第三章 想い合い
1. ジャイアント・キリング
「きょ、今日からお世話になります。朝原紗衣です。三年ほど在宅で入力仕事をしていました。一日も早く、皆さんのお力になれるよう頑張ります。よろしくお願いします」
広いオフィスの一室、朝一の業務時間にお邪魔して、しどろもどろの自己紹介を述べて深々と頭を下げる。何故だか妙に生暖かいおばちゃんたちの笑顔と拍手をいただきつつ、横目に隣を見上げれば我が愛しの男は、ビジネススマイルを浮かべる口の中でもごもご爆笑を堪えており、後で机の下アングルからの盗撮風動画を送りつけようそうしようと心に決めていれば、
「僕の妻です」
告げられた一言に、空気が凍り付いた。
◇
「おいトウリ君、今朝のは一体どういうつもりだい」
『牽制』
「嘘つけあの階の部署ほとんどパートのおばちゃんしかいないだろう」
『社員の男も居るぞ。全員既婚者だけど』
知っている。朝の仕返しにいかがわしい雰囲気のNTR風写真を送りつけたいと言ったら喜んで協力してくれた。トウリには「ナニコレ家族写真?」と返された。
腹いせとばかりに通話をブツ切り、歩き慣れない並木道を行く。晩夏の日差しが沈んでゆく黄昏時、彼に見せるよりは幾分落ち着いた仕事用の普段着に身を包み、日傘の中で、遠く雨の気配を感じながら。
彼の待つ、彼の家へと。
すっかり遅くなってしまった。入社手続きに時間がかかるのは分かっていたが、部長とあまりにも話が弾み過ぎた。驚くほど気の良いおっちゃんだったのだ。そして月末にはもう歓迎会が予定されているらしい。気の早い話だ。
心なしか帰宅連絡のレスがやたら早かったことに苦笑し、近くまで来たらもう一度連絡入れろとは束縛彼氏に片足突っ込んでないかと息を吐く。
露ほども悪く思っていない自分を、棚に上げながら。
何とも、慌ただしい一週間だった。とりあえず当面必要なものだけ運ぼうと相成ったのがあの日の午後で、実家から持ち込んだ家具類は向こうでも使うだろうと送り返し、さっさと部屋を引き払ったのが昨日の木曜である。
凄まじい勢いで外堀を埋められていることに若干の戦慄を覚えつつ、男と住むことになった経緯を母へ連絡すれば「大丈夫? 変態じゃない?」などと問うから「筋金入りのド変態だよ」と返してやったら「じゃあ大丈夫ね!」ってどういう意味だオイ。
ともあれその他必要な生活用品も買い揃えられ、彼の部屋以外スッカラカンだった3DKの一室は、既に僕の部屋として仕上げられている。
「フットワーク軽過ぎなんだよ、トウリ君」
全く――自分はどれだけ、彼に好かれているのだろうか。
苦笑をこぼしながら日傘を畳む。年季の入った階段を上りつつ、一本限りの合鍵を財布から取り出す。驚くほど軽く手渡された、未だに回し方が手に馴染まないソレで、ドアを開き、
「ただいま。トウリ君」
「お帰りサエ。お疲れ様」
奥の部屋から声だけが返る。後ろ手に戸締りを済まし、玄関横の洗濯機へと服を脱いで放り込み、全裸にスリッパだけ履いてさっさと風呂へ向かう。ちなみにトウリが目の前に居るにも構わず脱いでから彼が出迎えてくれることはなくなった。もしかしてこのために連絡入れろと言っているんじゃないだろうなあのヘタレド変態め。
「ねえトウリ君。君との関係を根掘り葉掘り聞かれたから「セフレです」って乗り切ったのは良いとして、何か君やたらおばちゃんたちに持ち上げられてるのは何なんだい? ハーレム主人公か何か?」
「しれっと聞き捨てならないことをヨシで済ませんじゃねえよ。ナニ俺そんなことんなってんの? てか斬新だな熟女オンリーのハーレムラブコメ」
「ああ、何か『
「マジ? ルビに比べて当て字が貧弱過ぎるだろ……。あー、アレかな。入社直後の配属先がお局ババアと不愉快な子分たちの動物園だったから、ブラックボックス化してた業務解体して、簡略化とマニュアル化して、ついでに俺含めた過去のハラスメント事案全部明るみに出して、役員レベルの問題にしてパート派遣のゴミクズ共ごとまとめて抹殺したやつ。
その部署丸々無くなったんだけど、年間千五百万円の人件費削減が出来た」
「ほぼ英雄じゃないかソレ。部長めちゃくちゃ感謝してたよ、今日はその話で遅くなった」
「前職前々職の敗北経験がやっと活きただけだよ。あとその部長がめちゃくちゃ協力してくれたんだ。十年来困り続けてたんだってさ」
なるほど、僕のコネ入社がすんなり通るわけだと納得する。まあトウリに言わせれば、入力業務が数年分にオタクレベルのPCスキルがあれば即採用だということだったが。
「サエこそ良かったのか? パート採用で」
「良いんだよ、ブランク長過ぎていきなり週五フルタイムとか無理ゲーだし。それにあの感じ、実は僕の部署でも現場レベルの業務見えなくなってるところがあるんじゃないかい?」
「サエさんさすが過ぎるわ。来年には正社員登用あるぞ」
「しばらくは遠慮するよ。君との新婚生活に注力したいからね」
えっ、という返事を背に、今日の理解らせポイントプラス1などと思いつつ、温かな空気に満たされた浴室の扉を閉める。本当に用意の良いことだ。きっと風呂上りには夕食が準備されているに違いない。僕よりよほど主婦ムーブしてるじゃないか。
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