第32話

「それで、慎二先輩はまたサイキックじゃないかと考えているわけですか」

 放課後の校務員室で、慎二は校務員が淹れた番茶をすすりながら昨日の出来事を語っていた。

「朧はどう思う。トラックと衝突して、ふつう無傷とかはありえないだろう。なんらかの超常現象というか、超能力だと思うんだ」

「まあ、話しを聞くかぎり、そういうことなんでしょうけど、その現場を見てないからなんともいえないです」

 朧はハリオールを用いて、アールグレイの茶葉を濾していた。いつもはインスタントで済ますのだが、今日は気分的に本格的な紅茶を飲みたいと思っていた。ただし、慎二の番茶は激安スーパーの特売ティーバックである。 

「不死身の肉体となるサイキックですか。タイヤにミンチにされるはずだった慎二先輩を助ける予知能力よりも、なかなかに生産性がありますね」

「不死身のどこに生産性があるんだよ。これは異常なことなんだぞ」

 慎二は雪子を心配している。ノーマルな彼女であってほしいのだ。

「あんがい、アンドロイドにでもなっちゃったのかもしれませんよ」

「アンドロイドって、SFかよ」

 紅茶はうまく淹れられたようで、いつもポーカーフェイスな朧の顔が、少しばかり微笑んでいた。輪切りのレモンを一枚落として、香りを楽しむように啜った。

「ところで菖蒲ヶ原さんは、今日はどうしているんですか」

「学校に来てるよ。さっき会いに行ったけど、無視されてしまった」

「元気そうでしたか」

「いたって元気で、どこにも怪我をした形跡がなくて、相変わらずの可愛さだった」

「それはどうもごちそうさまでした。釣銭は渡しませんよ」

 番茶のティーバックはすでに出尽くしているが、慎二はしぶとく浸し続けていた。お湯の色は、お茶というよりコーヒーに近い。生ぬるくなったその液体を一気に飲み干した。

「ふー。明日も相手にされないのかなあ」

「みんなにあの画像が知れ渡っているから、何度も会いに行くと面白しろがれてしまうと思うんですが」

「衆目は修羅場を見たがるからな」

 慎二の番茶がなくなった。おかわりが欲しくて、子犬のような目で朧を見る。しょうがないというような仕草で激安ティーパックを追加したが、お湯は注がなかった。

「あの子はどうしてるんですか。にょ~んな彼女」

「休みなんだよ。そっちのほうも心配なんだ。連絡先がわからないし、打つ手なしだよ」

「誰か来たようです」

 朧が廊下のほうを見た。すると校務員室のドアが鳴った。コンコンと叩く音だ。ラップ現象でなければ、外に誰かがいるということになる。

 慎二も朧も入室の許可を与えてないが、その人物はドアを開けて入ってきた。

「菖蒲ヶ原さん」

 雪子であった。いくぶん、強張った表情のまま二人のもとへやってきた。

「ちょっと話があるの。いいかしら」

 その言葉は慎二というよりも、彼と校務員の中間に向かって放たれた。

「僕は席を外したほうがよさそうですね」

 空気の読める朧は、とっとと退避の準備をする。過酷な痴話喧嘩が予想されるので、そういう面倒な場に立ち会いたくないのだ。

「あなたもここにいてほしいの。大丈夫、暴れたり噛みついたりしないから」

 朧が懸念していることについての心配はないようである。

「菖蒲ヶ原さん、俺は」と言いかけて中腰になった慎二を、雪子は右手一本で制した。

「いいから座って」

 主導権は自分にあると、勝気な彼女らしく態度で示した。しかたなく、彼氏は浮かせた腰をスローに下ろした。朧が客人になにを飲むか尋ねた。これから深刻な話をするのだ。たぶんなにもいらないと言うはずだと、タカをくくっていた。

