第33話

 あくる日の放課後、慎二は下校する前に体育館の用具室へ立ち寄った。ひょっとしたら朝子がいるのではないかと考えたが、汗とカビの臭気が薄暗さの中に充満しているだけで、彼女の姿はなかった。

「なにしてるんだ」

 用具室の隅をかき回していると、後ろから声がかかった。チラリと振り返った先にいたのは赤川である。

「ああ、ちょっとな」と慎二は気のない返事をする。

「エロ本なら落ちてないぞ」

「エロ本を探すなら、体育館の用具室じゃなくて橋の下に行くよ」

 赤川の冗談に対して、いたってまじめな返答だった。

「だったらなにしてんだよ。こんなところで挙動不審なことしてると、また画像をとられちまうんじゃないか。今度は動画で音声付きになるぞ」

「ハムスターがいるはずなんだけど」

 朝子が学校に来ていない。彼女のペットであるハムスターはエサをもらえなくて飢えているのではないかと、ふと思った。

「ネズミはいるかもしれないけど、さすがにハムハムはいないだろうに」

「雄別朝子さんが飼ってるんだよ」

「ゆうべつあさこって、誰だ」

「ああ?」

 なぜ彼女の名を知らないのだと、慎二は不思議だった。ふだんはニックネームで呼ばれているので度忘れしているのかと思った。

「あさっちだよ」

 その名を口にするのが照れくさくて、遠くへ放り投げるように言った。

「は?あさっち、ってなんだ。ハッパか」

 赤川の表情には邪心がなく、からかっているというふうではなかった。

「転校生だよ。出回った画像に写っていただろう。胸の大きな子だよ」

「あれは朧だろう。まあデカいと思っていたけど、下着だけの姿はやっぱすごいよな」

 そう言ってから、クラスの女子たちには内緒だぞと、そっと耳打ちした。

「朧ってなんのことだ。違うよ。体育館で俺といっしょにいたのは、転校生の雄別朝子さんだって。にょ~んな女の子だよ」

「だから、ゆうべつあさこ、って誰なんだって。にょ~んって、それはエロいのか」

「エロいのかって、そういう問題じゃねえよ。ふざけてるのか」

 二人の会話が噛み合わない。認識しているということについて、前段階から齟齬が生じていた。 

「そもそも、朧は男だぞ。巨乳って、どういうことだよ。ただでさえ女の子顔を気にしてるのに」

「慎二の知り合いに、そうそう巨乳がいるかよ。朧とのことは、オレは誤解だと信じているよ。だけど、お似合いに見えたけどな」

 赤川は友人のことをおもんばかっている。ふざけたり、嘲笑している様子はなかった。

「なあ、本気で雄別朝子さんを知らないのか」

「だから誰だよ、そいつは。菖蒲ヶ原さんに怒られて凹むのはわかるけど、エアな女子のせいにするなって」ハハハと笑いながら、赤川は行ってしまった。

「これは、どういうことだ」

 慎二は考え込んでしまう。ハムスターは見つからないし、用具室の隅にケージが置かれていた形跡もなかった。赤川は雄別朝子を知らないという。

 ふと思い立って職員室へと走った。途中、クラスの女子とすれ違ったので、雄別朝子のことを訊いてみた。

「だれのことよ」

 その女子は知らないと答えた。怪訝さと真面目さが折り重なった顔が、ウソをついていない証左となる。

 職員室で担任の教師に訊く。息を切らして血相を変えた生徒を、見た目がアウトローな男が、まずはなだめた。 

「おい、新条。おまえは病み上がりなんだから、あんまり走るなよ」

「先生は転校生の雄別朝子さんを知っているでしょう」

 担任はノートパソコンから目線を離して、慎二を見上げた。

「おまえ、なに言ってるんだよ。当たり前だろうが」 

 ホッとした慎二だったが、次に聞かされた言葉に衝撃を受けることとなった。

「ええーっと、あ、誰だっけ」

 教師は斜め上を見ながら、そう言った。数秒ほど考えていたが、思い出そうと努力する価値なしと判断して、椅子を動かしてノートパソコンに向き直った。そこに誰もいないかのように、パチパチとキーを打ち始める。慎二は、それ以上の会話を諦めて職員室を出た。

