第7話

 空気が乾燥して埃っぽかった。瓦礫と廃墟の街並みに色彩はなく、日本とは異質な匂いが漂っている。

「うっわ」

「えっ、ここどこなの」

 騒々しかった。人々の喧噪ではない。もっと物理的で衝撃力を伴う物々しさであった。

「きゃ、なにこれ、じゅ、銃声」

 とっさに身をかがめて、雪子は地べたへ這いつくばるような体勢になった。近くで小気味よい金属音が断続的に、時には連続して鳴り響き、その合間に男たちの怒声や女子供の悲鳴があった。

「ひどいよ、菖蒲ヶ原さん。グーで殴るのは反則だって。あれはわざとじゃなくて、つまづいたら偶然つかんでしまったんだよ。ほんとにわざとじゃないんだ」

「バカッ、頭を低くしなさいっ」雪子が叫ぶ。

「うわ」

 ブツブツと愚痴らしきことをつぶやく男子の胸ぐらを引っ張って、埃だらけの地面に押しつけた。その上をヒュンヒュンと鋭い金属音が飛んでゆく。

 ドカーンという大音響とともに、近くの建物の壁が吹っ飛んだ。大量の土煙の中に火と火薬のニオイが充満していた。

「ゲホゲホ、な、ここどこ」

「おそらく中東のどこか。戦争中ってとこね」

「戦場なのか。なんで。カメラマンはどこ」

「なんでって、あなたがジャンプしたんじゃないの。それとカメラをとっている場合じゃない」

 慎二は一瞬ポカンとした表情をした後、「ううーん」と考え込んだ。

「なぜだか知らないけど、またジャンプしてしまったのか。おそらく菖蒲ヶ原さんに触れてしまったので、無意識が発動したんだ」

 ふれた、というのは、彼の手前勝手な解釈でしかない。

「早く元に戻してよ。このままじゃ撃ち殺されるか爆弾で粉みじんになってしまう。女子高生が戦死してしまうのよ、女子高生が。日本社会の損失じゃないの」

 銃撃は激しさを増していた。苛立ち気味な雪子は、慎二の太もも肉を千切れんばかりにつねっていた。

「いてててて。ちょ、ちょっとやめて」

「早くしてっ」

「わかったって。痛いから、あのう、痛いからさあ」

 十メートル先の建物の上部が轟音とともに吹き飛んだ。ロケット弾の命中であり、コンクリート片やら瓦礫やらが雨アラレと降ってきた。幸い、二人は物陰にいて破片の直撃は避けたが、呼吸器を損壊させるような濃い粉じんに包まれている。誰かが、「RPG、RPG」と叫んでいた。

「ゲホ、菖蒲ヶ原さん、大丈夫か」

「大丈夫なわけないでしょう。私、小さいころに喘息やってるのよ、キャホン、キャホン」

 慎二も咳き込んでいるが、雪子は彼の倍以上のむせかえりだ。

「マズいなあ。どうしよう、これはマズいぞ」

 必死になって元の場所に戻るように念じるが、戦場の空間は相変わらずだった。

土埃の中から黒づくめの男たちが現れた。二人の前に立ち、短く言い合った末にアサルトライフルの銃口を向けた。

「きゃっ」雪子が悲鳴をあげた。

「わっ、やめろ。撃つな」

「アッラー」

 とっさに慎二が雪子に覆いかぶさった。その刹那、紛争地帯ではありふれた突撃銃が火を噴いた。

 パパパパパーンと乾いた連射音が響いた。だが幸運にも、発射された銃弾が二人の体をつらぬくことはなかった。すぐ後ろにある氷塊をバシバシと叩いて、砂埃なるぬ氷埃が舞っていた。