「じゃあ、あなたと同じアールグレイを。レモンではなくて、ミルクと砂糖をたっぷりと入れてくれるかしら」

 正直、朧は面倒くさいと思った。了承にしろ拒否にしろ、なにかの言葉を発するのが億劫だったので、注文を確定させる作業に入った。

「モノホンのミルクがないので、粉で代用しました」

 たっぷりの砂糖と粉末ミルクが入った甘々なミルクティーが供された。雪子はさっそく口をつけて、ほどよく濁った液体を啜った。

「イマイチね」

 朧が、チッと軽く舌打ちをする。満足したのか雪子は本題に入った。

「昨日、慎二のお母さまが家に来られたの」

「えっ、母さんが」

「話をしたわ」 

 昨夜、慎二の母親である弘江が菖蒲ヶ原邸を訪れたとのことだ。 

「体育館で慎二が高熱をだして、たまたまそこでハムスターの世話をしていた雄別さんが体を張って助けたって。救急車で運ばれたそうね。先生もいたって」

「母さんがどうして菖蒲ヶ原さんの家にいったのかわからないけど、じつはそうなんだ。その時の記憶がほとんどなくて、気が付いたら病院にいたというか」

 雪子の表情が若干温和になっているような気がした。慎二は、心の気道につっかえていた小骨がストンと落ちたような気がした。

「事情はわかったわ。変な瞬間を録られちゃったみたいだけど」

「よかった。ようやく誤解が解けて」

「納得はしてないわよ。そもそも裸になって身体を温めること自体、無理な設定だし」

「いや、それは前にも菖蒲ヶ原さんが北極で」

「あれは非常事態だったでしょ」

「これも、俺的には非常事態だったけど」

「うるさい。あれはあれ、これはこれよ」

 安心する浮気虞犯な彼氏を、雪子は甘やかそうとはしなかった。七割ほど厳しさのこもって眼力で睨みつける。慎二は番茶をすすろうとするが、カップからこぼれてくるのは湿った空気と乾いたティーバックだ。最後の一滴を求めて意地汚く舌を出した。

「もう、なにやってるのよ。私のを飲みなさい」

 そのなんとも間の抜けた様子を見て、雪子は自分が飲んでいるミルクティーを差し出した。ほんのりと濡れたカップに、慎二は嬉々として口をつける。腹ペコの息子を見るように、雪子はクスッと笑みを浮かべた。

「なるほど、熱々なカップルのノロケを見せられているわけですか。ケッ」

 朧らしく、わざとらしく咳払いなどせずに直接イヤミなことを言う。雪子は照れて下を向き、慎二はなぜか背筋を伸ばした。

「ところで、僕がここにいる意味を問いたいのですが。お二人さんの仲直りを見せつけたいだけじゃないでしょう」

 浮ついていた雪子の表情が固くなる。なにやら神妙な面持ちになった。

「昨日のことよ」

「そうだ」

 慎二は、そのことを是非にとも話題にしたいと思っていた。

「私、トラックにぶつかってすごく飛ばされて、道の太い木を折っちゃった。でも、体はなんともないの。ぜんぜん無傷だし、かえって調子がいいというか、飛び跳ねたいほど元気だというか」

 昨日は興奮していて気にする余裕もなかったが、慎二の母親に会って誤解が解けて、自身に起こっている超常現象を落ち着いて考えられるようになっていた。

「菖蒲ヶ原さん、きっとサイキックだよ。なんらかの超能力なんだ」

「やっぱりそうよね。このカラダ、今度は頑丈になりすぎたみたい。まあ、生活に支障はないのだけども」

 返してもらった紅茶を一口飲んで、また慎二にそれを渡した雪子は小さくため息をついた。

「菖蒲ヶ原さん、ちょっと質問してもいいですか」

「なによ」

「アレシアの戦いについて教えてください」

「そんなこともわからないの。ガリアのアルウェルニ族のウェルキンゲトリクスとローマ軍のユリウス・カエサル、ジュリアス・シーザーね、の間で戦われた包囲攻城戦でしょう。あれは紀元前~」

 雪子は、古代ローマ軍とガリア軍の間で繰り広げられた攻城戦を語りだした。アレシアの包囲戦について、じつに正確な知識を有していた。まるで歴史書でも朗読しているように、なんら淀むことなくすらすらと説明してしまった。

