第31話

 結局、慎二は朝子への連絡手段を得ることができずに帰宅することになった。落胆しながら自宅の前まで来たが、背後に強い存在を感じとって振り返った。

 女が立っていた。やや鋭角な桃色縁の眼鏡をかけた、やせ形の中年である。見覚えがあったが、誰であったかすぐには思い出せなかった。

「ええーっと、なにか用ですか」

「お嬢様が帰ってこられました」

「え」

 唐突にそう言われても、慎二の頭の中に、そのお嬢様の該当者が浮かんでこなかった。

「雪子お嬢様ですよ。フルネームは菖蒲ヶ原雪子。ご存じないですか」

 もちろん、知らないはずがない。

「菖蒲ヶ原さんが」

「そうです」

「帰ってくるのは明日だと思ったけど。ところで、あなたは誰ですか」

「わたくしは菖蒲ヶ原家の家政婦で、水戸と申します。一度お目にかかっていますが」

 中年女が上半身を傾ける。角度に数ミリの誤差もない、きれいなお辞儀であった。

「ああ、そういえば」

 菖蒲ヶ原家の夕食に招かれたさいに会っていたことを、ようやく思い出した。

「なにやら、とある画像が送られてきたみたいで、それを見た雪子お嬢様が血相を変えてお帰りになりまして」

 慎二の胃が痛くなった。桃色メガネの向こうが険しくなっているのがわかる。

「これですが、見ますか」

 水戸がスマホを取り出して、画面を慎二の前へかざした。その電子機器に刃が装備されていたら、そのまま彼の胸を突き刺してしまいそうな勢いがあった。

「いいよ、知ってるから」と、慎二はやや斜め下に目線をそらした。

「とても見苦しいモノが写っていまして、雪子お嬢様にとっては地獄の光景だったようです。これはまさに地獄かっ」

 最後のほうの声がヒステリックに跳ね上がっていた。菖蒲ヶ原家専属の家政婦は、悪魔を懲らしめるアイテムのようにスマホの画面を見せ続けた。

「これは誤解だ。まったく違うし、雄別さんとはなんの関係もない」

「泣いていましたよ」

「え」

「雪子お嬢様は帰ってくるなり、泣き続けておられます。わたくしはどうしていいのかわからないのです。あんなにかわいそうな姿を見たの、初めてですので」

 あの夜の体育館での出来事は、男女の不純異性行為などではなく、急病人の看護というのが真実なのだが、どのような理由であっても、恋人である雪子の恋心がズタズタに引き裂かれたのも真実であった。

「わかった。いまから菖蒲ヶ原さんに会いに行くよ。そして、なにもかもが間違いであると説明する」

「来なくていい」

 家政婦の水戸に言われたのだと思ったが、違った。乾ききったその声は、慎二の後ろから飛んできた。

「菖蒲ヶ原さん」

 雪子が立っていた。両手をだらりと下げ、いかにも感情を押し殺しているといった様子だ。両目の周りが、まるで土偶のように腫れあがっていた。相当を通りこして、がむしゃらに泣きじゃくったのが一目瞭然である。

「お別れを、言いに、来たのだから」

 一つの言葉を発するたびに、彼女の中で膨らんだものが弾けそうになっていた。いまの雪子に話しかけるのは、風船の表面にカミソリの刃を這わせるような、きわめて繊細な注意を必要とすると慎二は肝に銘じた。だから慎重に言葉を選んで、言い訳を始めた。

「菖蒲ヶ原さん、まったく違うよ。あれは違うんだ。雄別さんは悪くないんだ」

 しかし残念なことに、慎二の口からは雪子を安心させるなんら具体的な叙述が出てこなかった。それどころか朝子をかばうような発言をしてしまう。

「この、うつけ者っ」

 いきなり怒鳴りつけて、さらに胸ぐらをつかんだ。雪子ではない。

「わたくしが旦那様だったら、あなたは粉みじんになっていましたよ」

 家政婦の水戸が激高したのだ。

「う、っく」

 女性とはいえ日々の家事で鍛えた握力は強力で、慎二は満足に息ができないでいた。

「水戸さん、放してあげて」

 雪子が力なく声をかけると、水戸は手を緩めて彼から離れた。解放された慎二は、ゲホゲホと咳を出してから雪子の前に立った。

「頼むから話を聞いてくれ。俺は、あのときは、そのう、体調を崩して朦朧としてたんだ。とにかくだ、熱が出て寒くて仕方なかった。ほんとに寒かった。だから、雄別さんが身体を張って温めてくれたんだ。ただそれだけで、なにもなかったんだ。そのう・・・」

