第3話

 放課後、慎二は校務員室にいた。

「それで、菖蒲ヶ原さんを気にしているんですか。慎二先輩」

 梅昆布茶の粉末にお湯を注いでいるのは羽間朧(はざまおぼろ)である。

 彼は中学を卒業して雪風東高校の校務員(用務員)として勤務していた。慎二とは同じ中学校であり、一学年下になる。ベルマーク収集係となった時に知り合った、唯一話せる後輩だった。

「まあ、お茶でも飲んでくださいよ」

 自分にはレギュラーコーヒーをドリップし、先輩には安くて酸っぱいお茶を供した。

「わざわざあの場所に来て、へんなことを言って俺の場所をとって、さらに俺を突き飛ばしたのは、脱輪したタイヤが襲ってくることを知っていたからだと思うんだ」

 ずずずと啜った出汁の効いたすっぱいお茶に、口の中の唾液が止まらない。「うーん、酸っぱ」

「ただの偶然でしょう」

「いいや、違う。絶対に知っていたんだよ」

「だったら、菖蒲ヶ原さんは命の恩人ということになりますね」

 ねずみ色の、いかにも作業着というのが羽間朧のユニフォームだ。簡素で素っ気ない服装だが、彼はわりと気に入っている。地味になりすぎないように、バッチ類などをあてがい、少しばかりの若さを加味していた。

「菖蒲ヶ原さんはサイキックだ」

 その言葉を言い放った慎二の顔が強張っていた。

「そう言うと思った」

 対照的に、朧の表情は柔らかだった。少し微笑んでもいる。ぬるくなったコーヒーを飲み干してテーブルの上にカップを置いた。

「もしそうならば、プレコグということになりますか」

「そうだ。間違いない。彼女には予知能力がある」

「雪風東高校には、いろいろとスーパーナチュラルがいますねえ」

 この若き学校職員は、じつは相当な美顔である。赤川のようなイケメンというには整い過ぎていて、その中性的な顔立ちは美人と表現したほうがいい。女子生徒からはカワイイと評されている。体格は男子としては華奢であり、線が細い印象だ。物腰が柔らかく、男の子らしい粗野で不遜なアクティブさはない。女よりも男から関心をもたれる傾向があり、本人の態度はどちらも否定せず、かといって肯定もしていなかった。 

「確かめてみたい」

「やめときましょうよ」

「なんでだよ」

「もし違っていたら、どうするんですか。能力者でもない女子に、あなたは予知能力者かって訊いちゃいますか。ただでさえヘンな噂の慎二先輩なのに、頭の中はアベンジャーもびっくりな中二病だって思われてしまいますよ。夢見る中学二年生キモすぎ~、ってことです」

 見た目も態度も穏当であるが、口数は存外に多く、慎二に対してはつねに辛辣で容赦がない。

「いいや、これはぜったいに確認しないといけないんだ」

 慎二の決意は変わらない。朧の鼻から軽く息が漏れた。

「あのですね、相手は、あの菖蒲ヶ原雪子なんですよ。男どもの妄想のアニマ、女子高生のくせして美しすぎるドラマー、父親は有名作家、母親も女優で生粋のセレブリティーなんです。気位の高さは青天井、アイガーの北壁のように攻略困難です。ヘンなこと言ったら、とんでもないことになりますよ」

 菖蒲ヶ原家はセレブである。両親ともに高収入であり、著名人であった。一人娘の雪子もインターネットの動画サイトでは、そこそこに知られた存在だ。ドラム演奏を投降しているのだが、その美貌と高校生離れしたテクニックで視聴数を稼いでいる。ドラムの美少女といえば、たいていの者が雪子を思い浮かべる。

「フフフ」と慎二が笑う。朧が怪訝そうに見つめた。

「僕の言ってることの、なにがおかしいのですか。慎二先輩の尻の穴にロケット花火を突っこんで、連発させますよ」

 可愛らしい顔から、物騒な言葉が発射された。

「いや、朧が女の子を褒めるのは珍しいなって。菖蒲ヶ原さんが気になっていたりして」

「あのですね、これは客観的な事実なんです。だから結論を言うと、慎二先輩なんてまともに相手をしてもらえませんよ。まったくない。これっぽっちもない。ハエですよ、ハエ」