「ポアンカレ予想を説明してください」間髪入れずに、朧は次の質問をした。

「もう、なんなの。ポアンカレ予想はフランスの数学者のアンリ・ポアンカレが単連結な三次元閉多様体の~」

 今度は、非常に難解な数学問題である。専門用語をスラスラと吐き出しながら説明し始めた。

「それで、ロシアのグレゴリー・ペレルマンが証明したのよ。まあ、トポロジーじゃなくて幾何学からアプローチしたのが正解だったわけだけども。って、なんで私はこんなこと知っているの」 

 雪子は美少女ドラマーとして名を馳せているが、学業もおろそかにしていない。特進クラスでもトップの成績だ。しかしながら、難解な高等数学をそらで言えるほどに突き抜けてはいない。 

「さすが特進トップの菖蒲ヶ原さん、頭が良すぎる」

 彼女の博学さを無邪気に喜ぶ慎二だが、本人は首をかしげていた。

「私、学校の勉強はしているけど、ポアンカレ予想なんて知らないわ。だけど、すごく知っている。ここに黒板があれば、数式まで書けるのだけれども。てか、書きたい」

 雪子は数式を書きたい様子だが、校務員室にボードや黒板のたぐいはない。朧が次の質問をする。

「今度は円周率をわかるだけ続けてください」

「ええーっと、3.14159・・・、」

 三分ほど経過した。その間、慎二と朧はあえて止めるようなことをせず、真顔で聞いていた。 

「誰か止めてよ。卒業の日まで終わらないわよ」

 数字の羅列に飽き飽きした雪子は、疲れたといった表情だ。その様子が面白くて、くくっと慎二が笑う。

「笑い事じゃない。どうなっているのよ、私は。恐ろしく頑丈な体だし、頭がよくなりすぎているじゃないの。なんかおかしいわ」

 雪子は、なぜか肩や胸元のニオイを嗅いでいた。まったく意味不明な仕草だが、彼女が狼狽していることをよく示していた。

「菖蒲ヶ原さん、ちょっと手を出してくれませんか」

「え」

 まるで手相でも見せてください、というように朧が言った。多少いぶかしく思いながらも、雪子は右手を差し出した。

「この人差し指」

「私の人差し指がどうしたの」

 朧の動きは素早かった。左手で雪子の手相を見るふりをして、右手に持ったカッターで雪子の人差し指の先端を切った。

「きゃっ」

「朧、なにをするんだっ」突然の蛮行に慎二が叫んだ。

「痛いじゃないの。なにするのよ、殺人よ、殺人」

 指の先をほんの少し切っただけなので、直ちに死亡するわけでもないのだが、当然のように怒る。

「菖蒲ヶ原さん、ほんとに痛かったですか」

「あたりまえでしょう。指を切られて、痛くないはずが・・・」

 痛覚について、雪子は感じたことを正直に白状しなければならなかった。

「痛くないわ」

 人差し指を見つめて、不思議そうな顔でつぶやき、「なるほど」と朧が頷く。

「それどころか血も出てないし、傷口も治りかけているわ」

 慎二が雪子の手を取って、問題の人差し指をじっくりと観察する。

「ほんとだ。たしかに切り傷があるけど、みるみる治っているよ。ああ、ほら、もう完全に見えなくなった」

 雪子と慎二は、まるで美しくて珍しい虫が指についているかのように、興味深そうに見つめていた。

「やっぱり、アンドロイドになったようですね」

 朧は結論をためらわなかった。

「体が不死身になったのも、難解な数学問題を解けるのも、菖蒲ヶ原さんがアンドロイドだからです。サイキックではなく、アンドロイドなんですよ」

 突飛な推論であったが、朧は自信家の顔である。

 雪子は返答をせず、彼の仕事机の縁をつかんだ。バリバリと音を立てて樹脂と木材が毟り取られてゆく。重機のような怪力を発揮する手をまじまじと見つめた。さらに机の上にあったナイフの刃を、自らの手の甲に押しつけた。

