第8話

「へえ、菖蒲ヶ原さんとイチャラブですか」

「いや、イチャラブとかじゃないし。すごく大変だったんだって」

「ハダカで抱き合ってタイヘンって、それはヘンタイの間違いでしょう」

「あれは緊急避難的な措置なんだって。結局、服も財布もケイタイも、下着以外のすべてがなくなるし散々だったよ」

 放課後の校務員室。朧が淹れた紅茶をイヤそうにすすって、慎二が先日の出来事を報告していた。

「慎二先輩、僕がせっかく淹れた紅茶をマズそうに飲むのは心外です。殴りますよ」

「せっかく淹れてくれてこんなことを言うのは心苦しいが、ティーバッグの二度目は味が薄くて泣けてくる。殴るなよ」

「それ、三回目です。僕が飲んでいるのが二回目」

「どんだけ節約家なんだよ」

 不平を言いつつも、すべてを飲み干して、ごちそうさまと礼を言った。

「それじゃあ、菖蒲ヶ原さんはサイキックだったわけですか」

「ああ、やっぱりプレコグだった。ただし本人には制御できないようで、なんていうか、ふっとイメージが浮かんでくるみたいだって」

「慎二先輩と似てますね」

「ちょっと違うかな」

 自分自身に起こった瞬間移動や雪子の予知能力のことを、朧にはすべて話していた。この作業着姿の後輩とは、中学生の時からの良き相談相手だ。同級生ではないがウマが合うようである。

「話を聞く限りでは、慎二先輩と菖蒲ヶ原さんの能力は、なんていうか、お互いに影響し合っているように感じますね。サイキックが共鳴しているっていうか」

「それは俺も思ったよ。でも、菖蒲ヶ原さんとは接点がないんだけどなあ。クラスも違うし、親戚でもないし、なんでだろう」

「そういう要因ではなくて、もっと心理的なものだと思いますよ」

 ガンと、いつもより強めにカップを置いた。

「ええーっと、どういうことかな」

「慎二先輩が菖蒲ヶ原さんに惚れたってこと、なんじゃないですか」

 慎二は苦笑いしながら首を横に振る。

「そんなことはないって。トラックタイヤの時だって、初めて話したんだから」

「話したことはないけれど、じつは恋心があった的な感じだとか。慎二先輩らしく、じめじめとした片想いを熟成させていたんです」

「俺の心を勝手に決めつけるな。そんなんじゃないぞ」 

 朧が立ち上がって窓際に寄った。外を眺めて呟くように言う。

「噂をすればで、あれは菖蒲ヶ原さんじゃないですか」

 慎二が隣に並んで、後輩が見ている先へ目を向けた。

「そうだ、菖蒲ヶ原さんだ」

 窓の外、校舎と校舎に挟まれた空間に雪子がいた。一人ではない。男子生徒と二人っきりで、なにやら話し込んでいる様子だ。

「こんな人気のない場所でなにしてるんだろう」

「慎二先輩、ニブイにもほどがありますよ。男と女が二人っきりということは、想像つくでしょう」

「ひょっとして、ラブシーンということか」

「ぷっ」

 真顔で言う慎二の顔を見て、朧は吹き出してしまった。

「なにがおかしいんだよ」

「いや、ラブシーンとかって、おっさんが使う単語でしょう。昭和かって話」

 朧がクスクス笑っている。慎二は憮然とした表情だ。

「あれは、男子が告白しているんですよ。しかも撃沈確定です。ほら見て、男のほうが詰め寄ってるけど、菖蒲ヶ原さんは帰ろうとしてるでしょう。おそらく、にべもなくフラれたんです。見た感じチャラいし、まあ、おととい来やがれってことですね」