「う、撃たれた」

「マジかーっ」

 雪子が自分の体表面をまさぐる。慎二はぜひ手伝いたいと思うが、100パーセント殴られることになるので、グッと抑えた。

「いや、大丈夫。撃たれてないわ」

「よかった」

「慎二、あなたは」

「俺も大丈夫だったみたい。とりあえず、どこも痛くはない。ってか、寒っ」

「ほんとだ、寒いね」

 二人そろって立ち上がり、周囲を見回した。

「ええーっと、ここはなに。どこなの」

「見えるのは雪と氷と水で、しかもめっちゃ寒いぞ」

 天気は快晴で風もなかったが、右も左も雪と氷で、ところどころ池のような水たまりがあった。シンプルで美しくはあるが存分に寒々しかった。

「だからどこなの」

「おそらく、北極とか南極っぽい。グリーンランドかも」

「もう、なんなのよー」

 突撃銃で撃たれた瞬間に戦場からジャンプしたことを、二人は理解していた。

「慎二の瞬間移動が発動したわけね」

「コンマ一秒でも遅れていたら、撃たれてハチの巣になっていた。ふう、よかった」

「ちっともよくないわよ。薄着でこんなところにいたら、低体温症ですぐに死んじゃうでしょう」

「いまのところ天気がいいけど、風が吹いてきたらヤバいかも」

 周囲は凸凹とした氷塊に降雪が被さっている状態だ。恐ろしい兵士に撃たれる心配がないので、慎二はとりあえずホッとしている。

「早くジャンプしてよね。私、冷え性なんだから。髪に埃がついているし、お風呂に入りたい」

「うん、わかった」

 慎二が集中し始めると同時に、雪子が彼の手を握った。そうしなければ一緒にジャンプできないのだが、女子高生の生温かさにドギマギしてしまう。

「なにしてるの、早くジャンプしなさいよ」

「ええーっと、俺のサイキックは無意識の衝動なので、そのう、なんていうか、集中しても意味がないというか」

「そうだったわ。ふつうに考えてもスイッチが入らないのね」

「ビンゴ」と申し訳なさそうに言う。

「だったら」

 雪子の顔が一瞬、小悪魔的になった。

「えいっ」

「ぐはっ」

 女子高生の蹴りが男子高生の股間にヒットした。慎二は綿飴のような真っ白い息を吐き出して、へっぴり腰の恥ずかしい姿勢で悶絶する。

「あれ。ジャンプしない。どうしてよ」

「なにすんのっ。ここは男の炉心なんだって。中心で愛を叫ぶ大事な場所なんだよ。むやみやたらと蹴っちゃダメなんだ」

 慎二が涙目になりながら抗議するが、雪子は気にもしていない。

「ねえ、さっきはジャンプしたよね。どうしてできないの」

「そんなこと言われても、わからないよ」

「蹴りの力が弱かったのかしら」

「いいや、十分だった。おかわりはいらないから」

 ふたたび蹴られることを警戒して、少し後退する。

「銃撃されたらジャンプできるんじゃないの」

「銃もないし、テロリストもいないよ。てか、そっちのほうがふつうに死んじゃうだろう」

「慎二のサイキックって、どういう構造になっているのかしら。うう~、さぶい」

 気温は氷点下である。制服だけでは物足りないどころか致命的だ。助けを呼ぼうと雪子がケイタイの画面を操作するが、当然のように圏外であった。

「おそらく、俺の無意識のトリガーは思いもかけない偶発で作動するのではないかと」

「そういうことかもね。ケイタイも通じないし、困ったわ」

 男子が女子の一点を、好色そうな表情をしながら見つめていた。

「ちょっとう、なにいやらしい目で見てんのよ」

「そのう、さっき触れちゃったよね、菖蒲ヶ原さんに」

「はあ?胸を触った痴漢行為のことをいってるの」

「痴漢行為ではなくて、あれは偶発的な事故なんだ」

「偶発的じゃない事故ってあるの」

「いや、そういうことじゃなくて。うう~、さむい」

 あまりの寒さに、自分の体に腕を回して足踏みを始めた。

「だからですね、またあの時と同じような行為をしたならば、無事にジャンプできるのではないかと思うのです」

 なぜか敬語調になっている慎二へ、疑惑の眼差しが氷点下五十度となって突き刺さる。「さぶっ」

「まさか、また痴漢行為をするってことじゃないでしょうね」