「菖蒲ヶ原さん、だめだ」

「黙ってて」

 ナイフの刃が柔らかな皮膚へ深く切り込まれてゆく。肉がぱっくりと割れて血が吹き出すと思いきや、真っ赤な噴出はなかった。

「たしかに、いまの私は生身の人間じゃないわ」

 慎二が彼女の手をとって中の様子を確認する。骨の代わりになんらかの金属的な骨格があり、極めて強靭な皮膜で覆われた配線らしきものが幾本も通っていた。

「これはどういうことかしら」

 朧の言っていることを鵜吞みにする前に、雪子は自身のことについてよくよく考えていた。

「あっ、ひょっとして雄別夕子さんがやったんじゃないか。変身サイキックで人間をアンドロイドに変えたとか」

「考えられますけど、ちょっとその線は細いですね」

「なんでだよ。前は雄別さんのサイキックで、ふくよかな菖蒲ヶ原さんになったじゃないか。オウムのピーちゃんだって幼女に変えたんだぞ」

 以前、雄別夕子のサイキックによって、スタイル抜群の雪子が太った雪子へと変えられてしまった。さらに新条家のペットであるキバタンオウムまでもが、いたいけな幼女になってしまった。

「雄別夕子さんは長期休みで学校に来てないですよね。しばらく接触していないのに、菖蒲ヶ原さんをアンドロイドに変える理由がないです」

「俺たちのサイキックは無意識の衝動だから、雄別さんがそう意識してなくても、超能力が勝手に発動しちゃったんだ」

「夕子とは、それほど険悪じゃなかったわよ。学校に来なくなる前には話していたし」

「いや、でも彼女の仕業としか思えないだろう」

 雪子にも否定されてしまうが、慎二は自分の考えに固執する。

「変身サイキックでも、さすがにアンドロイドは無理なんじゃないですか。現代でも不可能な精緻で高度な技術を、あのちょいブサ地味サイキックができるとは思えませんよ」

 雄別夕子は、誰に変身しようが、ちょっとばかりブサイクであった。

「それをいうなら、ジャンプやプレコグも現代の技術じゃ無理だろう」

「わかってないですね」

 朧は、(やれやれ)、といった態度だ。

「慎二先輩と菖蒲ヶ原さん、それと雄別夕子さんに起こったことはファンタジーなんですよ。どこかおとぎ話的というか中二病っていうか、現実感がありません」

「いや、現実だったし」

 真顔で言う慎二を見て、朧は苦笑する。

「それにひきかえ、いま菖蒲ヶ原さんの身に起こっていることは、バイオニクスでメカニカルで、近未来的でサイバーパンクでもあって、なんていうかリアリティーがあります。サイキックとは別の現象なんですよ」

「バイオニックかなんだか知らないけど、サイキックで変身させられたわけではない、という感じはする。私は、どういうわけか自らアンドロイドになったのよ」

 雄別夕子の変身サイキックなしでアンドロイドになったのだと、雪子は承知していた。

「サイキックとアンドロイドは別物だけど、双方ともなにがキッカケとなったかは、僕には想像がつきますけどね」

「というと」

 慎二の緊迫した顔が迫ると、臭いものから遠ざかるように朧は身をよじった。

「菖蒲ヶ原さん本人の心の中に原因があるのでは」

「朧、それはどういうことだ」

「それはですね」と言いかけた朧の口元を、雪子が鋭く指さした。 

「言わなくていい。わかっているわ」

 朧が小さくうなずくと、雪子は椅子に座った。呼吸をゆっくりと整えながら校務員の考えを受け入れる。

「私は慎二が浮気したのではと嫉妬した。悔しいけど、自分でもどうしようもなく嫉妬しちゃった。頭にきて、それで気持ちがヘンになって、心がバラバラになるほど乱れたの。もし私が機械だったら、こんなに傷つかないで平然としてられるかなあ、なんて思っちゃったりもしたけど」

 そう言いながら、雪子は慎二を見ている。自分があげた残り僅かな紅茶を、美味しそうに啜る男の子がいとおしくて、ほっこりと癒されていた。

「でも、昨日慎二のお母さまに会って、私の嫉妬が誤解であるとわかった。慎二が急病で倒れたのに、私ってなにしてんだろうって。考えてみれば、慎二がそうそうモテるはずないものね。私みたいにもの好きな女じゃないと」

