第12話

「うおおおおー」

「きゃあーーー」

「おひょーーー」

 礫と草地が交ざったなだらかな斜面を一塊になって、三人は転がった。傾斜の長さは数メートルほどだったが、本人たちにはとても長く感じられた。

「うわあ」

 転がりの終点は柔らかく張りのあるものだった。初めに父親が立ち上がり、なにごとが起ったのかと辺りを見渡す。陽は落ちそうになっていたが、かろうじて見える程度に薄暗かった。雪子と慎二は抱き合うようにくっ付いていた。

「キサマー、いつまで娘にしがみ付いてるんだ。離れなさい」

 ハッとして、高校生同士が見合った。弾かれるように離れると、それぞれが逆の方向を見てもじもじしている。怒っている誠人の息が、若干白く靄っていた。

「もう、なんなの。満腹になって、まったりしてたのに」   

 背後から女性の声がした。高校生たちがあわてて立ち上がる。二人が尻に敷いていたのはテントの一部であり、その箇所が衝突によりつぶれてしまっている。入口のファスナーを開けて、誰かが出てこようとしていた。

「まさかクマが」

 テントの中の女性はそうつぶやいてためらっていたが、「いや、たしかに人の声だった」と力のある声を出した。

「おい、なんだここは。どうなってんだ」

 あらためて周囲の光景を眺めていた誠人は、あ然としていた。 

「ねえ慎二、ここってどこなの。私の家じゃないよね」

「うん。おそらくどこかの山だと思う。それもけっこう高い」

 両手を体に巻きつけて寒そうにしているのは、雪子も同じだ。

「どうして山なの。しかもこの景色、山脈じゃないの」

「まさに絶景だね。登山家の気持ちがわかるような気がするよ」

「そういうことじゃない。なんでこんな辺鄙な絶景スポットにジャンプしたの、ってことよ。もうちょっと街中にしないさいよ。せめてコンビニがあるところ」

 周囲の景色を見て呆けている誠人と違い、高校生たちは瞬間移動したことを理解していた。だから焦ったり、うろたえたりしなかった。いたって冷静に山の空気を味わっている。

「それは俺にもわからないよ。なにせ誰かさんの性格と同じで、ジャンプはいつも気まぐれだから」

「なによそれ」

 当てつけられた雪子は不機嫌を隠さない。

「えい」とばかりに向う脛を蹴った。

「あ、いたっ」

 岩石にでもぶつけてしまったように、慎二は顔をしかめてその場に崩れ落ちた。

「え、うそ、そんなに痛かった」

 あまりにも痛がるので、心配になった雪子が彼に手をかける。

「なんちゃって。てへ」

 とぼけた顔が、へらへらと笑っていた。

「もう、なんのよ。えいっ」

「うわ」

「冗談よ」

「なんだよ、もう」

 叩くふりをしただけだった。怒っているというより、やり取りを楽しんでいる様子だった。

「あなたたちは、なに?」

 テントから女性が出てきた。暗くなっていたのでヘッドランプを灯している。上下黄色のウエアは薄闇でもよく映えた。

「人のテントをぐちゃぐちゃにしておいて、無邪気にイチャつかれるとムカつくよ」

 テントを踏みつけて立っている高校生に対し、腕を組んで仁王立ちした女が見下ろしていた。

「あ、えー。母さん」

「え」

 慎二が驚き、その表情が女へと伝染した。二人は半ば口を開けたまま、お互いを見合っている。

 なんと、その山でテント泊をしていたのは慎二の母親である西谷弘江だった。中年女のソロキャンプである。

「はあ?」

 雪子が慎二を、そして中年女を見た。三人が数秒ほど黙り、山脈はより暗さを増してきた。

「どうしてここがわかったの。あなたには連絡してないはずだけど。誰かに訊いたの」

「いや、そのう、なんていうか」

 慎二がサイキックであることを知っているのは、雪子と朧だけだ。大人に事情を打ち明けることは考えていないし、たとえ話したとしても理解してくれるとも思っていなかった。

「慎二、なにを企んでいるの」

 母親の目線は厳しかった。なにごとも見逃さない気迫があった。その鋭さに射抜かれてしまい、不肖の息子はたじたじとなる。

「あのう、ちょっといいですか」

