第45話
{菖蒲ヶ原雪子個人日誌}
あの大災害をいまでも思い出して、ときどき眠れなくなってしまう。
突然、地面が揺れに揺れた。あれは地震というより、衝撃や爆発だった。池に張られた氷を大きなハンマーで叩いたように、地球の薄っぺらな地殻があちこちで割れた。隆起や崩落が世界同時に、しかも十分に飽和的な量で起こった。文字通り、地球が割れたのだ。その一日で多くの人間が死んだ。日本だけではない。世界中が、その根底から崩れ落ちてしまった。
私は、たまたま北海道に来ていた。高校の後輩である羽間朧に会うため、彼女の勤め先を訪れていた。朧とはちょくちょく密会していたけれど、まさに、あの日のあの場所にいたことが私の命を救った。犠牲になったたくさんの人々には申し訳ないけど、私はツイていた。ほんとうに幸運だった。
「深意識量子浸透膜降下術?なんか、舌を噛みそうな感じだけれど」
「そう、カッコイイ名称だろう」
「まあ、中二的ではあるわね」
「もう、中二はどこにもいないけどな」
北海道釧路市郊外の山中、旧雄別炭鉱跡地にある政府直轄の最先端科学の研究施設。第一研究室という部屋にて、施術台のうえで慎二が仰向けになっていた。後頭部のインターフェイス部分には、数本の電気的なコードとある種の栄養素と薬剤を注入する透明なパイプが接続されている。彼は眠っていて、意識がない状態だ。
「慎二は、夢の中でおかしな現象に見舞われているからな。もう暴走の域まで達しているよ。放ってはおけないだろう」
「サイキックとかの超常現象のこと?」
「そうだ。おそらく、人為的に作り出された脳組織が、自我を獲得していくプロセスに対して拒絶反応を示しているのだと考えられる。通過儀礼だと楽観していたけど、おかしな方向に行き過ぎると、それこそ現実世界に対応できなくなるよ。この子はアンドロイドな廃人として、長い生涯を夢うつつで生きていくことになってしまう」
ねずみ色の作業服を着た朧は、雪子が作ったタンポポの根コーヒーをうまそうにすすりながら、これから行うことを説明する。
「それで、どうするのよ」
「わたしたちが、この子の意識の中へ飛び込むんだよ。そして、新たな課題を与えたり、不必要と思われる部分を削除したり、あるいはもっとエモーショナルになるように刺激したりする。脚本家が手直しをするのといっしょさ。場合によっては、夢であることを自覚させなければならないかもよ」
アンドロイドである慎二の無意識に干渉して、軌道修正させようという魂胆だ。
「でも、慎二の夢の中には、すでに私たちがいるじゃないの。あなたは中学からの後輩男子として、私は恋人としてのキャラクターが確立しているわ。そこに同じ人間たちが現れたら、かえって混乱するんじゃないの。これは現実ではないと、夢の中で気づかせることは危険よ」
心配性な雪子は、朧の計画には懐疑的だ。
「そうはならないよ。深意識量子浸透膜降下術は、量子を十一次元で編んだ特殊な浸透膜を介して為される。雪子やわたしの意識は一度量子レベルまで細分化されて、慎二の意識にダイブするとそこで再構成される。その際に量子の不確定性の影響を受けるし、おそらく慎二の潜在意識が私たちを違うものに変えるさ。防御反応としてね。彼が好ましいと思うものに変化させるから、論理の矛盾は当人に気にされにくいのさ」
朧が意図するところを、雪子は理解できない。
「結局、どういうこと」
「結局、わたしたちがダイブすると、わたしたちではない何者かに変容する可能性があるってことだ。それは純粋に量子力学的な確率と、この子がどれくらいわたしや雪子を親和的に思っているかによるけど」
「なんだかわからないけど、ようするに慎二の心しだい、ってことでしょ」
「そんなところだな」
疑念の目で見つめる雪子の肩を、朧の手がポンポンと叩いた。