 腕を組んで、フンと鼻を鳴らした。

「にべもなく、って表現もオッサン的だぞ」

「うるさいな。僕が使うから若いんです。あっ」

 外を見ていた朧の表情が固くなった。

 言い寄っていた男子が雪子の腕をつかんだ。緊迫した状況である。憤慨した朧が無意識のうちに慎二の腕を握った。

「菖蒲ヶ原さん」

 慎二が叫んで、その場から走り出そうとした。

「え」

 突然、朧は重力変化を感じる。平衡感覚が乱れ、乗り物に酔った気分になった。次の瞬間、むわっとして湿った熱気に息苦しさをおぼえた。

「うわあ、なに。ここ、なに」

「おっわ、な、なんだ、これ」

 朧の隣に慎二がいた。後輩の左手が彼の腕をつかんでいる。指の力は強まりこそすれ、離れることはなかった。

「慎二先輩、ここってお風呂場ですよね」

「ああ、銭湯みたいだ」

 二人がいるのは公衆浴場だった。流行りのスーパー銭湯ではなくて、湯船の背に富士山の画がある昔ながらの下町銭湯だ。大きな湯船と洗い場の中間地点に立っていた。早い時間なので、入浴客はまばらである。年寄りが二人、肩まで湯につかっており、洗い場には中年男が二人いて、近いほうの一人は股の間に手をつっ込んでゴシゴシと泡立てていた。

「これはひょっとして、ジャンプしてしまったってことか」

 やってしまったと、制御不能のサイキックが首を垂れる。

「どうして僕までジャンプしてるんですか。めんどくさいなあ」

 超常的な現象に直面しても、朧はうろたえない。やれやれといった表情だ。

「すまん、朧。どういうわけだかこうなった。知っての通り、俺の能力は自分では制御できないんだ」

「まあ、女湯でないだけマシですけど」

 本当の着地場所はそっちにしたかったのでは、と冷めた目線が問いかけていたが、慎二はボリボリと頭を掻いていた。

「そうだ、朧。せっかく来たんだから入っていかないか」

「ええーっ、イヤですよ。どうして慎二先輩とツレ入浴なんですか。よどんだ野池に浸かったほうがマシです。先輩はヒルに血を吸いとられて死んでください」

 たいして考えもせず誘ってしまったが、口達者な後輩の拒否に遭ってしまう。慎二は、しまりのない顔でヘラヘラと自嘲している。

「おう」

 その時、洗い場の奥にいた男から二人に対して声がかかった。

「なんやおまえら、保健所か。いやに若えなあ」

 男が立ち上がった。慎二と朧はその中年男には気づいていたが、まとっている禍々しさを見逃していた。シャンプーの泡でカモフラージュされていたのだ。

「うっ」

「ヤバ」

 男の肩、腕、さらに背中には目が痛くなるほど入れ墨が彫り込まれていた。二人は無意識のうちに直立不動の姿勢となってしまう。

 全裸のアウトローが、なぜかぐるりと回転してから朧の前に立った。体から立ち昇る湯気でむせてしまうほどの近距離であり、いろいろな部位を余すことなく見せつけている。

「おめえ、ひょっとして女か」

 美少年が過ぎると美女と見分けがつかなくなる。朧の顔を知らない者が見ると、ちょっとばかりボーイッシュな女の子だと勘違いしても仕方のない反応だ。 

「ええーっと、そのう、違います。はい」

 そう答えたのは慎二だった。

「いや、どうみても女だろう。なんで男湯にいるんだ。ああーん」

 普段から一般市民に対して恫喝調な物言いなので、悪気はなくとも言い方に圧迫感があった。作業服姿ではあるが女の子らしい飾りが目立つのも、アウトローの思い込みを助けていた。