 見かねた雪子が口を出した。

「あなたは、だれ。慎二の友達なの」

「私は菖蒲ヶ原といいます。慎二とはクラス違いの同級生です」

 大人の容赦のない睨みにひるむことなく、女子高生はそう言った。

「呼び捨てにするってことは、ひょっとして慎二の彼女?」

「そ、それは」

 高校生たちにとっては思いがけない問いだが、母親としては当然の疑問である。即座に否定しようとした雪子だが、すぐに言い淀んでしまった。父親との親子喧嘩のネタとして付き合っていることになっていたからだ。

「そ、そうなんだよ。彼女が出来たから、母さんに紹介したくて、ここに来たんだよ」

 ジャンプしたことを誤魔化すために、慎二がウソをつく。

「ええーっと、あなたに彼女ができたのは、それはまあおめでとうだけど、はるばる立山まで披露しに来るほどのことなの。ていうか、それほどの彼女なの」

 彼氏の母親の言葉はつねに辛辣であるが、雪子は顔色一つ変えることなく腰に手を当てて堂々と胸を張った。

「彼女の菖蒲ヶ原雪子ですけど、なにか」

 しばしの静寂の後、ため息をついたのは弘江である。

「ごめんなさい、ちょっと混乱しているんだけど、慎二はわたしに彼女を紹介するためにここに来たのよね。いまは冬山ではないけれど、その恰好で登山するって自殺行為なんだけど。山の怖さを知らないようね」

「もちろん、知ってるわ。これでも動画で何度も経験しているから」

「いや、菖蒲ヶ原さん。それは違うって」

「なにが違うのよ。ようはイメージの問題じゃないの。心に山があれば、そこに山があるから登るのよ。山があるからカンツオーネじゃないの」

「言っていることが滅茶苦茶になってるよ。いったん落ち着こう」

 勝気な女子高生は興奮気味だが、登山のベテランは足元の異変に気づいてしまう。

「ちょっとう、なにやだ。いま気づいたけど、あなたたち靴を履いてないじゃないの。裸足で山登りしてきたわけなの」

 菖蒲ヶ原家で食事をしていたので、三人は靴を履いていない。スリッパを提供されていたが、ジャンプしたさいに外れてしまったようだ。

「ちゃんと靴下は履いているわ」

「菖蒲ヶ原さん、そこじゃない」

「なによ、さっきからうるさい」

「いたたたた」

 菖蒲ヶ原が慎二の太ももをつねっていた。

「息子の彼女としては、もっとも見たくないパターンだわ」

 弘江は、あきれ顔で二人のやり取りを見ていた。

「おい、エビフライはどこにやったんだ。エビフライだよ、エビフライ。名古屋ではえびふりゃあ、だ。すぐにもってこい」

 そこに誠人がやってきた。いかにも中年男が好きそうなガウンを着て、ありふれた食べ物の名称を連呼している。突然の瞬間移動で現状を理解できず、内心は呆然自失なのだが、態度だけは偉そうにしていた。

「このガウンのオッサンはなんなの」

 立山連峰なのに裸足でガウン姿の男を、弘江は用心しながら見ていた。

「オッサンじゃない。私のお父さんだから。ハゲてるけど、お父さんだから」

「ええーっと、そうすると慎二の彼女の親御さんということになるのかな」

 あくまでも警戒しながら、偉そうな態度のまま立っている男と対面する。

「初めまして。わたしは新条慎二の母親で西谷弘江と申します。夫とは離婚していますので、旧姓です。どうぞ、よろしくお願いします」

 弘江は深々とは頭を下げない。軽く会釈した程度である。

「これはこれは、こちらのほうこそ雪子がお世話になっております。菖蒲ヶ原誠人です。しがない物書きなんぞやっております。立ち話もなんですから、ささ、こちらへどうぞ」

「はあ」

 誠人がなぜか低姿勢となって、弘江を潰れかけたテントへと案内する。

「ほら、おまえたちもボーっとしてないで、入れ」 

 雨が降ってきた。まだポツリポツリとだが、すぐに大粒となるだろう。山の天気は変わりやすい。

 テントの潰れた個所を元どおりにして、四人が入った。一人用なので、ぎゅうぎゅう詰めである。お互いの顔との距離がほとんどない。きわめて窮屈であるが、外に出る者はいなかった。雨が本降りになってきたからだ。