 雪子のアンドロイド化現象がこじりにこじれて、朝子を巻き込んでしまったと考えた。誤解は解けたと本人は言っていたが、嫉妬と疑惑の炎がまだくすぶっているのだろう。いつものように校務員室へと駆け込んで、これから帰ろうとする朧をつかまえた。事情を説明し、食らいつくように意見を求める。

「そういうことになるでしょうか」

 自分の見解を肯定されたことと、朧がまだ雄別朝子を知っていたことに、慎二はひとまずの安堵を得た。

「彼女をいないものと思い込みたいのでしょう。菖蒲ヶ原さんの心的エネルギーは想像以上だったということですが、いろいろと情報が多すぎて、整理しきれなくなってきました」

 帰ろうと思っていた朧だが、話が長くなりそうなのでお茶を用意した。自分には粉末のレモンティーを、慎二にはすっかりと気が抜けた炭酸水をコップに注いだ。

「それにしても、体育館で慎二先輩を温めたのが僕になっているのは驚き・ももの木・いのきですよ。げんきですかーっ、てなもんです」

 いつもキツイことばかり言う後輩なのだが、彼らしくもない冗談である。

「しかも巨乳になっているって、それは赤川先輩の個人的な願望なのでは」

「赤川は本気でそう思っているみたいだった。アンドロイド化した菖蒲ヶ原さんが怪電波でも出しているんだろうか」

「ああ、それですよ。嫉妬の対象である雄別朝子さんを消したら、代わりに誰かを用意しなければなりませんからね。上書きされるのが僕っていうのが迷惑千万です」

 朧が用意してくれた炭酸水を慎二がグイッと飲んだ。のど越しがちっとも良くなくて、半分以上を残し、うらめしそうにティーカップを見ていた。

「菖蒲ヶ原さん、けっこう気にしていたんだと思う。病気とはいえ、申し訳ないことをしてしまったよ」

「まあ不可抗力の部分がありますし、慎二先輩のせいでもないですよ。そもそも、女の嫉妬とはそういうものです」

「菖蒲ヶ原さんは、なんでも突き抜けるからなあ。嫉妬も予知能力並みのパワーがあるのかも」

 なにげない軽口だったが、朧は合点を得たようである。

「なるほど。そう考えると、シンクロニシティの連続も納得できますね」

「というと」

「菖蒲ヶ原さんには、慎二先輩が浮気する予感があったということです」

「浮気はしてないぞ」そこは否定しておかなければならない慎二であった。

「浮気のあるなしにかかわらず、嫉妬する材料になったってことです。菖蒲ヶ原さんはドSな孤高女子だから、自我は相当強い女なんですよ。強い思い込みと強い感情がトリガーとなって、サイキックやらアンドロイド化を引き起こしてしまう」

 自我が強いというくだりに、慎二はウンウンと頷く。

「おまけに予知能力の持ち主だったので、未来の嫉妬原因を無意識のうちに感じていた」

「それは、あり得るな」

「そうなるといろいろ面倒なことになることを経験的に知っているから、無意識が現実世界に関与して、シンクロニシティとして警告していたんです。原因が雄別さんと慎二先輩への嫉妬だから、慎二先輩を中心として偶然が連発していた。と考えるとなんとなくつじつまが合います」

 もしそうならば、自分も相当な自我の持ち主であるなと、慎二は考えてしまった。

「じゃあ、無意識的な嫉妬で雄別さんが消えてしまったってことなのか。この世界から」

「どうでしょうか。僕は、にょ~んな彼女を知っているし、慎二先輩だってそうでしょう。だから、まだ存在しているとは思うんだけど」

 雪子の強すぎる自我が一人の少女を消し去ろうとしている。そんなことがあってはならない。必ず後悔し、一生の罪を背負うことになってしまうと慎二は心配してしまう。

「慎二先輩は菖蒲ヶ原さんに会って落ち着かせたほうがいいです。アンドロイドだけではなくて、もう一人の菖蒲ヶ原さんの存在が心をかき回していますから。放っておくと、次はなにが起こるかわかりませんよ」

