第37話

 ピーちゃんジジイを連れて、慎二が家に帰ってきた。街中を走り回って捜索したために、二人とも疲労の度合いが濃かった。

「ワシ、寝るわ」と言って、自らケージの中へ入った。小さくうずくまると、ピーピーと小うるさい鼻息をたてて眠りに落ちた。

「ふう」

 慎二がソファーに横たわって一息ついた。ソフトレザーのちょっと硬くて柔らかい感触を頬で味わっていると、ポケットのケイタイが震えだした。ジーパンが太ももに張り付いていたので、取り出すまでに少し時間がかかった。 

「慎二か」

「赤川か」

 相手は赤川である。

「今日はなんとなく授業をサボってしまったよ。べつに具合が悪いわけじゃないんだ」

 自分を心配して電話をかけてきたのだと思っていた。

「慎二、落ち着いて聞いてくれ。大変なことになってしまったんだ」

 赤川にはめずらしく、押し殺した声だった。慎二はよくない知らせだと直感した。友人が話し出すまでの一呼吸の間に、あらゆる衝撃に耐えられるように身構えた。

「なにがあったんだ」

「朧が刃物で人を切りつけて、それで大騒ぎになってるんだ」

「えっ、朧が」

「そうだ」

「おい、冗談はやめてくれよ。いろいろあって、こっちは大変なんだ。いまはふざけている場合じゃないんだよ」

「まじめな話だ。朧は校長室にいるよ。警察官を待っているらしい。逮捕されそうだ」

「ウソだろう。そんなバカなことがあってたまるか」

 朧は、暴力というものからほど遠い存在だ。無辜の被害者となることはあっても、彼自らが誰かを傷つけるなど考えられないと、慎二は首を振る。一体どういうことなのか、くわしく知る必要があった。

「切りつけたって、誰をだ」

「刈谷先生だ」

 刈谷教諭は、その類人猿的な骨格と風貌から、生徒たちからゴリラコングの名称を頂戴している。以前、慎二と朧が女子トイレへジャンプした時に、雪子がいる個室のドアを蹴破った野性味あふれる威圧的な教師だ。

「どうして刈谷なんかに」

「セクハラされて、もめたって話だ」

「セクハラって、どっちがセクハラしたんだ」

 その質問への答えは自明であるというように、友人は苦笑しながら言う。

「ゴリラコングな刈谷先生にセクハラしたいと思う女子はいないだろう。当然だけど、朧が被害者だよ。胸を触られたらしい」

 一瞬、慎二の頭の中が混乱するが、どうにか事の成り行き理解しようと努めた。

「朧はそのへんの女子よりは、よっぽど顔がいいからな。男でも触りたくなったんだろうか。いや、仮谷にそっちの気があるとか」  

「はあ?なに言ってんだよ。ゴリラコングが朧の巨乳を狙ったのに決まってるだろう。セクハラされて刃物で切りつけたのはやり過ぎだけど、刈谷が悪いんだ。正当防衛だよ」

 赤川は後輩を庇うことを言うが そもそも慎二との会話が噛み合っていない。

「巨乳って、なんだよ。エロ本の話か」

「エロ本じゃねえよ。朧のことだ。顔がボーイッシュだからって、教師が女の子の胸を触っちゃダメだろうよ。オレたちの後輩だけど、いちおう社会人として働いている女性なんだから」

 慎二の頭の中に???が果てしなく連続していた。教師によるセクハラ行為や、それに対する正当防衛の良い悪いを論じる前に、正しておかなければならない前提条件がある。

「朧は男だぞ。太っているわけでもないし、巨乳とかありえないだろう」

「慎二、菖蒲ヶ原さんが彼女になったからって、そういう言い方はないんじゃないのか。一時は朧と付き合うんじゃないかと思っていたけどな。ちゃんと女として見てやれよ」

 朧の性別に関して、両者の認識が異なっていた。あいつはなにを言っているのだと、二人は眉をひそめて携帯端末を耳に押し当てている。

「・・・」

 沈黙して五秒ほど経過していた。慎二から口を開く。

「とにかく、これから学校に行くよ。朧に事情を聞いてくる」

「わかった。あとで会おう」

 通話を切った慎二は、急いで制服を着こんだ。泊りがけの両親はまだ帰って来ないので、ピーちゃんジジイにおとなしくしているように念を押そうとしたが、熟睡しているので放っておいた。