「まことに遺憾ながら、そうしなければここで凍死してしまうのではないかと」

 いろいろと穴がある推論だが、なにかを試さなければ状況が変わらない。雪子はしばしの熟考に入った。

「いいわ、凍え死ぬよりもマシでしょうからね」

 男子は真顔で頷いた。ただし、心の内側はニヤついていたのかもしれない。

「でも、胸はだめよ」

「え、じゃあ、どこ」

「足で」と素っ気ない。

「足か」

「そう。ふくらはぎだったら許してあげる」

 その程度の刺激でジャンプできると思えなかったが、いくら緊急事態だとはいえ、さすがに犯罪行為をするわけにはいかない。

「まあ、それでいこうか」

 慎二は妥協する。そして、さっそく行為にとりかかった。

「それでは失礼します」

「早くしてよ。寒いんだから」

 雪子のふくらはぎには藍色のソックスが被せられている。それをいくらかずり下ろした。かじかむ手に二度三度熱い息を吐きかけて、腫れ物へ触るように男の手があてがわれた。

「ひゃっ」

「ご、ごめん」

「べ、別に気にしなくていいんだから」

「じゃ、じゃあ」

 遠慮気味ではあるが、慎二の手が生白い足をわさわさとまさぐる。右足をやり終え、念のために左のふくらはぎも触った。雪子は痒いような、こそばいような、もじもじと体をよじって困惑していた。

「ねえ、ジャンプ、まだなの」

「それが、ぜんぜんいけそうにない気がする。たぶん、トリガーとなるほどのインパクトに欠けるのではないかと」

 エロティシズム的に物足りないと、暗に言いたげである。

「もうちょっと上、いいわよ」

「え」

「だから、ふとももまでなら許してあげる」

 明後日の方向を見ながら言う。冷えて乾ききった空気に、男の子の熱い鼻息が白く主張していた。

「ええーっと、では」

 正面にしゃがんで太ももに両手を当てた。撫でるのではなく、その素材を確かめるよう慎重につかんだ。そして数回ほど揉みほぐす。ぎこちない手つきは研修中のマッサージ師を思わせた。

「ねえ、まだなの」

「あのう、なんかムリみたい。ごめん」

 さすがに両太ももをやるわけにもいかず、片方だけでやめた。

「慎二、この状況がわかっているの。無理です、すみません、では済まないのよ。女子高生の命がかかっているんだから」

「男子校生の命もだけれど」

 余計なことを言うなとばかりに、きびしい視線が上から落ちてきた。二人はいったん距離をとる。

「う~ん、どうしたものか。さぶっ」

 太ももの柔らかい感触を頭の中で反芻すながら、慎二は至極まじめな顔で悩んでいた。

「ほら」といって、雪子が尻を突き出した。

「え」

「お尻、触わりなさいよ」

「ええーーーーーーーー」マジっすかと、荒馬のような息を吐き出した。

「とにかく、慎二の無意識えっちスイッチが入らないと死んじゃうんだから、どうしようもないでしょう。勘違いしないでよね、私、痴漢じゃないから」

「そういうのは、痴女というんだけど」

 バカ正直に間違いを訂正する慎二であった。

「そんなこと、どうでもいいの。するの、しないの、どうなのよ。男ならハッキリしなさいっ」外気は氷点下だが、雪子の頬には薄っすらと紅がさしていた。

 慎二はうーんと唸って、アゴに手をあてて考えていた。ありていに言ってしまえば、彼は迷っている{ふり}をしていただけである。

「わかった。いいでしょう。菖蒲ヶ原さんの心意気、不肖新条慎二、しっかりバッチリ受け取たせてもらうよ」

 しらじらしいほどの真顔で胸を張る男子を、疑いの目が見ていた。

「いやらしく触らないでよ。紳士的にして」

 いやらしく触らないと無意識の衝動が起きないと思いつつ深追いは厳禁だと、慎二は自制心にハッパをかけた。

 雪子は、へっぴり腰になって尻を突き出している。顔はうつむき加減だ。

「では、まいります」

 ペタ、っと慎二の手の平が柔らかな桃に触れた。とくになにも起こらず数秒が経過する。いけないとは思いつつ、しかしながら二人の生死がかかっていることを鑑みればやむを得ない行為なのだと言い訳しながら、少しばかり撫でた。