 慎二は狼狽している。焦っているがゆえに訥々とした口調となり、言い訳に終始していた。雪子を愛しているという真実が伝えきれず、手の上でお手玉を繰り返す。しまいには言葉が出なくて黙ってしまった。 

「私は北海道にいても、慎二のことを忘れなかった。いまはどうしてるだろう、赤川君は女の子の相手で忙しいから、また一人でお昼を食べているんじゃないかと、いろいろなことを考えていた」    

 滔々と話す雪子は慎二の顔を見ていない。背後の光景を、心の隅っこでぼんやりと眺めていた。

「完璧にはできないけど、いい彼女でありたいと思っていた。慎二が病気になって、もし裸になって治せるんだったら、私は喜んで服を脱ぐし、前にもそうした。だれがいようと、私はそうするの。必ずそうする。慎二のためにそうする。その気持ちは転校生なんかには絶対に負けない」

 彼を介抱しなければならないのは雪子の役目であるのに、肝心な時にいなかったではないか、と責められたように感じていた。

「だって、私は慎二の彼女だもの」

 傷心の身なのにわざわざ慎二に会いに来たのは、小さなつむじ風の状態で二人の関係を終わらせようと考えたからだ。大きなうねりに身をまかせてしまえば、感情の制御ができなくなると危惧したのだ。

「でも、それは私が勝手に思っていただけかもしれない」  

 慎二は黙っている。このままでは恋愛関係が終ってしまうのではないかと絶望的な気持ちになっていたが、妙に怖気ついてしまい、なぜか適切な言葉が頭に浮んでこない。いまこの瞬間、体のどこかにあるスイッチがオフになればいいのにと、彼らしくないことを考えながら下を向いていた。

 別れることを承諾したので返答がないのだ。

 雪子は、そう考えてしまった。

 心のどこかで、もし慎二が膝をついて許しを乞うてきたら、雪子の足に泣きながらしがみ付いてきたら、その時は許してしまうかもしれないと淡い期待を抱いていた。しかし、彼氏の態度は冷淡に見えた。遠くの彼女よりも、近くで親身になって介抱してくれる女の子を選択したと決めてかかってしまった。

「どうして」

 あまりにもショックであった。すでに涙が枯れるまでさんざんに泣いてきたのだが、ふたたび連なった涙滴が落ち始めた。絶望へと導かれた恋心が破局を決心する。

「さよなら」

 顔をふせって振り返り、頭の中を真っ白にさせた雪子がふらふらと歩き出した。

 彼女は前を見ずに車道へ出ていた。慎二は下を向いていたので気づくのが遅れた。家政婦水戸が「雪子お嬢様」と叫んで、一歩を蹴りだした。

 クレーン装置が付いた四トントラックが突進してくる。運転手はケイタイの画面を見ており、車道をふらつく女子高生の発見に致命的な遅れを生じさせてしまった。

「あ、あぶなっ」

 ようやく顔をあげた慎二が見たものは、悲惨の一言に尽きた。

 四トントラックの運転手は、目いっぱいの急ブレーキをかけたが間に合わなかった。垂直の車体前面の真ん中に、雪子は激突した。ものすごい音がして、付近にいた幾人かが反射的に肩をすくめた。

 雪子は作用反作用の法則通り、反対側に勢いよく跳ね飛ばされた。数メートルを走るように滑空したあと、硬いアスファルトの上をガタゴトと転がってハナミズキの街路樹に激突したあげく、それを根元からへし折って止まった。ぶつかった本人は、ピクリともせずに横たわっている。

「キャアアアー、お嬢―――様っ」

 水戸の金切り声が響いた。両膝をがっくりと落とし、両手で顔を覆った。慎二は氷ついてしまい、体のあらゆる部分を一ミリたりとも動かさすことができないでいた。

 トラック前面の真ん中部分が人型に凹んでいた。人体よりはよほど丈夫なはずなのに、車体の頑丈なフレームまでひん曲っていた。まるで固い電柱にでもぶつかったのかのような有様だった。

「菖蒲ヶ原さんっ」

 慎二がやっと動き出した。ただし直ちに駆け寄るのではなくて、手をゾンビのように前へ突き出し、片足を引きずるように進むのだ。

 トラックの運転手が降りてきた。ただでさえ痩せた顔が真っ青になって、気の毒と思えるほどである。街路樹と雪子が倒れている場所にはいかず、大概に凹んだトラックの前面に立ち、まるで生ける屍のように立ちすくんでいた。後続車が次々とくるが、クラクションなど鳴らさずに、慎重に横をすり抜けていく。通行人が雪子のもとへ駆け寄ってきた。家政婦は動けない。慎二はどん尻である。