 学校に着くと、ちょうど授業の合い間だった。慎二は自分の教室には寄らず、まっすぐ校務員室へ向かった。途中、階段で担任とすれ違って、おまえは風邪で欠席しているはずではと問われたが、治りましたと言って早足で逃げた。廊下を進んでいると、前方から賑やかな集団がやってきた。

「菖蒲ヶ原さん」

 先頭を行くのは雪子である。彼女の後ろは、ほとんどが男子生徒だ。慎二ではない男子が「雪子さん、雪子さん」と、さも媚びるように名前を呼んでおり、彼女自身もうれしそうに応えていた。

 もうすぐすれ違うというところで、雪子は慎二の存在に気が付いた。しかし、立ち止まったまま自分を見つめている男子を一瞥しただけで、声をかけることなくそのまま通り過ぎた。すました表情が、ゆっくりと遠ざかってゆく。

 恋人のつれない態度に慎二は動揺する。「菖蒲ヶ原さん」とかすれた声をかけるが、とり巻きのざわめきにかき消されてしまった。多少の雑音がうるさかろうとも、彼の声に気づかない雪子ではない。彼女は知っていてシカトしているのだ。

 慎二は、それ以上のことはしなかった。彼女に無視されたからって、心を痛めている場合じゃない。いまは朧のもとへ急がなければならないのだ。

「慎二、来たか」

 複雑な心境のまま校務員室の前に来ると、そこに赤川がいた。さっそく状況を訊く。

「それで朧は」

「学校にはいないみたいだ。たぶん家だろう」

「そうなのか」

 朧は、すでに帰ったとのことだった。慎二はもっとも知りたくないことを確認しなければならない。

「捕まったのか」

「いいや。警察がきて事情聴取されたけど逮捕とかはなかったよ。ヘタに騒ぐと刈谷も痴漢で逮捕だからな。学校側が丸く収めたって感じだ」

 とりあえずはホッとした慎二が、ふーと息を洩らした。

「刈谷は、どれくらいの怪我なんだ」

 刈谷教諭への心配や心遣いなど微塵もないが、朧がどれほどの凶行に及んだのかを慎二は知りたかった。

「顔を斜めに切られてたよ。縫うほど深くなかったってさ。絆創膏を何枚も貼ったゴリラ顔がおっかしくて、笑っちゃうよ」

 その光景を思い出して、赤川はクックと笑っていた。

「朧がセクハラされたって、どういうことだ」

「近くで見ていた女子に聞いたんだけど、最初は刈谷から絡んだってことだ。朧が隠れ巨乳なのはみんな知ってるだろう。刈谷のやつ、今日にかぎって、なんでそんなに胸が膨らんでるんだって言って、いきなり触ってきたらしいんだ」