「おや」

 この得も言われぬ極楽浄土な感触は未体験ゾーンへのお誘いであるのではないか、と男子高校生は考えた。さわさわと、JR埼京線に出没する痴漢のごとくまさぐった。雪子の目がギラリと光る。

「調子に乗るなっ、ヘンタイ」

「ぐえっ」

 回し膝蹴りが顎にさく裂した。ぶっ飛ばされた慎二は転がって雪だらけになる。

「あ、アゴが外れたー」

 骨が折れたり顎関節が外れたりしたわけではないが、それほどの衝撃があった、と痴漢野郎は信じていた。

「もう、なんなのよ。せっかく触らせてあげて、さらに衝撃まで与えたのにジャンプしないということは、これはだめかもしれないじゃないの」

 冷たいため息が漏れた。

「風が出てきた。すごく寒い」

 穏やかだった氷と雪の世界に風が吹き始めた。冷えた空気が動き出すと、何倍も寒くなる。

「慎二、こっち来て」

 ブツブツと文句を言う男子を引っ張って、二人は大きな氷塊の風下に身を隠した。

「うう、寒い」

 顔の痛みは極地の寒風にかき消されたようだ。体を限界まで縮こませて無駄な熱の発散をしないようにする。彼と彼女の距離は数十センチ離れていた。

「もうちょっとくっ付きなさいよ。隙間があると寒いんだから」

 雪子に言われるまま、慎二は体を寄せた。

「少しは温かいけど、こんなの時間の問題だわ」

「ごめん、そのう、なかなかスイッチが入らなくて。頑張ってみたんだけど、どうにもムリみたいで」

「その言い方、私に魅力がないように聞こえるんだけど」

「もちろん、俺が悪いんだ。ほんとにすまん。役立たずな男で」

 肝心な時に役に立たない男の、テンプレートなセリフであった。

「そんなに気にしなくていいのよ。それより、もっとくっ付くからムダに動かないでね」

 雪子が積極的に慎二の背後へと回り、首から手を回して抱き着いた。彼女の胸が彼の背中と密着する。お互いが持つ熱の交換はすぐに始まった。とくに男子のほうの血流は活発であり、女子が受け取るカロリーのほうが多かった。

「う~ん、これはあったかいわ。極楽極楽~」

 気持ちよさそうにしなだれる雪子の頬が耳のあたりを撫でた。慎二は、女の子の声をこれほど間近で聞いたことがない。しっとりと生温かな響きが鼓膜を吸うように密着する。

 そのままの体勢で一時間ほどが経過した。太陽は傾いているが、地平線の上をギリギリで粘っていた。

「ねえ、日がなかなか沈まないね」

「そういえばそうだ。あ、とするとここは北極か」

「気づいたようね。私たちがジャンプしたのは、どうやらかなり北のほうみたい」

「ひとまず、南極でなくてラッキーだった」

「そう、あっちは夜ね」

「やけに寒々しいから、北極の中心点近くかもしれないな」

「あっちこっちに見える池みたいのは海ね」

「さすがの北極でも、この時期には融けるのか」

「温暖化じゃないの。でも暖かいわけじゃないわ」

 二人はしばし黙って、極地の自然を味わっていた。 

「菖蒲ヶ原さん」

「なに」

「風が強くて寒さが限界なんだけど。マジでヤバくなってきた」

「奇遇ね。私もよ」

 耳元でそう囁く女の子は、なにかを思いついたようだ。いったん慎二から離れると制服を脱ぎ始めた。

「ほら、あなたも脱いで」

「ちょ、ちょ、しょ、正気なのか。こんなところで服を脱いだらすぐに死んじゃうよ。ってか、突然すぎて心の準備が間に合わないって。俺、そのう、こういうのは経験がないし」