「そうだよ。俺は雪子さんにだけモテれば満足なんだ」

 ミルクティーがなくなった。慎二が朧を見るが目をそらされた。追加注文は受け付けないようだ。

「結局、サイキックもアンドロイドも、心の問題なのよ。意識では抑えているけど、潜在意識ではいろいろと動揺していて、超常的な能力や現象として現れるんでしょう。どうして私たちだけなのかは知らないけど」

「まあ、俺の時も両親の離婚が原因だったしな。それと俺たちは特別だからだよ」

「菖蒲ヶ原さんが特別なのはわかりますけど、慎二先輩はただの陰気な一般人でしょう」

「この会話には既視感があるぞ」

 慎二が心外そうな顔をすると、クスクスと雪子が笑う。

「でも、もう心はすっきりしているわ。嫉妬もなくなったし。予知能力と同じで、この体も、そのうち元に戻るでしょう」

「そのわりには、さっきは無視されたけども」

「しょうがないでしょう。クラスメートが見てたんだから」

 雪子も慎二もアンドロイドになってしまったのは一時的であって、すぐにでも治まるだろうと考えていた。

「そうだといいのだけれど」

 朧は異議ありというよりも、二人の楽観的な態度がやや不満のようである。

「なんだよ、朧、気になることがあるのか」

「誠に遺憾ながらありますよ」と、まったく気乗りがしない態度で返事をする。

「それはどういうことなの」

「サイキックの時とは質が違う、不思議な現象が頻発しているんですよ。ことはもっとややこしいのかもしれないんです」

 ん?と慎二は小首を傾げた。

「{偶然}、です」

「偶然?」

「最近、慎二先輩の周りで偶然が頻発しているでしょう」

 ああ、そういえば、と慎二が納得する。雪子はなんのことだかわからない。

「きっと、シンクロニシティだと思います」

「しんくろ?、なに」

 聞きなれぬ言葉に、慎二の頭の空白部分に風が吹く。

「シンクロニシティ。日本語では共時性原理とか同時協調性とか呼ばれているわ。スイスの心理学者カール・グスタフ・ユングが提唱した。同時生起した偶然の一致現象が、じつは因果律を越えて連関しているのではないかとするもの」

 その説明は朧ではなくて、雪子がしている。アンドロイドらしく、よどみなく、すらすらと述べていた。

「菖蒲ヶ原さん、さっぱりわからないよ。ふつうの夢多き男子にも理解できるように説明してくれ」

「あら、慎二に夢なんてあったかしら」と意地悪く言う。

「もちろん、あるよ。菖蒲ヶ原雪子の夫として、完璧な主夫業をこなすことだ」

 雪子は、少しばかり赤くなった顔を明後日の方向に向けた。そして、「もう、ばか」と湿った声色で、あまりにもバカ正直な恋人を諫めた。

 いちゃつく二人を現実世界に戻すために、ねずみ色の制服を着た男が口を挟む。

「たとえば、ピザの話をしていたら間違ってピザが配達された、ということです。ピザの話をしていたという事象と、ピザが間違って配達されたという事実は、まったく関係がない。それぞれが別の因果律に属するのに、なぜか同時に起こってしまう」

 朧の追加説明をかみ砕くのに、慎二は真剣にならなければならなかった。ちょっと考えて、どうやら思い当たるフシを見つけたようだ。

「ああ、そうか。鳩クッキーを食べていたら、鳩が飛び込んできたことだな」

「そういうことね。その場合、鳩クッキーを食べていたことと、たまたま教室に鳩が迷い込んできたこととは、なんの関係もないわ。それぞれが別の因果関係によって導かれているの。それが、どういうわけか同時に起こったりする」

 雪子も興味を持ったようである。朧が言うべきことを、彼がしゃべるより前に言ってしまう。

「偶然ぐらいは、まあまあ、あることです。でもこのところの事例は、あまりにも不自然で、示唆的で、ある意味人為的でさえあるように思えるんですよ。それで」


{全校生徒の皆さん、下校時間になりました。用事のない生徒は速やかに帰宅しましょう}


唐突に校内放送が始まった。

「まあ」 

 朧は、話の腰を折られて勢いを失ってしまった。いったん立ち止まって、あらためて言うべきことを考えている。 

「確かにそうね。私も変だと思った。ピザや鳩の偶然は、確証はないけど作為が感じられたわ」雪子も同意見だ。

「でも、菖蒲ヶ原さんはアンドロイドになってるんだから、偶然が連発するのも、超常現象のひとつじゃないか。サイキックみたいに」

 慎二の考えはいまひとつ踏み込みが足りないらしく、朧は補足の必要を感じていた。

「心理学者であるユングは、精神科の優秀な臨床医でもあったんですよ。長年患者と接しているうちに、彼らの症状が寛解するときに偶然が頻発することに気づいたんです。あるいは、偶然が起こると治療が劇的に進んだりもした」