「ええーっと、なにかしらね、この状況。なんだか摩訶不思議に感じるのは、わたしだけかしら」

「まあまあ、奥さん。とりあえず食事をとりながら語り合いましょう。おお~い水戸さん、とんかつ定食大盛りで」

 笑顔で叫ぶガウンの男に対して、他の三人は触ろうとはしなかった。

「なんか、おじさんの精神状態がヤバそうなんだけど。お酒を相当飲んでたし」

「そうね。いきなりジャンプしちゃったから混乱しているんだわ。おまけに酔っぱらっているから現状認識が絶望的なのよ」

「おじさんだけでも家に戻そうと思う」

「そんなことできるの」

 慎二が顔をしかめて気を込める。

「ええーっと、ムリだわ」

「もう、なんなのよ」

 きわめて密着した中で、慎二と雪子は耳打ちしながら話をしていた。声が漏れないように手で囲いをつくって、頬と頬を寄せ合っていた。雨粒がテントを叩くので、二人の会話は大人たちには聞こえないが、その親密ぶりを見せられている弘江はイヤそうな表情だ。

「あなたは元気にしているの」

 弘江が息子の近況を訊いた。

「まあ元気だけど。ピーちゃんは相変わらず口走っているよ」

「そう」

 素っ気ない返事だが、あえて情動を抑えているように見えた。

「母さん、最近来てないけど」

「いろいろと忙しいのよ」

 息子から視線を外しながら言う。

「前は頻繁に来てくれたかじゃないか」

「だから時間がとれないの。仕方ないじゃない」

「山に遊びに来るヒマはあるみたいだけど」と言ったのは雪子だ。母子の間にある微妙なわだかまりを感じとっていた。他人の事情についつい首を突っ込みたくなるのは、勝気な女のサガでもある。

「子供を放っておいて好き放題に遊んでいて、時間がないとか言い訳だわ」

「菖蒲ヶ原さん、ちょっと言いすぎだって」

「なによ、ホントのことじゃないの」

「いちおう、俺の母親なので」

「フン」雪子はツンとしていた。

 狭いテントの中が沈黙してしまう。静かだが空気は重かった。誰かが放屁でもすれば爆発しそうな緊張感だ。

「おおーい、水戸さん。味噌汁はまだかあ」

 誠人の素っ頓狂な声に、他の者たちの尻が浮いた。

「お父さん、うるさいっ」正気へ戻りきれない父親を娘が叱咤する。

「うん、まあ、そうだな」

 酒臭い息を吐きながら、誠人が外へ出てしまった。酔ってはいたが空気を読むことはできていた。

「雨降ってんのに外に出るのはマズいんじゃないか」

「少しぐらい濡れたほうがいいの。酔いがさめるでしょ。空手三段だから大丈夫よ」

「でも、ここって立山連峰らしいんだけど。きっと寒いと思う」

「物書きは高い場所が好きなのよ。風邪ひかないし」

 二人はヒソヒソと話しているが、弘江との隔たりは一ミリもなく密着している。

「わたしは縛られたくないの。人生を自由に生きたい。慎二は高校生になったし、もう大丈夫でしょ」

「母さん、俺はまあ平気だけど、たまに家に来てもいいんじゃないか。父さんもときどき母さんのことを言うから、気にかけているんだよ」

「そうよ。山登りと子供のどっちが大事なのよ。母親としての自覚がないわ」

「菖蒲ヶ原さん、おさえて、おさえて。我が家のことなんだから」

「なによ、もう」

 慎二が抑えるように言うが、興奮する女子高生の気持ちは、そう簡単には治まらない。

「わずらわされることなく自由に生きたいってのはわかるけど、残された家族はどうなるの。夫は、いってしまえばタダの他人だからいいけど、慎二は大事でしょう。一人息子なんだし、自分の分身でしょう。愛してるんでしょう」