「おいおい、言いすぎだなあ。俺は菖蒲ヶ原さんをくどくわけじゃないぞ。あくまでも確かめてみるだけだ。ふつうに話すだけだよ」

「その、ふつうに話すのが至難のワザだって言ってるんですよ、ポチ」

「誰がポチだ、犬じゃないぞ。まあ近寄りがたいけど、まったく男と話さないわけじゃないだろう。この前だって、向こうから話しかけてきたんだし」

「ふう」と、よく整った美顔が小首を傾げる。その可愛さに慎二はドキリした。

「二年生の男子で、ナンパ野郎がいるんですけど、そいつが菖蒲ヶ原さんを口説くって公言してました」 

「へえ、それで」

 慎二は興味なさそうな表情だが、体は積極的に向いていた。朧は学校職員であり生徒ではないが、校内のことについては、いろいろと事情通だ。生徒たちがよく遊びに来るので、その際に情報を仕入れていた。

「二十二秒」

「ん」

「なんとか頑張ってみたものの、その岡島ってケツ野郎が菖蒲ヶ原さんと会話を持続できた時間が二十二秒だったってことです」

「その岡島ってやつ、いけ好かないのか」

 ケツ野郎という暗喩に、ネガティブな印象を受けた。

「そいつ、とにかくなれなれしくイラつくんです。僕は社会人なんですよ。大人なんですって。それなのに上から目線で話かけてくるんです。すごくムカつきます。今度、外履きの中に飢えたサソリを仕込んでおきます」

 朧だったらやりかねないと、慎二は頷く。

「だったら朧が菖蒲ヶ原さんに話してくれないか」

 校務員の瞳が見開いた。

「まさか、僕が菖蒲ヶ原さんにサイキックですか、って確かめてくるんですか」

「朧なら大丈夫だろう。社会人なんだし」

「はあ? なにいっちゃってんですか助六野郎」

 いかにも心外である、という渋い表情で慎二を睨んだ。

「菖蒲ヶ原さんのオーラは強烈なんです。この前なんか、教育実習の女子大学生が話しかけても、ワンルックすることもなく華麗にスルーされました。まるでコバエなど目に入らぬというような、見事な完全無視です。相手は、いちおう大人なんですよ。あれをやられると相当にヘコんじゃいますって」

「朧は男子のみならず女子生徒にも人気があるんだから、そのあたりのテクニックでなんとかなるだろう。社会人として恋バナでもしてれば打ちとけるって」

「その言い方、なんか、すごいビミョーな気分です」

 ジェンダーのことについて、朧はなかなかに複雑である。 

「菖蒲ヶ原さんが神々し過ぎて、男も女も近づきがたいけど、朧なら大丈夫だ」

「その心は」

「だって、おまえもすっごいイケメンじゃないか。菖蒲ヶ原さんとつりあってるよ。経験豊富な社会人として、上から目線で話せばなんとかなるって」

 微妙に褒められている朧は、やや呆れ顔となった。

「あの根暗でボッチな慎二先輩は、いつからそんなに口が達者になったんですか。将来は出世しますよ」

「それは褒めてもらっているのかな」

「僕を褒めてもらったから、心無いウソをついただけです」

「ウソかよ」

「僕は社会人だけども、菖蒲ヶ原さんのほうが年上なんですよ。だから上から目線で話すなんて、ぜったいに無理なんです」

 ヘラヘラと笑みを浮かべている男のカップに、校務員がコーヒーを無造作に注いだ。

「おいおい、梅昆布茶がまだ残っているんだが」

「コーヒーと梅のコラボを味わってください、フリッツ」

「フリッツって誰だよ。欧米か」

 西洋と東洋がほどよく合わさった飲み物で口の中を湿らせた慎二は、やはり自分で訊かなければならないのだと決心する。

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