「ごめん、朧。やっぱり言いたいことがわからないよ。ていうか、おまえもすごく頭が良かったんだな」

「褒めてもらっても、お湯は足さないですから」

 理解の悪い慎二と違って、雪子はなにやら考えに耽っていた。朧は説明を続ける。

「シンクロニシティの肝は、ようするに、人生において重大ななにかが変わる時に偶然が重なりやすいということです。または偶然が起こりやすくなったら、なにかの変化が起こる。ひょっとしたら劇的に」

「それって、やっぱり私のことなのかな。これから重大な、なにかが起こるのかしら」

 アンドロイドになってしまっている雪子は、偶然が彼女自身の人生を変える兆候ではないかと考えた。

「それは、まだわからないですけど」

 いまの時点では朧にも明確な答えを出せない。ある現象が次々と起こり、それらがどのような帰結へと向かっているのか、関連性が判然としないのだ。


{それでは曲をかけたいと思います。ヤッホー、じゃあ、ノリのいい曲をかけちゃいますよ。お父さん世代を通りこして、おじいちゃん世代手前のロックだけど、楽しんでね}


「ねえ、今日の放送部はなんなの」

「いやにテンションが高いな」

「下校の時に音楽をかけるのは、めずらしいですね」

 放送部のおもな仕事時間は昼休みとなるが、放課後にも活躍する時間がある。ただし、ノリよく音楽をかけるのは初めてだった。

 音楽が始まった。結構なボリュームであり、その曲に興味のないものにとっては、うるさいと感じるほどだ。

「ほら、シンクロニシティだよ」

 そう言って、朧は校務員室の天井にあるスピーカーを指さした。

「また偶然だっていうのか。ただ放送部が音楽を流しただけだろう」

 スピーカーをぼんやりと眺めている慎二は気づいていない。

「この曲名が、シンクロニシティ、なのよ」と言ったのは雪子だ。

「え」

「ポリスっていうイギリスのロックバンドの曲よ。かなり古いけどね。ちなみに、何度か叩いたことがあるわ」

 テンポの速いロックな曲であった。音楽に通じている雪子は、ドラムで演奏した経験があった。

「シンクロニシティの話をしているときに、シンクロニシティという曲がかかる。もうこれは、確実に{なにか}を示唆していると考えるのが妥当だと思うんですけど」

 朧は確信に至ったが、論理として成立させるにはピースが足りないようで、さらに考え込んでいた。

「アンドロイドになった私に付随する現象よ。それしかないわ」

「だったら、菖蒲ヶ原さんの人生に重大な変化があるってことになるけど」

 三人が、それぞれの回転速度で考えに耽っていると、その揺れは突然やってきた。

「うわああ、地震だ」

「きゃ」

「うっ・・・」

 地震というよりも、衝撃だった。体長数十メートルの巨人が、校舎わきにぶっ倒れたような破壊力があった。ドドーンと轟音が響き、三人の身体が宙に浮いた。

「ぎゃ」

「きゃ」

「う・・」

 三人とも椅子から転がり落ちて、床に尻もちをついていた。いったいなんなのよ、と雪子が戸惑っている。

 いつの間にか曲が終わっていた。三人は話すきっかけを見失っている。その静寂の中に突如として訪れたのは、菖蒲ヶ原雪子の声であった。

{あ、あ、聞こえる?}

 それは校内放送のスピーカーからだった。校務員室にいる雪子は口を開いていない。

{慎二、聞こえる、聞こえているの。私の声、・・・、が、だから・・・、 私・・・は、菖蒲、ヶ原雪、子・・・、}

 途中から途切れ途切れとなっていたが、声の主は間違いなく菖蒲ヶ原雪子と認識できた。

「菖蒲ヶ原さん?」

 雪子は慎二の傍にいる。しかしスピーカーから吐き出される声も、間違いなく雪子であった。

「菖蒲ヶ原さん、この声は録音ですか」

 朧がそう考えるのは自然なことだ。

「し、知らないわよ。なんなのこれ、さっきからおかしなことばかりじゃないの。どうして私が放送でしゃべっているのよ。ドッキリなの」

{慎二、これは、・・・、 もう、・・、シンイシ、・・ダイブは・・・、あなたの・・・}

「もし菖蒲ヶ原さんの録音でないとしたら、いま現在、放送室で菖蒲ヶ原さんが話していることになりますけど」

「朧、それはありえないって。だって、菖蒲ヶ原さんはここにいるだろうよ」

「ここにいるのは、アンドロイドな菖蒲ヶ原さんです」

 朧の言葉は、ひどく乾いていた。 

「どういう意味だ」やや語気を強めて、慎二が訊き返した。

「生身の体は、違う場所にあるという意味ですよ。はっきりと言わせてもらうなら、いま放送室でしゃべっているのが本物の菖蒲ヶ原さんで、そこにいるアンドロイドな菖蒲ヶ原雪子は偽物じゃないのか、ということです」

 自分の言ったことがこの二人に受け入れられない、ということを朧は理解している。彼自身も突飛なアイディアだと思っていた。少しばかり体と精神を固くしながらの意見陳述であった。