 ゴリラの発情期だと付け加えて賛同を得ようと友人を見るが、慎二は無表情だ。

「ちょうど仕事でカッターを持ってて、とっさに手が出たらしい。朧が女でよかったよ。男だったら刈谷の顔が割れてたところだ」

 そうすると過剰防衛となってしまい、朧は有無を言わさず逮捕されていたという意味だ。慎二は神妙な態度で聴いていた。

「なあ、赤川」

「なんだ」

 二人は校務員室の前で話している。授業が始まろうとしているので、生徒たちの姿はまばらだった。

「朧はいつごろから女になったんだ」

「いつごろって、なに言ってんだよ。ずっとに決まってるだろう。中学でベルマーク係の時に、めずらしく話しかけてくる女の子がいるって喜んでたのは慎二じゃないか」

「そうか」

「さっきもおかしなこと言ってたけど、大丈夫か。朧だけじゃなく、おまえまでもおかしなことにならないでくれよ」

 真顔でいると妙な勘違いをされそうなので、慎二は下手くそな愛想笑い浮かべる。

「なあ、雄別朝子さんのことなんだけど」

「ゆうべつ、だれ?」

 朝子のことを訊くが、赤川の反応は前と同じある。慎二はゆっくりと頷いた。

「じゃあ、一組の雄別夕子さんは」

「いや、知らないけど」

「菖蒲ヶ原さんを知ってるか」

「知ってるに決まってるだろう。慎二の彼女なんだから」

 バカにされたように感じているのか、赤川はやや不満気だ。そこへクラスの女子たちが通りかかって、イケメン男子を教室へ帰ろうと誘った。友人との気まずさを感じていた彼は、「じゃあ、先に行くわ」と一言を置いて彼女たちと行ってしまった。

「君って、新条だよな。探してたんだよ」

 一人でつっ立っていると、後ろから声をかけられた。慎二が振り向くと、三年生の男子がいる。

「何か用ですか」

 慎二が懇意にしている三年生はいない。知らない男だ。 

「いや、そのう、菖蒲ヶ原と別れたって聞いたから、彼女のことをいろいろ知っていると思うから、ちょっと教えてほしいんだよ。好きな食べ物とか、趣味とか」

 慎二の頭の回路が動き出すまでに数秒ほど要した。他人から自分のことに関する重大事を聞かされるとは、夢にも思ってもいなかったからだ。

「別れたって、なんですか」

「別れたんだろう。さっき菖蒲ヶ原が言ってたぞ。まあ、さすがに彼女と付き合うのはハードルが高すぎるよな。おれも告白しようかと思ってんだけど、望み薄かなあ」

 自嘲気味にそう言うと、三年生の男子が行ってしまった。慎二に対する質問は、それほど重要ではなかったようだ。

 雪子自身が慎二との恋人関係が終わったと言っている、とあの三年生は言っていた。そんなことあるはずがないと、当事者は強く首を振った。

 慎二は走った。廊下を進み階段を下りて、なおも突き進む。雪子がどこにいるのかは、なんとなく感でつかんでいた。玄関で靴を履き替えることもなく、逆土足な状態で外に出た。

 校庭で、雪子とその取り巻き連中に追いついた。彼氏の突然の登場に、ざわつきが一瞬でおさまった。男たちが道を開けて、雪子と慎二が対面できるようにした。

「菖蒲ヶ原さん、二人だけで話がしたい」

 それだけの言葉で、慎二のライフは尽きかけていた。愛を告白するよりも困難だと感じてもいた。

「新条君」

「はい」

 反射的に受け応えてしまってから、雪子の、彼氏に対する言い方がかなりおかしいと思った。

「もうあなたは恋人ではないでしょう。私たちは別れたの。だから彼女でも彼氏でもないし、まして友達でもない。すでに終わったことよ」

 雪子に表情はなかった。慎二に対する気持ちが空白となったことは一目瞭然であった。

 彼女から三下り半を受けることなく、慎二はいつの間にか元彼氏となってしまった。なにがどうなっているのか、悩む暇すら与えられなかった。 

「わかったよ。こんな俺でも好きになってくれて、いままでありがとう」

 慎二は深々と頭を下げた。群衆から敵意にも似た視線が集中する。雪子のポーカーフェイスは相変わらずだが、口元がかすかに歪んでいる。それが喜んでいるのか戸惑っているのか、慎二には判別できなかった。

 くるりと踵を返して歩き出す。もう一度、自分の背中に雪子の言葉がぶつかってくるのではないかとかすかな希望を抱いていたが、そのような奇跡は起こらなかった。背筋は伸びていたが、気持ちは縮みきっていた。

 朧は傷害事件で家に帰され、恋人である雪子からは一方的に別れを公言された。さらにペットのオウムはじいさんになってしまう。まさに八方ふさがりであり、行く当てなく歩いている慎二の顔は、どうしようもなく下を向いていた。