「ちょっと、大丈夫。わたしの声が聞こえる」

「むやみに触らないほうがいい」

「だれか、救急車を呼んで」

 若い女性とナイスミドルな男性が雪子の様子を窺う。そこへ、ロボットのような足取りで慎二がやってきた。

「菖蒲ヶ原さん」

 へし折れた木の傍で、雪子は仰向けになって倒れていた。あれだけの大物にぶっ飛ばされたにしては、外傷らしきものがまったくなかった。服はあちこちと擦り切れているが、顔色もよく、まるで寝ているかのようだ。慎二を含む数人に囲まれて、まるで眠れる道路の美女である。

「ああー、もう、腹立つ」

「うっわ」

 雪子が唐突に立ち上がった。彼女をのぞき込んでいた者たちは、びっくりしてのけ反ってしまう。

「どうせ私は大きな胸じゃないし、慎二のそばにいつもいられるわけではないし、たまご焼きだって、ただ甘いだけでダシなんか入れてないわよ。だからって、ものの数日で浮気するってどういうことなの。あれって、体育館でしょう。よりにもよって、なんだってあんなところで裸になるの。バカなの、ヘンタイなの、団〇六なの」

 擦り切れた服を着た女子高生がまくし立てていた。どうにも納得できないぞ、といった権幕で、彼氏に猛然と詰め寄る。

「菖蒲ヶ原さん、ええっと、大丈夫なのか」

 慎二は呆気にとられていた。雪子の身になにが起こったのか、適切な説明が思いつかないでいる。周りに集まっていた人々も同じで、ガミガミと罵り声を張り上げる女の子を、不思議そうに見ていた。

「大丈夫とは、なによ。トラックに轢かれたくらいで怪我なんてするわけないじゃないの。バカにしないで」

 雪子の頬がうす汚れていた。地面をゴロゴロと転がったさいに、ほどほどの土埃を吸着したようだ。美人顔なのに、やんちゃな小学生みたいで、そのアンバランスさが事態の深刻さを不明瞭なものにしていた。

 死亡、あるいは瀕死の重傷かと思われた雪子が、元気いっぱいで文句をぶつけてくる。慎二が愛してやまないドS女子であり、その無礼とも思えるほどの健在ぶりがメソメソと湿っていた漢気を復活させた。

「菖蒲ヶ原さん、雄別さんとのことは後で説明する。それよりも、すぐに病院へ行かないと。いま救急車を呼ぶから」

 リセットされた慎二から焦りがなくなり、確固たるプライオリティーを見出した。すぐに救急車を呼ぼうとした。ポケットからケイタイを取り出して触れようとするが、雪子がその手を払った。危うく落としそうになる。

「勝手なことしないで。大丈夫だって言ってるでしょう。なんなのよ」

 雪子は、いかにも不機嫌な態度をあらわにした。「フンッ、なにさ」と捨て台詞を吐くと、その場を去ろうと歩き出した。

「ゆ、雪子お嬢様、待ってくださいまし」

「菖蒲ヶ原さん、待って」

 水戸と慎二が追いかける。雪子の歩みは早くて、二人は走らなければならなかった。

 女子高生を轢いたあげく、十数メートルもぶっ飛ばしてしまったトラックの運転手は、信じられない光景を見ているかのようにア然としていた。しかし雪子が立ち去ると、蹴飛ばされたようにトラックへ乗り、その場から遁走してしまった。

 雪子に追いついた慎二が会話しようと試みるが、猛烈に機嫌が悪くて手の付けられない状態だった。彼女の体の具合を心配したが、例えば肩に触れようとすると、手を無茶苦茶に振り回して抵抗されてしまう。

「いやらしい手で触らないで」

「菖蒲ヶ原さん、たのむよ。ほんとうに心配なんだ。だから、一緒に病院へ行こう」

「うるさい。なんど言えばわかるの。私はなんともないっ」

 浮気をした男のいうことなど誰が聞くものかと、雪子は頑な態度を崩さない。

「雪子お嬢様はわたくしがなんとかするので、うつけ者は帰りなさい」水戸の手が慎二のシャツをつかんで、後方に引っぱった。

 この状況では、自分がなにをいっても反抗される。ここは大人しく引き下がって、ベテランの家政婦に任せるほうが賢明だと、慎二は判断した。

「必ず病院に行ってくれ。精密検査したほうがいい」

「だから、うるさい」

 フンっ、とあっちのほうを向いた雪子は、あっちのほうへ行ってしまった。

 家政婦水戸が敵意のこもった一瞥をぶつけてから、お嬢様の後を追う。通行人たちも解散し、一人になった慎二は、へし折れた街路樹の前まで行き深いため息をついた。

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