「姉ちゃん、金欲しいんだったら、がっぽり稼げる店紹介してやるぜ」

 アダルトなお仕事へのお誘いである。このままでは半ば強制的に働かされるのではないかと、世間知らずの若者たちが焦る。

「こ、こいつは男の娘です。女の子ではありません。ついてるモノは付いてます。けっこうデカいです。すみません」

 切羽詰まった慎二が口走ってしまう。男の娘(こ)と言われた朧は驚き、そしてキッと睨んだ。

「おう、そうか。おめえは男の娘かあ。デカいのか。最近はケッタイのが流行ってんだなあ」

 男の娘の顔と股間部分を舐めるように見てから、アウトローは洗い場に戻った。

「慎二先輩、あとで頸動脈を切り裂いてやりますからね」

 真顔で言うが、慎二は明後日の方向を見てやり過ごそうとする。

「おーい、男の娘。ちょっとこっちきて背中ながせや」

「えっ」と朧の目が点になった。

 アウトローの厳めしい眼力が、こっちへ来いと言っていた。断る理由がないのではなく、断っても許してもらえない状況ではないかと二人は危惧した。 

「慎二先輩、呼んでますよ」

「いや、呼ばれたのは朧だから」

「いやいや、慎二先輩は先輩なので」

「いやいや、男の娘は朧だから」

 二人して、どうぞどうぞと譲り合っていた。

「グダグダいってねえで、早くこいやっ」

「は、ハイッ」

 命の危機を感じる迫力で怒鳴られて、朧がダッシュする。

「ふろ場で服着るんじゃねえ。とりあえず脱いでこいや。そっちのあんちゃんもだ」

 朧と慎二が脱衣場にいって衣服を脱いだ。番台のおばちゃんに入浴料を払って、さらに手ぬぐいを買って腰に巻いた。大事な箇所をギリギリ隠してから浴場へ戻る。

「いいかあ、手え抜くんじゃねえぞ。つか、ホントにでけえな」

「は、はい、がんばります」

 やわらかスポンジにボディーシャンプーをたっぷりとしみ込ませて、朧が派手気味な背中をこすり始めた。

 主張が強過ぎるアウトローの背中を泡だらけにして、「はっへはっへ」と半裸の美少年が息を切らして上下していた。少し距離をおいた慎二が、その光景を興味深そうに眺めている。

「おーし、よくやった。ご褒美にフルーツ牛乳おごってやっからよ、脱衣所で待ってろや」

 背中を流してもらうのは美形な三助に限ると、アウトローはご満悦だ。困難な任務をやり遂げた朧は、慎二の腕を強引に引っぱる。

「朧、どこ行くんだよ」

「逃げるに決まっているじゃないですか。一刻も早く危険な戦場から脱出するんですよ」

「フルーツ牛乳はいいのかよ」 

 一瞬止まった朧が、鬼神のような目線を突き刺した。

「いや、悪かった。そうだな、ここは逃げるに限る」

 そう言って、慎二が一歩を踏み出した時だった。

「おっわ」

 濡れたタイルの床にたまたま落ちていた石鹸を踏みつけてしまい、そのまま後方へひっくり返った。手をつかんでいた朧も一緒に転んでしまう。二人が体を打ち据えてしまう寸前、周囲の空気がクシャッとつぶれた。