「なに勘違いしてんのよ、バカ。凍死しないための処置をするの」

「悪いけど、ヘンタイ的な発想以外に意図するところが見えないんだけど」

「こらっ。私はヘンタイではニャイのだ」

「語尾がニャンコ語になってるよ」

「えい」

 すでに上着を脱いでブラジャーだけになった雪子が、恥ずかしさを誤魔化すために猫招きのポーズをする。着やせするタイプなのか、じっさいはなかなかの豊満ぶりであった。

「すごくかわいくてセクシーにもほどがある。俺はどうしたらいいんだ」

「服を介してくっつき合っても、どうしても熱のロスが出てくるじゃないのさ。生地のぶんだけ熱伝導率が悪くなるの。生き死にがかかってんのよ。恥ずかしいとか言ってられない。だから慎二も脱げ。えいっ」

「あ、ちょっと、無理矢理はイヤだって。わかったよ、自分で脱ぐから」

 雪子はブラジャーとパンツだけの超薄着となっている。その姿をチラチラ見ながら、慎二も脱ぎ始めた。

「パンツ一枚まで脱ぐのよ」

 シャツを残そうとしていたが、その目論見は見抜かれていた。慎二は服を脱ぎ続けてトランクス一枚になった。氷塊の陰であるが少しばかりの風が流れてくる。その極寒に、おもわず身震いした。

「このまま正面から抱き合うの。間違ってもイヤらしいことしないでよね、殺すから」

「イヤらしいことはしないけど、服はどうするんだよ」

「私と慎二がくっ付いて一つになると表面積が小さくなるでしょう。ムダに熱が逃げないし、お互いの体温で温めることができる。さらに服を被せれば保温効果もバッチリなのよ」

 それともう一つ、エロティシズムを誘発させるような状態になったことで、不発サイキックの導火線に火をつける効果も期待できる。じつはその可能性に賭けていたが、恥じらいが大きすぎるので、雪子はあえて告知しない。

「立ったままとか」

「そうよ」

 慎二は指示された通りにした。お互いの顔が触れ合わないように、ギリギリの距離でかわす。その代わり、上半身だけでなく足もくっ付けた。

「もうちょっと密着しなさいよ。隙間があると温かいのが拡散するでしょう。熱力学の第二法則よ」

「ええーっと、こうかな」

 言われるままに、慎二が体を押し付ける。男子の胸と女子の胸がぴったりと密着した。通常であれば、なにがしかの衝動的なアクションが惹起してしまいそうなのだが、長時間の寒さで本能がすっかりと麻痺していた。