「少年、悩んでいるか」

 えっ、と立ち止まる。顔をあげた慎二の目の前に女性が立っていた。

「あなたは、さっきの」雄別昼子であった

「さっさと北に行きなさい」

「なに」

「だから北よ。待っている人がいるから」

 前にも同じようなことを言われた記憶があった。

「だから、なんなんだよ。北に行けって、わけが分からない」

 昼子は左手を腰に置き、右手を90度上方に掲げて真っ直ぐ指し示した。

「少年よ、大志を抱くのよ。セルフとともにあらんことを」

 その姿勢、セリフが芝居じみて、嘲られていると思った慎二は憤慨してしまう。

「ふざけてるのか」

「ふふ」

 小憎たらしい笑顔だった。

「慎二先輩」

 背後から名前を呼ばれた。その声には聞き覚えがある。慎二がよく知っている、いや、知りすぎている人物だ。

「朧」

 振り向いた先に朧がいたが、ねずみ色の制服ではない。上はダンガリーのシャツで、下はジーンズである。普段着だからでもないが、いつもの朧らしからぬ違和感があると慎二は思った。

「なにしてるんですか」

「なにって、話しをしているんだ。北に行く話を」

「北ってなんのことですか。また伝書バトですか。それとも誰かですか」

「それは」といって、慎二は昼子がいた場所を見た。しかし、そこには誰もいなかった。

「ああ、そういうことか」

 なにもかもが謎であるし、証拠は突然いなくなるものだと慎二は理解する。不可思議な現象の意味する先は、いつも手の届かないところにあるのだ。

「朧は家に帰ったんじゃなかったのか。そのう、事件のほうは大丈夫なのか」

「知ってたんですね。まあ、いまの僕は学校中の噂になっているからなあ」

 反省しているという感じではなかった。

「刈谷先生には申し訳ないことをしたと思ってますよ。なにせ、いきなり胸を触られたものだから反射的に手が出てしまって。廊下の破れた壁紙を切り取っていたので、運悪くカッターを持ってたんですよ」と淡々とした口調で話す。

「刈谷はどうして手を出してきたんだろうか。女子生徒ならまだしも、校務員の、しかも朧は男なのに」

「それは、ふだんの僕とは違うことを目ざとく見抜いたからでしょう」

「そういえば、少しふっくらとしたような気がする。太ったのか」

「ええ、とくにこの辺がいい感じなんですよ。ほら」

 朧が慎二の右手をとって、自分の胸に強く押し当てた。時速八十キロの風をつかんでいるような、むにゅっとした触り心地が伝った。

「おまっ、ずいぶんと肉がついたけど、どうしたんだ。一斗缶の油でも飲んだのか」

 どこか懐かしさをおぼえる柔らかい感触だった。五回ほど揉みほぐしてから、ふと赤川の言っていたことを思い出した。

 {巨乳}という単語が手にひらを通って脳へと伝わる。慌てて手を引っ込めると、信じられないという表情で目の前の校務員を見つめた。

「いまのは、そのう、・・・、ええーっと、ウソだろう」

 ドギマギとしてしまった慎二は、核心的な言葉を出そうと苦労する。咳払いをしてから、背筋を伸ばして朧と対面した。

「おまえは女になってしまったのか」

「そうなんです。胸の大きな女の子になったみたいです。女体化しちゃいました僕がここにいますよ」

 衝撃的な事実の吐露なのだが、朧は心をかき乱しもせずに相変わらず事務的な態度だった。

「しかもけっこうな人たちが、はじめっから僕を女性だと認識しているようで、若干名が、いまでも男だと思っています。これは不思議です」 

 赤川も、朧を巨乳な女の子だと言っていた。いつからそうなったのか、慎二は友人との邂逅を検索する。

「刈谷先生は後者で、急に僕の胸が膨らんでいたので、上着になにか入れてふざけていると思ったのでしょう」

「まあ、そうだろうな」

 突然、朧の性別が入れ替わった。ありえない出来事だが、慎二は疑うことなく受け入れた。自分の手で直接的に確かめているし、頻発する超常現象の一つだとすれば、かえって事態が進行している証拠でもある。悪ふざけや冗談だとは思っていない。

「いつから、女になったんだ」

「たぶん、今日からでしょうね。気づいたのは刈谷先生に胸を鷲掴みにされたときです。けっこう痛かったんですよ。慎二先輩みたいにソフトに揉んでくれれば、それなりに感じるんですけど」