「ちなみに、わたしたちの意識も肉体と同じく制御不能になるかもしれないし、少なくと、考えた通りには動かないんじゃないかな」
「それって、身も心も慎二劇場のキャラに成ってしまうってことよね」
「あくまでも、可能性の話だよ。あんがい、そのままの姿で降りられるかもしれないし。そうすると二人の同一人物がいることになって、慎二は余計に混乱するかもしれないけど。ダイブする無意識の深さにもよるし、正直なところ、やってみないとわからないよ」
「ねえ、大丈夫なの。慎二が壊れちゃったりするのはイヤよ」
「まあ、浸透膜の量子もつれを修正するのに膨大な計算が必要になるのに、そこへわたしたち外部の要因が入り込むんだから、リソース的に多少の困難はあるかな」
コーヒーに続き、タンポポの根で作ったキンピラをポリポリ食べる朧は、不安というものを感じさせない。
「ひょっとして、慎二の心の中にダイブしたはいいけど、菖蒲ヶ原雪子ではなくて、違う人物になっているの。慎二が無意識的に好むようなキャラに。そのなんたらかんたらな不確定性で」
「おそらくな。わたしは女体化したアインシュタインになっているかもしれないし、雪子は{ゆきちゃんマン}になっているのかもしれないな。自分としての意思も変容させられるから、制御は難しくなる」
「どうして私が、{ゆきちゃんマン}なのよ。てか、{ゆきちゃんマン}って、だれ」
ブッ、と咀嚼中のキンピラを噴き出して朧が笑っていた。自分で言ったギャグがツボにはまってしまったようで、しばらく転げまわった。対照的に、雪子の態度は冷ややかだった。
「もう一つ、心配事があるわ。慎二の意識へダイブしてヘンなものに変わったら、戻ってくるとき、私たちはどうなっているの。現実世界で、あなたは女体化したアインシュタインでいいかもしれないけれど、私は{ゆきちゃんマン}になるのは、イヤよ」
朧はまだゲラゲラ笑っている。雪子のシラケた目線が空を切っていた。
「それは、まったく心配ない。だって、降下するのはわたしたちじゃなくて、わたしたちの投影された意識だから。つまりアバターなんだよ。慎二の夢の中に入っても、終わってリンクが切れると、アバターは消滅し、わたしたちはただ目覚めるだけ。ちょっと変則的なVRだと思えばいいのさ」
「まさに、あの映画じゃないの。のけ反って銃弾をかわすやつ」
「そう、それ。なつかしいな」
キンピラの汁で汚れた箸を突き出して、朧は得意そうな表情だ。
「大丈夫なの。降下したとたんに、ゆきちゃんマンがゾンビとかに襲われたりしないの」
「慎二の脳にゾンビの出現は植えつけていないよ。ごくごく普通の男子高校生という初期設定だから。まあ、この子の想像力次第だけど」
タンポポ根のキンピラを平らげた朧は、慎二側の接続部やバイパス器具を確認し、さらに慎二の無意識へのダイブに必要なプロトコルを入念にチェックする。それから雪子をカプセル型のベッドに寝かせ、すぐ隣のそれに自分も横になった。彼女たちの頭部には、いくつものコードがくっ付いている。
「もう、ダイブするのかしら」
「あと三十秒ほどだよ」
お互いの手を握り合う。幾度となく触れあってきたが、今日の雪子は緊張していて、大量の汗をかいていた。
「あの青春時代に戻るね。なんだか楽しみなような、怖いような」
「わたしはわくわくしているよ。慎二の青春世界へ、じかに参加できるのだから」
電子的な音声が、十秒前からカウントダウンを始めた。二人の脳からスキャンされたデータが量子化され、特殊な浸透膜を通って慎二の無意識へとダイブする。奈落の底に落ちてゆく感覚に、雪子の意識は遠くなった。
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