知られたらただじゃすまないでしょ」
美羽の言うとおりだ。母さんに知られてはならない。自殺疑惑以上に苦しめることになる。
「母さんには絶対に喋るなよ、清水」
「だから忘れていた方がいいって言ったろ。僕は真相を確かめたかっただけだから、もう充分、満足だ。もう失礼するよ」
言葉通りそれ以上糾弾することなく清水は腰を上げた。
「もう帰るの」と玄関口で引き止めようとする母さんに、「また来ますね」と爽やかな笑顔を返す清水。
その背中を目で追う。なぜかやつの自宅とは逆方向に歩いていった。
「どっかに寄るのかな?」
美羽が慌てたように声をあげた。
「清水先輩、方向音痴なんだよ。ちゃんと教えてあげて」
しかたなく、清水を追いかけて肩を叩く。
「どこ行くんだよ」
「うん? とりあえず弓弦の高校まで戻ろうかと」
来た道を戻ればたとえ遠回りになっても迷子にはならないだろう、とまるでとっておきの秘訣を開陳するようにドヤ顔を輝かせる。頭の出来は良くてもこれだけ不器用だと生きていくのに不都合が多そうだとひそかに同情する。
清水の家は病院の近くだ。病院が見えるところまで連れていくことにした。
「悪いね。体調が良くないのに。……あれ、こんなところにコンビニがあるんだ。知らなかった。いつからあったんだろう」
清水は住宅街の中にまぎれたコンビニに目をやった。
「ああ、十年くらい営んでるかな。コンビニができる前は整骨院、さらに前は駄菓子屋だったな。清水って最近引っ越してきたんだな」
こじんまりとしているが俺の家からも清水の家からも一番近いコンビニだ。
「なんでそう思うの?」
「昨日今日オープンした店なら知らなくて当然だけど、清水の家から五百メートルくらいしか離れてないだろ。ガキの行動圏だ。どう、俺の推理も冴えてるだろ」
「なるほどね。寄っていっていいかな」
清水はアイスを買った。二個が上下逆さまにくっついたチョココーヒー味のアイスだ。
「弓弦がいてよかった。半分食べてくれるかな」
「ウェルカムウェルカム。……よかったってなんで?」
「実は……ね」
半分を手渡すと、清水は少し照れたように笑った。
「このアイス好きなんだけど、一個食べてるあいだにもう一個が溶けちゃうんじゃないかと心配で、外で食べることができなかったからだよ」
「心配性だな」
しばらくはふたりで同じアイスを味わいながら並んで歩く。アイスを分け合うようすを美羽が視界の端で羨ましそうに見ている。
「さっき弓弦が言ってたの、はずれ」
ぽつりと清水が呟いた。
「え、さっきって?」
「僕は生まれたときからこの町に住んでる。でも行動圏はごく限られた範囲だ。学校に行くにはこの道、駅に行くにはあの道、と信号の数を数えてもっとも効率のいい道を選択している」
なんとなく清水らしいと思ったが、それは最近の話ではないのか。
「ガキのころはもっと自由だろ?」
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