「うわあ」

「ぐは」

「きゃっ」

 突如として圧迫感のある空間に落下した。そこはとても狭く湿っていて、青っぽい雰囲気と芳香剤の香りが漂っていた。

「な、ここどこ、どこ」

 逆さになりながら身動きがとれない朧が喚いている。

「ちょ、ちょっと、体が絡まってる。どうなってんだ」

 なにか柔らかいものが慎二を圧迫していた。うざったいと思い、両手でそのふくらみを押しのけようとする。

「イヤー」

 悲鳴にも似た声が響いた。とっさに手を引っ込めた慎二は、力を込めて触った肉っぽいものに既視感があった。

「うっわ、む、胸。てか、菖蒲ヶ原さん?」

 雪子の胸であった。

「いー、いきなりなんなのよーっ。このヘンタイ、チカン、しね、死ね」

「ちょちょ、まって、ぐええ、グッフ、痛っ」

 ビンタではなく、グーの本気パンチだった。ポカポカとやられて、慎二はほうほうの体になりながらも必死にガードする。彼の下で潰されかけていた朧が立ち上がろうとした。

「うぎゃ」

 体勢をもとに戻して中腰になった瞬間に、雪子の右フックがさく裂した。もはや相手が誰でもかまわずに拳を繰り出している。

「ちょっとやめましょう。とにかく落ち着いてください」

 朧がそう言うが、雪子の暴力は止まらない。

「ここって、どこだ。なんで菖蒲ヶ原さんがいるんだ」

「慎二先輩、ここトイレですよ。しかも学校の女子トイレ」

「え、トイレ。な、なんで」

「ジャンプしたんですよ、あなたが」

 銭湯ですっ転んだ二人は、よりにもよって雪風東高校の女子トイレの個室へジャンプしてしまった。

「ヘンタイ、ヘンタイ、バカ、カメムシ、ヘッポコ。殺してやろうか、絶対殺してやるからな」

 物騒な言葉を吐き出している雪子は、便座に座ったままパンチを繰り出していた。なにせ用を足していたら、全裸に近い男たちが極めてプライベートな個室にいきなり現れたのだ。ビックリを通りこして、精神は恐慌状態である。

「いて、あ、って、これは違うんだ。そのう、事故なんだ。はい、大列車事故」

「あちゃー、よりによって菖蒲ヶ原さんがシッコしている最中にジャンプしますかね」

 雪子の動揺具合を、彼女の膝付近までずり下げられたパンツを発見した朧が察する。

「慎二先輩、どうして微妙な場所にジャンプしてばかりなんですか。絶対わざとでしょう」

「そんなわけないだろう。だから何度も説明してるけど、俺のテレポーテーションは自分の意思じゃない。ここに来たのは不可抗力なんだって」

「いやいや、怪しいですね。潜在意識の中で女子便所を覗きたいと思っていたんですよ。通常意識かもしれない」

「ふざけんなよ、朧。言っていいことと悪いことがあるぞ」

「だって、そうでしょう。さっきは風呂屋の男風呂で、今度は学校の女子便所の個室なんですよ。しかも菖蒲ヶ原さんが最中じゃないですか。どう考えても計算づくとしか思えませんって」

「俺は男だぞ。どうして男風呂にすき好んでジャンプするんだよ」

「それは、慎二先輩は我がまま性欲なんです。男でも女でも幼女でも、なんでもいいんですよ」

「ちょっと待て。さすがに最後は聞き捨てならないぞ。俺はレベル10のヘンタイじゃない」

 手ぬぐい一枚を腰に巻いただけの慎二と朧が言い合っている真ん中には、いまだに用を足し終えていない雪子が、プルプルと震えながら座っていた。

「うるさいーっ。あんたら、いいかげんに出ていけーっ」

 二人は個室から叩き出されてしまった。慎二などは、最後に思いっきりグーパンチをくらって、顔の左半分が歪んでしまった。

「いたたた。歯が、歯が折れたんじゃないか」

 よろけながらもなんとか洗面台にたどり着き、鏡に顔を近づけて打撲の重傷度を確認する。もう一人の男子は出入り口とは逆方向へ向かう。

「朧、おまえどこへ行く気なんだ」

「慎二先輩、これより人間の尊厳を失うと思うけど、あとは頑張って成仏してください」

 ナマンダブツと言い残して、忍者よろしく、半裸の美形男子がトイレの窓から出ていった。

「おい、ここって一階じゃないだろう。ハットリかよ」

 呆れ顔でブツブツ言っている慎二は、彼女らの接近に気づいていなかった。

「うわっ、なに、なんで男子がいるの。しかも、ハダカーッ」

「キャー、ヘンタイ」

「たいへん、ヘンタイが女子トイレでなんかしてるう」

 タイミング悪く放送部の女子たちがきてしまった。トイレが大騒ぎとなり、学校の女子トイレに不審者が侵入したと、彼女たちが大声で喚きだした。

「い、いや、これは違う。間違いだ、事故なんだ、な、朧、そうだろう」

 すでに朧の姿はない。慎二はアローンな状況だ。

「うわあああ」

 居たたまれなくなってそこから逃げようとしたが、女子たちが出入り口付近を固めていた。突破口が塞がれてしまい、焦りに焦った半裸男子は、仕方なく女子トイレの個室へと逃げ込んた。

