第44話
{菖蒲ヶ原雪子個人日誌}
日付と時間を書かなくなってから、もうどれくらいだろうか。時を考えるのは意味のないことだと悟って割愛しているけど、うっとうしくなくて正解だ。本当は、年を取っていると知るのが嫌なだけかもしれないけど。
私は、すでに還暦を迎えた。なにもかも崩壊したこの世界で、おそらく最後の人類として書き続けているけど、最近は年のせいか筆が重い。もうやめようかとも思うけど、書くことが私であり続けている理由の一つとなっている。もう仕事となってしまった。若いころはミュージシャンを目指していたけど、作家のほうがよかったのかもしれない。
「あの子、また帰りが遅いわ。どこほっつき歩いてるのよ、もう」
「そんなに気難しい顔するなよ、雪子」
「だって、ここのところ毎日よ。きっと、またどこかで夢を見ているんだわ」
「わたしたちのために一生懸命にやってくれているじゃないか。魚を捕ってきてくれるし、野草だって欠かさずにな。それに夢を見ることは慎二の成長には必要なことなんだ。あの子の心は、夢の中でしか鍛錬できないんだよ」
そう言って、朧はベッドから起き上がろうとする。身体を少し動かすだけで相当にだるいので、動きはあくまでもスローだ。
すぐに雪子がサポートしようとするが、六十歳になった彼女はだいぶ前に膝を壊しており、杖をつきながら歩くのがやっとだ。よたよたとふらつきながら、ようやく朧のもとへとたどり着いた。
早速、「ふー」と辛そうなため息をつく。
「おばあちゃん、そんなに無理しなくてもいいよ。まだ、自分のことは自分でできるから」
「ヨボヨボのおばあちゃんに言われなくないわね」
お互いを見つめた後、皺とシミが目立つようになったそれぞれの顔が、クスクスと笑う。
「年はとりたくないな。高校生の頃がなつかしい。体力は有り余っていたっけ。雪子と出会うことができたし、人生で一番いい時だった」
ベッドの年寄りが、しみじみと言った。
「あなたは頭がずば抜けて良かったけれど、陰キャでムスッとしていて、地味なくせにバストだけは大きい男の子みたいな後輩だった」
「なんか、傷つくよなあ」
そういう顔よ、と雪子は朧の仏頂面を指さした。
「君はいつも一人で、いつもお高くとまって、そしていつもきれいだった。とても魅力的で、美人の見本のような人だった」
朧がそういうと、雪子は少し照れたように首を傾げた。
「昔の話よ」
二人が居宅として使っているのは、地下に造られた巨大な研究施設の一角にある居住スペースである。地下施設全体がとても堅牢にできており、シェルターとしての役目を十二分に果たしてはいるが、いまでは長年の使用で薄汚れ、すっかりとくたびれていた。
「今日は嵐になりそうなのよ。あの子、早く帰ってくればいいのに」
「慎二の筐体は完全防水だし、少々転げまわったぐらいじゃビクともしない。アンドロイドは不死身に近いから心配ないさ」
「そうだけれども」
遊びに出かけて、いつまでも帰ってこない子供を待っているような心境だった。薬草以外にも、自分たちの食料を一生懸命に探してくれているのだろうと、雪子は思うのだった。
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