「ふざけないでっ」

 バタンと、校務員用の机を叩いて雪子が立ちあがった。

「私は、私よ。菖蒲ヶ原雪子なの。あたりまえじゃないの。私に、菖蒲ヶ原雪子に偽物も本物もないわ」

「であるならば、いま放送室で話しているのは誰なんですか」

「きっと、誰かが私のモノマネをしているのよ。そうに決まってるわ」

「俺もそう思う。菖蒲ヶ原さんの声をマネて、悪ふざけしてるんだ」

{しん、じ。事実を・・、これ、・・しっかり、・・のよ。あなたはセルフが、・・おそらく}

 菖蒲ヶ原雪子による放送は、断続的に続いていた。頭上から流れ落ちてくる声を聞きながら、三人は神妙な顔つきだった。

「もう、こんなのウソよっ」 

「菖蒲ヶ原さん、待って」

 雪子が部屋を出てしまった。すぐに慎二も続いた。肩を固く強張らせて早歩きする彼女の後ろを、申し訳なさそうに付いてゆく。さらにその後ろには朧も連なっていた。

 校務員室と放送室は階が違う。階段を駆け足であがると、放送中が点灯しているそこへ、ずかずかと入り込んだ。慎二と朧も入室した。

「ええーっと、菖蒲ヶ原さん」

 放送部の部長である三年生女子が、乱入するように現れた雪子を見て驚いていた。

「いまの放送は誰がしていたの」

「誰って、えっ」

 部長の目線が微妙に泳いでいた。

「私のモノマネをしていた人がいたでしょう」

 詰問調の言い方に、部長は心外そうな表情である。

「あのう、えっと、菖蒲ヶ原さん。いまのいままで一緒だったのに、突然消えたと思ったら戻ってきて、モノマネってどういうことなの。からかってるの」

 彼女は菖蒲ヶ原雪子と一緒に放送していたと言った。それが校務員室にいた雪子が来る少し前に、どこかにいなくなってしまったとのことだ。

「菖蒲ヶ原さん」

 慎二が声をかけるが、雪子は彼のほうを見なかった。

「やっぱりだな」ホンモノがいたんだよ、と朧は言いかけた。

「こんなのウソよ。まったくデタラメだわ。くだらない、ホントにくだらない」

 叩きつけるような言った。顔中が憤慨と戸惑いの感情に支配されたまま、雪子は放送室を出て行ってしまった。

「菖蒲ヶ原さん、待って」

 雪子を追いかけようとした慎二の腕を、朧ががっちりとつかんだ。

「本物を探したほうがいいですよ、慎二先輩」

 慎二は厳しく朧を見た。

「もし、もう一人の菖蒲ヶ原さんがいるのなら、いろんなことがわかると思います」

 賛成したくはなかったが、朧の言うことは理にかなっていると思われた。

「わかったよ。でも、どんな菖蒲ヶ原さんがいても、菖蒲ヶ原さんとして接してくれないか。アンドロイドとか、本物とか、どうでもいいだろう」

 慎二の言い分は多分に感情的だが、間違っているわけでもないと朧は理解する。

「わかりました」

「行こう」

 慎二と朧は、学校中をくまなく探した。しかし、どのような形にせよ、菖蒲ヶ原雪子の発見には至らなかった。

「もう、帰ったのかな」

「たぶん、そうですね」

 二人は校務員室に戻っている。これ以上、学校内で雪子を探しても無駄だとの結論に達していた。これからどうするか、現状を把握しつつ作戦を練る必要がある。