「な、なんで戻ってくるのよっ」

 そこは雪子がいた個室であり、いま現在も彼女が健在であった。ちょうどすべての用を足し終えたところで、膝上まで下げていたパンツを定位置に戻している最中だった。 

「しー、しー」と慎二が言う。

 雪子に対し、もう一度用を足すように促しているわけではなく、ほんのひと時の無口を求めていた。

「先生、ここです。見るもおぞましいドヘンタイの裸野郎がヤヴァいです」

 外がさらに騒がしくなった。放送部の正義感あふれる女子が、校内の憲兵である教師たちを連れてきた。放課後なので生徒の数は少ないが、教師たちはほぼ全員が校内にいた。 

 駆けつけた数名の男性教師が、対不審者捕獲用具であるサスマタや直接打撃用の金属バット、尋問用のペンチ類を携えている。

「どこだ、いないぞ」

 顔、上半身、下半身すべてがマウンテンゴリラの亜種である体育教師が、金属バッドを高々と掲げて、ヒクヒクと鼻を効かせながら女子トイレ内を舐めるように見回していた。

「個室に逃げました。あそこです」

 女子生徒が、ピンポイントで不審者の居所を指し示した。

「おらあ、ヘンタイ。出てこいやー」

 ドンドンと、ドアが激しく打ち叩かれた。ゴリラの腕力は半端なく、ドア板を砕かんばかりの勢いだ。

{ちょっと、なんなのよこれは。ていうか、裸でジャンプするって凶悪犯罪にもほどがあるわ。どれだけヘンタイなのよ} 

{だから違うんだ。朧と銭湯に入っていたら突然ジャンプしたんだよ}

 雪子と慎二の会話は極小声なので、半分以上は表情で語っていた。

{どうしてお風呂なんか入っているのよ。いや、どうして私のところにジャンプしくるのさ。いい加減にしてよっ}

{あえて説明すると、俺のサイキックは制御不能で、自分の意思ではどうにもならないから、だと思う}

{この状況でそんなこと言って納得すると思うの。バカじゃないの。早く出ていきなさい}

 雪子は突き放すが、慎二にはその命令を実行できない事情がある。

{ど、どうしよう。このままじゃあ、俺は天下の覗き魔女子便所荒らしヘンタイ男として、一生涯不名誉な人生を歩むことになっちゃう}と、すでに泣き顔である。

{知らないわよ。自分が悪いんでしょう。サイキックをみだらな欲望のためにつかったんだから。自業自得よ}

{だから、それは誤解なんだって。俺のサイキックはところかまわずだって、菖蒲ヶ原さんがよく知っているじゃないか}

{どうだか。さすがにここめがけてジャンプするって、怪しすぎるのだけど。ああーっ、ひょっとして、慎二はいつもそんなことばかりを考えているの。もう、ゆっくりとトイレにも行けないじゃないの。膀胱炎になってしまいそう}

{だから、違うって言ってる}

 二人の会話は、もはや顔芸の見せ合いに等しかった。

「いいかーっ、ヘンタイめ。これが最後のチャンスだ。あと五秒だけ待ってやる。大人しく投降すれば情状酌量を考えてやってもいい。いまなら無期停学で勘弁してやる」

 投降条件としては、うま味のない内容だった。個室の中からは黙で回答を示した。

 五秒たった。

 ゴリラ教師がニヤリとし、その薄っぺらなドアに向かって、野太い蹴りが放たれた。

 勢いよくドアが開いた。中にいたのは、雪風東高校でもっとも美麗と誉れ高い女子生徒であった。

「あ、菖蒲ヶ原。ここでなにしてるんだ」

 120パーセント、覗き魔ヘンタイ男子生徒がいると確信していたゴリラ教師は、予想だにしなかった美少女との遭遇に、頭の中が真っ白になってしまった。

「おしっこをしてますけど、なにか」

 便座に腰かけている女子のショーツは、わざわざ膝下までずり下げられていた。排尿行為という、思春期の女子としてはもっとも男性に見られたくない現場であっても、彼女の背筋はピンと伸びていた。股の部分はスカートでキッチリと隠されている。