「いや、俺は」

 女体化した朧は平然としているが、慎二は恥ずかしさをおぼえて伏し目となった。その姿を、美少女となった瞳が生温かく見ていた。

「一部の人たちの中で、慎二先輩と体育館で抱き合ったのが僕になっていましたから、記憶の改ざんは前からで、体のほうが追いついたって感じですね。誰の仕業だかはまだ断定できませんが、最終形態を知るのが怖いですよ」

「この前、赤川が言っていたよ。その時はもう、朧を女として話していたんだ」 

「そのうち全員が僕を女だと思うのでしょうね。刈谷先生はさっきまで男だと思っていましたし。ちなみに赤川先輩は、僕のことをなんと言ってたんですか」

 その質問には単刀直入に答えた。

「巨乳」

「その通りです。なにせ、こうですから」

 朧が自分のバストを下から持ち上げてつかみ、ぷるぷる振った。やや赤くなりながら、慎二は明後日の方向へ顔を逸らした。十六歳の美少女が、フフッとニヤついている。

「そのう、不便はないのか。いきなり女になって」

「トイレとかは戸惑いますね。生理用品を買ったほうがいいのか悩みます。まあ、ちょっとした冒険になりそうです」

 その件について不案内な慎二は、余計なことを言わずに頷いた。  

「ピーちゃんがじいさんになって、朧が女体化か。スーパーナチュラルが止まらなくなってきたぞ。俺も変身してしまわないうちに、この連鎖を止めないと」

「原因はやっぱり菖蒲ヶ原さんでしょう。慎二先輩への嫉妬が意識下で暴走して、この世界を無秩序な状態にしています」

「そうでもないかもしれない。菖蒲ヶ原さんの無意識は、あんがいさっぱりしたんじゃないかな」

「へえ。その言い方は、なにかあったようですね」

 最後のほうは声のトーンが下がっていた。慎二の心にわだかまったモノを、朧はすぐさま嗅ぎつけた。

「たったいま、失恋したよ。俺とは別れたってさ」

 ふっと自嘲気味な笑みを浮かべる慎二だが、その内心は泣きそうだなと、朧は喝破していた。

「なるほど。でも気にするほどでもないのでは、と思いますよ」

「気にするよ」と言って、慎二はさも落ち込んだ表情を見せた。

「よくよく考えてみてください。慎二先輩がフラれたのは自意識過剰なアンドロイドですよ。もう一人の菖蒲ヶ原さんがいるじゃないですか」

「どこを探しても、もう一人は見つからないよ。雄別夕子さんも雄別朝子さんもいなくなった。ペットはじいさんになるし、朧まで女の子になる。俺はどうしたらいいのか」

 慎二は、雄別昼子なる人物のことを話さなかった。女体化した朧は、態度では平静を装っているが内心では相当なストレスにさらされているはずだ。いまは余計な情報を与えて混乱させたくはないと考えた。