「わかった。けど、どうしてもう一人の菖蒲ヶ原さんがいるのかなあ」

「それについては、まだなんともいえません」

「これから菖蒲ヶ原さんの家に行ってみるよ。今日は会ってないんだ」

「それがいいですね」

 事態は時の先を追うように進行している。校務員室でもう十分ほどぐだぐだしてから、慎二は学校を後にした。

 だが結果的に、慎二は雪子には会えなかった。

 玄関で厳しい表情の家政婦水戸が対応し、冷ややかな態度で追い払われてしまった。体育館での出来事は誤解であると了解しているのにどうして自分に会おうとしないのか、その真意がわからず戸惑うばかりだった。いちおうケイタイにかけてもみたが応答はなかった。メッセージを送るが、やはりなにもなしである。



 次の日、慎二は休み時間に特進クラスへと赴く。もちろん、雪子に会うためである。いつもは自分の席で物憂げに佇んでいる雪子なのだが、今日は様子がまったく違った。彼女を中心にクラスメートが集まり、楽しそうに話をしているのだ。

「ねえ、菖蒲ヶ原さん。彼氏が来てるよ」

 女子の一人が、廊下に慎二が来ていることを告げた。雪子が顔を向けると、うれしそうに手を振った。てっきり無視されると覚悟していた慎二は、拍子抜けしたと同時にホッとした。

「彼氏君、中に入りなよ」

 入り口付近にいた女子が声をかけた。特進クラスへ入るのには、誰かの同意が必要となる。なんとなく臆してしまった慎二は、なかなか一歩を踏み出すことができなかった。

「ちょっと話してくるね」

 そんな人見知りすぎる彼氏のもとへ雪子がやってきた。慎二と目を合わせニッコリ微笑むと、目線を前方に投げ出して廊下へと誘う。慎二は黙ってついていった。

「菖蒲ヶ原さん」

 階段の踊り場で、彼女の後ろ姿に声をかけた。即座に振り向いた雪子は、いつになく素敵な笑顔を、ぐっと近づけた。

「私ね、今度スタジオを借りて、クラスのみんなを演奏に招待しようと思っているの。まあ、一度に全員は無理だから、少しずつね」

 およそ、菖蒲ヶ原雪子らしくない発言だと慎二は思った。

「クラスのみんなを。どうして」

「どうしてって、友達だから当然でしょう。動画にも出演してもらうの。それと、今日の放課後はカラオケに行くことにしているのよ。慎二もどうかしら。まわりが優等生ばかりだけども、気兼ねすることないから」

 雪子は気高く孤高な気性の持ち主だ。友人が欲しいからと安易に迎合したり、ことさらに媚を振ったりということをしない人間である、と慎二は信じていた。

「いままでそういう付き合いをしてこなかったのに、突然どうしちゃたんだよ」

「いままでの私が変だったのよ。私を認めてくれる人たちと親交を深めてなにが悪いの。ふつうの高校生らしくていいでしょうよ」

 雪子の表情が、わずかに曇っている。

「そんなことをしている場合じゃないだろう。もう一人の菖蒲ヶ原さんを探さないと。いろいろと変なことが起こっているんだ」

「もう一人なんていない。私は私だけよ。菖蒲ヶ原雪子はここに一人しかないの。私はみんなに知られているし、みんなが私を知っている。動画だって見てくれている。ファンだっているんだから」

 雪子はかたくなになっていた。自らだけが菖蒲ヶ原雪子だと強弁する。

「菖蒲ヶ原さん、だから」

「もういいっ。慎二とは話したくない」

 尖った言葉を慎二にぶつけると、雪子は背を向けて階段を素早く登った。上で心配そうに見ていたクラスメートの女子たちと合流し、なにごともなかったかのように穏やかに話していた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る