第46話

{菖蒲ヶ原雪子個人日誌}


 私はいま、北海道釧路市雄別にある政府の研究施設に住んでいる。ここは市街地から離れた山の中にあり、周囲の町とは遠く孤立した地区だ。もとは炭鉱町として栄えていたらしけど、閉山してから興味本位の人しか訪れなくなっていた、建物は風化しきってほとんどなくなって、木や草が生えて、一時は深山の森へと戻ってしまったようだ。

 研究施設ができる前は、かなり有名な心霊スポットだったようで、夜な夜な好き者たちが集っていたみたい。私も朧も超常現象に遭遇したことはないが、じつは楽しみにしている。幽霊との出会いを期待して、二人で森の奥まで入ってみけど、ダニとブヨに刺されて散々だった。ヒグマのフンを見つけて、そしてすごい獣臭がして、大慌てで帰って来たのはいい思い出だ。

 もとが炭鉱なので地下に大規模な空間があること、空気が乾燥している、山中なので人目につかないなどの理由で、この地が選ばれたのではないかと朧が言っていた。あんがい、政府は幽霊を捜していたのかもしれないと、私は想像したりする。

 最先端科学施設はけっこうな規模となって、森に回帰したこの地を再び人工物だらけにした。街というほど都会になったわけではないけれど、町内会が必要になるほどの規模となった。ビジネスホテルやコンビニもできた。職員用の集合住宅が建設されて、朧は3LⅮKの小奇麗なマンションに住んでいた。ネットの航空写真では、緑の中にぽっかりとできた隔絶された町に見える。映画の題材になりそうな感じで、こういう環境に命を救われるとは思わなかったけど。  

 いまから十数年前、この町の真ん中にある公園で朧の仕事が終わるのを待っていたら、突然、地面が砕け始めた。地震とは、その破壊力において根本が違うレベルの天災だった。本物の火災や津波は動画とかで見たことあるけど リアルに地面が割れて、コンビニや家や集合住宅が呑みこまれていくのは初めて見たし、気絶しそうなほど恐ろしかった。あんなのは、フィクションの世界だけにしてほしかった。

 朧が勤めている研究所は、地下にある巨大な施設自体が堅牢なシェルター構造になっていて、あの天地をひっくり返さんばかりの大災害でも、なんとか持ちこたえることができた。私は部外者だったけれども、幸運にも入れてもらえた。主任研究員である朧が私を見つけて、無理矢理引き入れてくれたからだ。

 化学、物理学、生体工学、電子工学での傑出した才能の持ち主、羽間朧。ちょっと生意気で、ぞんざいな口の利き方をする天才。私は彼女に助けられた。それからこの施設で暮らしている。おそらく、死ぬまでここを離れられないだろう。

 

「ただいま。菖蒲ヶ原さん、朧」

 慎二が帰ってきた。雨に当てられたのか、全身がずぶ濡れである。手に持っているプラスチック製の買い物かごには、採ってきた薬草と野草が入っていた。

「あらあら、びしょびしょじゃないの。やっぱり雨になったのね。こんなになるまで外にいたらだめよ。今度から早く帰ってきなさい」

 雪子が乾いたタオルを持ってきた。

「髪も服も水浸しだわ。いい男が台無しじゃないの」

「菖蒲ヶ原さん」

「なに」

 慎二の頭にタオルをのせてから着替えを取りに行こうとしたが、呼ばれた雪子が振り返った。

「菖蒲ヶ原さんは、女子高校生でドラマーなんだ。ジャンクフードが好きなんだよね」

「好きよ。最近は食べたことないけど」

「朧も好きなんだよ。今度一緒にピザでもとろうよ。俺がおごるから」

「ありがとう。でもその話はいいから、早く着替えなさい」

「はいはい」

 買い物かごを机の上に置いて、自分の部屋に戻っていく慎二の背中を、二人の目線が追っていた。

「あの子、ますます夢と現実の境界があやふやになってきたみたい」

 ふう、と雪子がため息を漏らす。

「意外と時間がかかっているな。起動してからかれこれ十年以上経つけど、アンドロイドであるという事実と、高校生であるというフェイクが、心の中で並行して存在しているんだ。しかも両方が接触しても、論理的な齟齬を感じてないよ」