「慎二先輩、こっちにきてください」

 朧が歩き出した。振り返りもせずにどんどん先に進むので、あわてて後を追う。

「どこに行くんだ」

「風通しのいいところですよ」

 二人は、鉄筋コンクリート造りの校舎の端にある非常階段を上っていた。外部に設置された階段なので風の抜けがよく、朧の頭髪がひらひらと舞っている。

 三階の踊り場まで来た。朧は外階段の手すりに腰をつけて、慎二と向き合った。思春期の男女が秘めたる感情を告白するには、絶好の場所である。

「慎二先輩、こうなったら僕と付き合いませんか」

「いきなり、なにを言い出すんだ」

 朧は手すり壁に尻を乗せた。足をぶらぶらと振って、どこか物憂げな感じである。

「だって、菖蒲ヶ原さんにフラれたんでしょう。もう一人は見つからないし、僕は巨乳の女の子になったんだし、ちょうどいいでしょう」

「悪いが、俺は菖蒲ヶ原さん一筋なんだ」

「フラれたのに」

 朧が小首を傾げた。いまだジェンダーということに関して曖昧な彼女は、雪子とは別タイプの美少女であり、見つめられるだけでも慎二の鼓動が乱れてしまう。

「まあ、冗談ですよ」

「冗談かよ」胸の奥に溜まった動揺を、気づかれないようにそうっと吐き出した。

 朧が立ち上がり手すり壁の上に立った。コンクリート製のそれは十数センチの幅があるが、人が歩くには狭すぎる。もしバランスを崩してしまうと、そのまま落下することになるだろう。二人がいるのは三階だ。まかり間違って落ちてしまうと、怪我どころではすまない。慎二は朧の心と体を心配していた。

「朧、なにしてるんだ。危ないから降りろ」

「いろいろとありすぎて、お嘆きの貴兄には申し訳ないんだけど、じつはもう一つ、慎二先輩を混乱させる要因があるんですよ」

 慎二がその意味を想像する暇もなかった。砂の上に突き刺した棒がゆっくりと倒れるように、朧の体が宙に舞った。

「うわあ、朧っ」

 朧が三階の非常階段から落ちた。目の前で話していた人間が、かき消えてしまったのだ。数秒間は現実感をもてなくて、慎二はあんぐりと口を開けていた。

「ううっ」

 慎二には直ちにしなければならないことがある。落ちてしまった朧の、その後を確認することだ。

 急いで一階まで駆け下りた。焦るあまりに、途中で足がもつれてしまった。そのまま転げ落ちてしまいそうになったが、バランスを崩し珍妙なステップを踏みながらも、なんとか一階までたどり着いた。だが、最後の一段でついに均衡が破れてしまう。芝生に膝をついて、打ち据えた箇所を手で押さえて呻いていた。

「やあ、遅かったですね」

 腕を組んだ朧が見下ろしていた。慎二が眩しそうに見上げる。彼女は無事であり、怪我をしている形跡はなかった。

「朧、大丈夫なのか」

「ぴんぴんしていますけど、なにか」

 朧は、それがいかなるダンスなのかは不明であるが、とにかく下手くそなステップを披露して無事をアピールした。

「三階から落ちたんだぞ。なんでそんなに元気なんだ」

 怪我がなかったのは幸いだが、それは別次元の不可解さを意味している。

「アンドロイドですよ」

「え」

「だから、アンドロイドなんです」

「アンドロイドって、菖蒲ヶ原さんがどうかしたのか」

 鼻で一息笑ってから、朧は慎二に核心部分を言い放った。

「僕です。僕がアンドロイドになったんですよ」

 立ち上がった慎二は、しばし間抜けな表情で朧を見ていた。

「ほら、いまの僕はこういうこともできるんです」

 朧は、足元に放置されていたレンガブロックを五つほど積み上げて、手刀で叩き割った。

「女体化しただけではなく、アンドロイドになっているんですよ。菖蒲ヶ原さんみたいに、トラックに撥ねられても死なない自信があります」と言って、顔の前でピースサインをつくった。

「アンドロイドになったって、なんで?」

「知りませんよ。女になった体を点検していたら気づいたんです」

 ためしに、何度か自傷行為をしたと言った。

「そのたびにすぐに治ってしまうので、正直いって笑いました」

 朧が自分の身体に起こった超常現象を説明する。慎二は頷いたり首をふったり、とにかく混乱している様子だった。

「一人でアンドロイドになったのか、菖蒲ヶ原さんみたくアンドロイドとして別の羽間朧になったのかはわからないけど、とにかく僕はアンドロイドです。だから三階から落ちても、三回転半して着地したんですよ。ネコよりも身軽になった感じがする。にゃん」

 招き猫のポーズを可愛らしくキメてから、もう一度三階から落ちようかと言った。サービス精神を発揮して階段を上ろうとする朧を、慎二は止めた。二人は外階段の陰に並んで座った。

「なあ、朧。俺たちの世界は、いったいどうなっちまったんだ」

「とりあえず、学校から出ませんか」

「そうだな」

 二人は歩き出していた。小腹がへったということで、どこかのファストフード店で買い物をしてから話を続けることになった。


 

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