5. 押してもダメだから

 真夜中。


 ゴソゴソと、自分の布団が捲られる音には、やっぱりかという思考が自然と浮かんだ。何もしないわけがないとは予想通りで、ある種の期待通りで。隣にぽすんと寝転がる、安物の折り畳みベッドを軋ませもしない軽さに、驚きと緊張の息を漏らせば、


「カモたん、起きてる?」

「……初めから寝てない」

「ふふっ。僕も」


 ゆっくりと瞼を開けば、小さな影の輪郭がある。電気は全て消すのが習慣で、窓もカーテンも閉め切っている。ルーターの起動ランプの頼りない明かりは、この暗闇に互いの表情を浮かばせるほども無い。常夜灯を点けようにも、リモコンのスイッチは、細い肩の向こう側だ。


「そう身構えなくていいよ。何かする気なら、とっくにそうしてるからさ」


 それでも。


 浮かべる表情が、何気ない仕草が。


 互いに、ありのままに、伝わり合っていると思えた。


「ちょっと、聞きたいことがあってね。答え辛いことなら、いいんだけど」

「まあ、聞いてから考えるよ。何?」


 うん。サエは小さく頷く。


 半身をシーツに擦りつける僅かな身じろぎは、きっと、ほんの少しの逡巡だったのだろう。


「君の名前。聞いても、いいかい?」


 一拍――遅れて。


 言葉の、意味を。


 理解、した。


 喉が、やけに乾く。腹の奥底に重たいものが沈む。背中に氷水を流し込まれる。


『カモリ』と『サエ』。そんな名前はネット上の偽名に過ぎないという気付きは今更に過ぎて、取り繕う間もなく、言い訳を口走ったことに思考など挟んでいなかった。


「えと、その、勘違いしないで欲しいんだけど。教えたくなかったわけじゃなくて」

「うん」

「普段ネットで使ってる名前だから、違和感が。自然に馴染んでたというか」

「うん、分かった。気にしてないよ」


 だから、ね?


 微笑むような、子供をあやすようなサエの声音に、また、今更過ぎる唾を飲み込んで。


 そうではない。そうではないと。


 細く長い呼吸に、己がすべきことを、定める。


透里とうり水上みなかみ透里」

「みなかみ、とうり」


 一音一音を。


 確かめるように、飲み込むように、サエは呟いて。


「じゃあ……トウリ君、だね」

「……っ」


 勘違いでも、思い上がりでもなかっただろう。


 確かな親愛の情を込められた己の名前に、堪え切れず、転がって枕へ顔を埋めた。


 くっくっと心底愉快そうに漏れる吐息が、熱を帯びる耳を震わせ、掛かる髪を揺らす。


「何となく分かってきたよ。君は強く叩かれると相応に反発してみせるけど……優しく触れられると、存外に脆い」

「分かってるならやらないでくれ……」

「僕が実は力ずくに弱い、なんて言ったら、君はやらないのかい? トウリ君」


 やらないと確信を持って言える。


 もし押し倒して、しおらしい顔でもされてしまえば、間違いなく止められなくなるからだ。


 そんなヘタレた根性も正しく受け取ったのだろう。ことさら愉快そうに肩を震わせるサエに、息を吐いて、身体を横たえて、両目を眇める。


「サエは。名前」

「みさえだよ」

「み……っ!」

「嘘だよ」

「お前は……本当に……」


 頭を抱えてうずくまる。完全に手の平の上だ、成す術も無く転がされている。何よりこんなしょーもないことが嬉しいやら楽しいやらでたまらない、自分自身に呆れ果てる。


 最近は息子から名前呼び捨てもケツデカ呼ばわりもされなくなってしまったビッグマミーのご尊顔を、ようやく頭から追い出した頃に、サエが口を開く。


紗衣さえ朝原あさはら紗衣だよ」

「……本名まんま? 覚悟決まり過ぎだろ」

「ふふふ。君とメッセージやり取りする前に、名前変えたって言ったら信じるかい?」

「信じるわけないだろ。写真とプロフだけで何が伝わるんだよ」

「それ本気で言ってる? あんなふざけた内容にしておいて」


 サエは口元に手を当てて、笑いを堪えながら、


「最近面白かった作品ばかり羅列して『最近はプリキュア映画で三回泣かされました。そんな感じの人間です』って、いやどんな感じだよ」

「いいじゃねえか、下手に隠して後でドン引きされるより」

「挙句の果てに『一生に一度やってみたいこと:固有結界』はもう馬鹿の領域なんだよ」

「一生に一度ってのが良くね? 本当にここぞのたった一度しか使えない感じで」

「分かるよ。分かるけど、ソレをいい年したアラサーが出会い系でさあ……っ!」


 ヒーヒーと腹抱えて笑っているサエだが、こっちからすればおまいうでしかない。レート戦が趣味、ようつべよりニコ動派はまだマジな方で。ネタを抜きに仮面ライダー剣が好きだと書いてあった。一番熱かったのはカード無しにスペードキング倒したところだと。


「コイツ絶対にヤバい男だと思ったよ」

「コイツ絶対にヤバい女だと思ったわ」


 ここまで躊躇なく己を晒せるほどに、まだ、腹の底に抱え込んでいるモノがあるのだと。


 ならば――突っ込んでみるしかあるまい。


 ただの根性ひん曲がったクソ野郎ならば退けばいい。自分の捻くれた内面と折り合いついてない奴が一番危険だ。登録者など他にごまんといる。またその内、変な奴を見つけることもあるだろうと、数撃っていくしかないのは転職と同じである。無数の地雷一つ一つに一喜一憂などしてはいられない。仮にも、大人の貴重な金と時間が費やされている。


 だが。


「挨拶もそこそこに『最近エロゲ何買った?』は頭おかしいんじゃねえかお前」

「素直に答える君も狂ってるよ。しかも存外愉快な、優しくて甘っちょろい作品ばかりでさ」

「作中キャラが苦しむの上等な逆張り鬼畜のどこが優しいんだよ」

「救われるのが前提の苦難だろう? 闇が深いほど、光は眩しくなるのだから」


 サエが、ゆっくりと手を伸ばす。小さな手の平が、頬に触れる。


 暗闇の中、彼女は笑っていたと思う。


 眩しそうに、目を細めていたと思う。


「いつか、君の書いた小説を読ませてくれないかい」

「……もう少し、覚悟が決まってからでいいか」

「もったいぶるねえ。いいよ。きっと、君が一番弱いところだと思うから」


 くすり、と。


 小さな笑みが落とされて、柔らかに撫でられていた手が、離れる。


「おやすみ。トウリ君」

「ああ。おやすみ、サエ」


 今までとは、まるで違う響きが込められた名前を、互いに呼び合い。


 深い水底へ沈んでいくような穏やかさの中で、意識が薄れていく。


 何故だか――とても心地の良い、匂いに包まれていた。






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