「キャー、チカンーッ。痴漢よ。だれか、だれか助けてー」

 女子高生の悲鳴がけたたましい。死ぬほど慌てたゴリラ教師は尻もちをついて、「違う、違うんだ」と、必死になって喚いていた。

 そこへ女教師と野次馬女子生徒らが駆けつけて、個室には菖蒲ヶ原雪子だけがいることを確認し、さらに暴力まがいなことを仕出かして覗きをしたのが生徒指導のゴリラ教師だと確信した。

「先生がチカン、したーっ」

「やだあ、ありえない。先生が菖蒲ヶ原さんを襲った。死ねばいいのに」

「レイプよ。先生がレイプしたー。もう、この世の終わりよー」

 女子生徒らは口々にゴリラ教師を非難した。

「刈谷先生、これはタダではすみませんよ。すでに校長と教頭には報告しました。これから警察に通報します。特殊部隊が来ますから覚悟なさってください。寄せ場行きです」

 女子トイレは、阿鼻叫喚、てんやわんやの大騒動となった。校長と教頭の学校幹部が駆けつけて、土下座して無実を訴えているゴリラ教師を叱責する。用を足し終えた雪子は、皆に心配してもらいながらその場を去った。プリプリと怒っている様子に、教師も女子生徒も声をかけるのは躊躇われた。

「ほんとにもう、なんなの。でもまあ、刈谷の泣きっ面を見られたのは面白かったかしら。フフフ」

 廊下を一人ほくそ笑みながら歩いている雪子とすれ違った女子生徒が、怪訝な顔で見ていた。

 いっぽう慎二は、自宅に戻っていた。ドアを蹴破られる寸前のところでサイキックが発動し、間一髪でジャンプすることができた。オーム用の大型ケージの中にギチギチになって収まっていた。テリトリーを奪われたピーちゃんが、{このヤロウこのヤロウ}と口走りながら暴れている。

 しばらくその状態で考え込んでいると、居間の電話が鳴り始めた。羽毛だらけになってケージを出た慎二は、力なく受話器を耳に当てた。

「慎二先輩、いまどこですか」

 朧からであった。

「自宅にいるよ。籠の中だ」

「かご? 状況が見えないんですが」

 詳しい経緯を説明するついでに、朧がさっさと逃げたことをグチグチと責めた。

「僕までチカンだと思われたくなくて。だってヘンタイって噂がたったら、さすがに仕事はクビですよ。社会人はいろいろと大変なんですから」

 それは正論であると納得する。

「とりあえず銭湯に行って、僕と先輩の服とその他を回収してきました」

 明日渡すので、予備の制服でもジャージでもいいから服を着て登校するようにと進言する。いまだに手ぬぐい一丁の鳥くさい男子は苦笑いだ。

「慎二先輩。サイキックの能力が手あたり次第になってるんじゃないですか」

「そうなんだよ。どうしてこうなるのか、自分ではわけがわからない。菖蒲ヶ原さんは、俺の潜在意識が望んでいるようなことをいうし、なんていうか、誤解だらけでつらいよ」

「誤解じゃなかったら、どんだけヘンタイなんだってことですね。でも望んでいたんですよね」

「だから誤解だって」

 通話先がくっくと笑い、慎二はブツブツと言い訳を繰り返していた。

「とりあえず、刈谷先生が覗き魔ということになって、校長室でシバかれているみたいです。慎二先輩の面は割れていないようですから、あまり落ち込まないでください」

 女子トイレで女子生徒に目撃されていたが、一瞬だったのと裸のインパクトが強すぎて、慎二の顔は記憶されていなかった。後の騒動のほうに関心が集中したのも、露出男子には幸運となった。明日からなにごともなかったように登校できると、とりあえず安堵した。ただし、どうやって雪子へ謝罪しようかと、通話を切ってからしばらく悩んでいた。


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