「そうそう、いい感じね。大昔のアフリカ大陸と南アメリカ大陸みたい」

「たとえが難しいよ」

「エントロピーは増大するってことよ」

「それは熱力学の第二なんちゃらじゃなかったっけ」

 一塊になった二人は、そばに置いていた衣服を隙間なく被った。

「これでどのくらい持つのかしら」

「どれくらいで凍死するかのほうが早い気がする」

「絶望するようなことを言わないで」

 お互いの耳元で囁いているので、音量はしぼり気味であった。

「俺は、菖蒲ヶ原さんに申し訳ない気持ちでいっぱいだ。このままでは死んでも死に切れない」

「ちょっとう、そう簡単に死なないでよね。私が寒くなるでしょう」

「てか、そっちの心配かよ」

 ふふふと、吐息がもれた。

「なんかね、なんとかなるような気がするの。そのうち真っ白な天使が現れて、汝らを救いたもうって言うんじゃないかしら」

 雪子にそう言われると、深刻に考えすぎているように思えた。慎二の気の張りようが緩くなり、少しばかり笑顔になった。

「ねえ、いま唸った」

「いや、とくに唸ってはいないけども」

「聞こえない? 音がするんだけど」

「そういえば聞こえるな。あんがいと近いんじゃないか」

 あきらかに風ではない生物的な響きが近づいていた。

「救助隊かも」

 その可能性は限りなく低いのだが、なにせ若者は現実への見積もりが甘く、基本的に能天気である。

「後ろからだ」

「見てみましょうか」

 二人はくっ付いたまま、氷塊の陰から出て音のする方向を見た。

「ねえ、あれって何?」

 数十メートル前方から白くてモフモフした毛皮が接近していた。少し暗くなっているが、物の輪郭が認識できるほどに視界は効いていた。

「あれはクマだな」と慎二が即答した。

「クマがいるのは北海道でしょう」

「北極にはシロクマがいるよ。動物園で見たことあるだろう」

「ああ、そういえば。って、どうしてこっちに来るのよ」

「どうしてって、ホッキョクグマは凶暴な肉食獣だから」と言ったところで、慎二の全身がざわついた。

「ヤッバ、エサだと思ってるんだ。俺たちを」

 雪子の顔から血の気が失せていた。次の瞬間、ほぼ裸の高校生たちが走り出していた。

「あひゃあ」

「きゃあ」

 雪と氷の海原を全速力で逃げる。白熊は、少し黄色がかかった身体をゆっさゆっさと揺らせて追いかけてきた。

「うわあ、追いかけてくるう」

「な、なんとかしなさいよっ」

「む、ムリっす」

 遠くから見ると小さかったが、すぐ後ろに迫った猛獣は巨大だった。むせかえるような獣の臭いが背中を押していた。それは、あと数歩で獲物に圧し掛かるだろう。残虐な爪が若くて柔らかな肉を引き裂こうとしている。

「あっ」

 極地のケモノがとびかかろうとしたまさにその時、慎二はつんのめってしまった。前を走っていた雪子の背中に抱き着き、勢いそのままに押し倒した。

「うわっ」

「キャッ」

 ドタドタと派手な音を出して転がり、壁に激突した。衝撃で部屋の中にあったものがバタバタと散乱する。

「うう、膝をぶつけた」と慎二が呻く。

「私はおでこよ。こぶができたんじゃないの。っもう、なんなのよ」と雪子が喚く。

 痛みと衝撃をたっぷりと満喫したあと、二人はお互いの顔を見合った。

「ねえ、ここどこ。北極じゃないよね。さっきと比べて、いやに閉鎖空間なんだけど」

「あれえ、ここは俺の部屋だ。俺の家の部屋。うん、間違いない」

 慎二が机やベッドをベタベタと触って、慣れ親しんだ部屋にいることを確信した。

「危機一髪で自室にジャンプしたってことね。やればできるじゃないの。てか、早くやれ」

「あはは、ホントだ。ジャンプできた。てっきりシロクマに食べられるのかと思った」

 命の危機から脱することができて、慎二は上機嫌だ。雪子の表情も穏やかになっていて、しばし二人で笑っていた。そこへバタバタと空気を揺らす音がやってきた。

「きゃっ、今度はなに。ハゲタカ?」

 白い鳥が二人の頭上を飛んでいた。狭い部屋の中を起用に十数秒間ホバリングし、偵察を終えると慎二の頭の上へ着地した。危険を感じた雪子が後退する。

「菖蒲ヶ原さん、大丈夫だよ。こいつは我が家で飼っているオームなんだ。種類はキバタンで、性格はすごく大人しくてさ、誰であろうと人を噛んだりはしないから触っても平気だよ。おしゃべりが大好きで、いらんことを口走るけど」