「朧、菖蒲ヶ原さんが、どうなっているのか説明してくれよ。イマイチわからないんだ」

「だから、アンドロイドとは別の菖蒲ヶ原さんがいるんですよ。僕は、そっちのほうが生身の菖蒲ヶ原さんだと思う。悪いけど」

 茶を淹れるから飲むかと問うが、慎二は首を振った。一瞬ためらってから、結局、彼も飲まないことにした。

「たしかに、さっきまでここにいたのはアンドロイドな菖蒲ヶ原さんだったけど、放送室にいた菖蒲ヶ原さんもアンドロイドかもしれないんじゃないか」

「いま起こっているのは、僕たちの想像を超えた現象です。これといった決まりや方程式があるわけではないし、正直、正確なところはわからないですよ」

「菖蒲ヶ原さんの誤解もとけたから、きっと良くなるよ」

 家族関係の回復により心の課題がほどけて、サイキックという超常現象が彼と彼女から消えた。今回、雪子は嫉妬で我を失っていたが、すでに心の平静を取り戻している。じきにこの謎現象は治まるだろうと慎二は楽観するのだが、朧の見解は悲観的だった。

「たぶん、いままでとは違います。今回のことは菖蒲ヶ原さんだけの問題とは思えないんです」

 どのあたりが、と慎二に問われるが、朧は答えることをせずに質問をする。

「慎二先輩、セルフって、なにか心当たりはないですか」

「セルフ?」

「そう。放送室の菖蒲ヶ原さんが言ってたんですよ」

「セルフって、自分のことだろう。アンドロイドになったのは自分のことだと言いたかったんじゃないか」

 英語なのは雪子さんがドラマーだから、と付け加えようとした慎二だったが、その考えになにも説得力がないことに気づいてやめた。

「たしかにセルフって自分のことであるのだけど、放送室の菖蒲ヶ原さんが言おうとしたセルフって、自分を超えたところにある本当の自分のことじゃないのかな。内面の深いところにある確固とした自分のことで、それは不可侵で、尊くて、独立している唯一無二な自分なんですよ」

「朧、何度も申し訳ないが、よくわからないよ。急になにを言い出すんだ」

「すみませんでした。じつは僕もなんです。自分で言ってて、あまりにも中二くさくて汗が出てきた。でも、そういう考えが浮かんでくるんですよ。なぜかな」

 少しのあいだ、二人は静かになった それぞれが考えを巡らせている。気まずくなったことを嫌って、朧が別の課題をふった。

「そういえば、にょ~んな彼女のほうも、なんとかしないといけませんね」

「学校に来てないからな。会いたくても、どこを探せばいいんだか。心配はしているんだけど」

 慎二は朝子のことも忘れていなかったが、登校してないので話をすることができないのだ。

「俺は帰るよ。明日また菖蒲ヶ原さんと話してみる」

「僕は、もう一人の菖蒲ヶ原さんを探してみます。帰る家がないはずだから、きっとどこかをうろついているはずです」仕事が終わったら、別の雪子が行きそうな場所に見当をつけて探すつもりであった。

 放送部が下校を促す曲を提供している。校務員室で一人になった朧は、下校する生徒たちの風景を空のカップを持ちながら見ていた。


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