 雪子とは対照的に、朧はそれがいい兆候だと思っていた。

「ねえ、この試みはうまくいっているのかしら。慎二の心は人へ近づいているの」

「もう、慎二の自我は芽生えているんだ。魂のないロボットじゃない。夢の中では存分に青春しているしな。思春期の、あの掴みどころのない情動に心がかき回されている。人間としての第一歩を踏み出しているんだ。進歩はスローだけど、確実に育ってきているよ」

 成長の手ごたえを感じていると、朧は力説した。

「でも、初めから超常現象が起こっているじゃないの。ふつうの人生に、そんな不可解なことはないわ。十年以上もそこでもたついているなんて、いくらなんでも遅すぎでしょう。これは想定外よ」

 たしかに、懸念される事態ではあると朧は頷く。

「サイキックになったのは、拒絶反応もあるけど、人としての感情を獲得するための通過儀礼的なものがあるのだと思うんだ。ふつうの人間ならば、思春期の日常生活で自然と身につくものだけど、慎二はアンドロイドだからな。やり方が違うし、膨大な時間と試行錯誤を必要とするんだよ」

 朧の説明に納得したようなしないような、雪子の心中は複雑である。

「フェイクを乗り越えてリアルを獲得するために、フェイクの塊みたいな謎現象を引き起こすなんて、まさにアイロニーじゃないか」

 慎二が収穫してきたや野草を朧が吟味して、今日は天ぷらだねと料理長である雪子にウインクした。

「それは、創造主であるあなたに対しての反抗じゃないの。おかしな現象を作り出して、困らせているのよ。何年も、これから何十年もね」

「なるほど、反抗期ということか。まあ母親は、いつでも子供の皮肉に当てられるものだからな」 

 小麦粉がないので衣はくず粉で代用すると言うと、朧はうれしそうに頷いた。

「慎二の潜在意識の旅をこのまま継続させるよ。いまは大人になり切っていない青臭い自我だけど、最終的には、魂の全体性ともいえるセルフを獲得させるんだ」

「?」というのが、雪子の問いである。

「すごくちゃんとした自分自身ということだよ。より完璧な人格というか、それこそ人間性の真髄というか、仏の境地というか」

 セルフについて、朧はいくつかの例を持ち出して説明した。

「そこまでする必要があるの。ふつうの男の子でいいじゃないの。これ以上の実験は、逆にあの子の自我を崩壊させるような気がしてならないわ。アンドロイドに心があるだけでも奇跡なんだから」

 油の摂りすぎは内臓に悪いから、天ぷらは少しだけにして、あとはおひたしにすると告げる。 

「雪子」

 朧は真顔になった。

「慎二にはやってもらわなくてはならないんだよ。わたしたちがこの星で紡いできたすべてを、あの子が引き継ぐんだ。全人類の存在を証明するのは、慎二だけなんだ。あの子を、ただの機械的なアーカイブにはしないよ。誰がするものか」

 朧はムキになっていた。

「たとえ波風が凄まじい夜の航海になろうとも、あの子にはおもいっきり旅をしてもらう」

「あなたが言うと、なんでも壮大な話になっちゃうから」

 前のめりになっていることを、やんわりと非難された。朧は少し間をおいてから話を続ける。 

「さっきはフェイクと言ったが、超常現象による一連の物語は、あの子の無意識が作り出したファンタジーなのかもしれないな。過剰にならなければいいけど」

 その見解について、雪子は口を挟まなかった。考えすぎて不眠症になりたくないし、それをするのは朧の仕事だと割り切っていたからだ。

 慎二が二人の元へ戻ってきた。洗いざらしではあるが、経年劣化して黄ばんだ肌着を見せびらかせて、うれしそうである。 

「さあ、食事にしましょう」

 いつものように雪子は台所に立った。最近は点きづらくなった電磁調理器のスイッチを入れて、天ぷらの準備をする。油は、慎二が捕獲した獣から絞ったものだ。


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