「オームなの。けっこう大きいわね」雪子が恐る恐る顔を近づけて検分する。

 キバタンは真っ白な羽毛と頭にある黄色い冠羽が特徴のオームである。頭のそれは、ふだんは折りたたんでいるが、興奮したりするとニワトリのトサカのように展開する。

「名前はピーちゃん」

「オームなのに、ピーちゃんっていうのは安直ね。セキセイインコが聞いたら嫉妬するじゃないの」

 ハハハと慎二が愛想笑いすると、頭の上のピーちゃんが、{ぐへへへ}と追い鳴きした。

「なんか、この鳥、オッサンみたいなんだけど」

 雪子が怪訝な顔で見ていた。

{オー、エロいなー。オー、エロいなー。ねえちゃん、ねえちゃん。ぐへへへ}と、黄色いトサカをおっ立てたピーちゃんが連呼した。雪子の表情がさらに曇り、飼い主は頭の上のペットが言わんとしていることに気がついた。

「ああーっ。そういえば菖蒲ヶ原さん、服がない。つか、裸っぽい」

「え、なに」

 北極からジャンプしたのは下着姿の男女だけで、二人がまとっていた衣服はかの地へ置き去りにされていた。慎二はトランクス一枚であり、雪子はブラとショーツだけである。非常事態が解けた心へ、当然のように羞恥心が湧き上がる。

「きゃっ、見るなヘンタイ。あっちいけ」

「うわっ、ちょ、物を投げなって。あ、いたっ」

 部屋の中にあった雑多な物が飛んできて、ときおり顔に当たってしまう。いっぽう頭の上のピーちゃんは、女子高生を凝視しながら野生のフットワークでかわしていた。

 慎二は、床に放置されていた部屋用のジャージを素早く着込んだ。いそぎ雪子の分を探すが、女性用の衣服がなくてアタフタしている。

 そんな役立たずの男子に頼ることもなく、雪子はベッドの上からタオルケットをはぎ取ると、マントのように羽織った。その際に、「う、なんか男臭い」と不服そうに呟いた。

「慎二、スエットとかないの」

「あるよ。いま出すから」

 収納ボックスの底から上下のスエットを取り出して、急ぎ雪子に手渡した。

「中学の時のやつだから、サイズはそんなに大きくないから着れると思う」

「着替えるからあっち向いてて」

「ええっと、はい」

 雪子の指示がとび、慎二が半回転して正座する。

「そのオッサン鳥もよ」

 慎二の頭の上にいるピーちゃんは雪子と正対したままだ。相変わらず、興味深そうに凝視して{ぐへへへ}と鳴いている。飼い主がチラリと上を見て、「それでは」と言って自分が半回転した。鳥は後ろを向くことになったが、代わりに慎二が正面を向いた。当然であるが雪子と目が合ってしまう。

「ねえ、バカなの」

 氷点下の視線を浴びて、ハッと気づいた。自分の行動の愚かしさを悟った慎二が、急ぎ半回転して背を向ける。そして鳥がふたたび真正面を向き、{ぐへへへ}と中年オヤジみたいに鳴いた。

「一人と一匹。出て行きなさい」

 結局、鳥と男子は部屋の外へ強制退去となった。二分後、入室を許された慎二が一人でやってきた。

「鳥はどうしたのよ」

「ケージに入れてきた。なにかとうるさいから」

「そう」

「・・・」

「・・・」

 二人の会話が止まってしまった。なんとなく気まずい雰囲気となる。雪子の機嫌が悪くなったのではなく、たんに疲労しているのだ。そのことは慎二もわかっているが、気の利いたセリフが出てこない。

「私、帰るわ」

「そうだね、今日はいろいろあったから」

「この服を借りていくけど、いいかしら」

「あげるよ。返さなくていいんで、捨てるなり、ぞうきんにするなり、好きにしてもらっていいから」

「そんなもったいないことしない。大事に着させてもらう。ありがとう」

 新条家は築ウン十年の一軒家である。玄関を出て、見栄えのしない錆びついた門を出たところで、二人はいったん止まった。 

「もう暗いから送っていくよ」と慎二が申し出る。

「一人で帰るわ」

 雪子が歩き出した。彼女の気持ちを察した慎二は、門のそばに立って見送るだけにした。


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