 最後の言葉に、年ごろの高校生男子はドキリとする。母親からの愛という気恥ずかしさと、雪子から言われたことによるドギマキ感で、目玉だけが忙しく動いていた。

「ああーっ、もう、違うの、ぜんぜん違うの。自由に生きたいとかいうのは、そういうのもあるけど、そんなに思っていない」

 突然、弘江が膝立ちした。そして絶叫するような勢いでまくし立て始める。

「慎二は大事。もちろん愛しているし、大好きだし、毎日だって会いたい。いまこうして慎二の顔を見ているだけで、とてもうれしいわ。酒臭いオッサンと小ざかしい小娘がよけいだけど」

「それはどう致しまして、ありがとうございます」と、雪子はにこやか顔で一礼する。この女、ただ者ではないと思う慎二とその母であった。

「あの人が許せないだけ。もう、ぜったいに許せないんだから」

 あの人というのは、夫である新条洋輔のことである。弘江はアゴを引いて、表情を険しくしている。

「ずっと父さんと口をきいてなかったけど、なにかあったんだな。ひょっとして暴力を振るわれたのか。いや、そんなことはないと思うけど」

 慎二の父親は大人しく控えめな性格で、誰に対しても礼儀正しく、ふるまいも慎ましい。体格はやせ型で筋肉もない。いわゆるDVとは縁遠い男だ。

「慎二は黙ってて」

 ブツブツとひとり言のように父親像を語る慎二を、雪子が一喝した。苦悩をにじませる弘江の顔をじっと見つめて、同情するように頷いていた。

「おばさん、きっとひどい目に遭ったのね。男って自分勝手でわがままで、自分の趣味でもなんでも押し付けてくる。そのくせピンチになると泣き言ばかりで頼りにならない」

「そうよ、その通りよ。あなた、高校生にしてはわかっているわ。慎二の彼女にしておくのはもったいない。すぐに別れなさい」

「母さん、その言い方はちょっと傷つくというか、なんというか。って、そもそも菖蒲ヶ原さんは彼女じゃないし」

「そ、そうよ。べつに付き合っているとかじゃないから」

 それぞれの思いが交じり合うことなく、場面は混沌とし始めた。

「なにいー。その男は彼氏じゃないのか。貴様はー、何者だー。女子高生を貪るケダモノかー」

 誠人の首から先だけがテントの中に入っていた。ただでさえ寂しくなっている毛量が雨に濡れて、生乾きのワカメみたいに貼り付いている。

「わたしのテントにハゲが入ってくるな」

「あ、こらっ。貴重な髪の毛を引っぱるな」

 テントの所有者に残り少ない毛髪を毟られて、誠人の頭が引っ込んだ。

「はっ」として、雪子が慎二を見た。いつになく強張った真顔である。緊迫しているのが丸わかりだった。

「菖蒲ヶ原さん、ひょっとして」

「私は予知した」

「ごくり」と慎二の喉が鳴った。

「ヤバい。ここめっちゃヤバい」

 慌てて立とうとした雪子の頭がテントの天井につっかえた。

「ヤバいって、どういうこと。まさかクマが出たとか」

 以前、白熊に襲われたことを思い出していた。

「違う」

 白色のLEDランプに照らされた美人顔は、もっと深刻な状況を訴えていた。

「ひょ、ひょっとしてテロリストか」と言って、中東にジャンプしてしまった時を思い出していた。

「ロックよ。ざ・ロック」

 雪子の、その確信に満ちた表情には凛々しさがあった。

「ロックンロールといえば裕也だぜ。しゃけなベイベー」

「オッサンは引っ込んでなさい」

 再びテントの中に侵入してこようとする若干の禿げ頭を、弘江がさもイヤそうに押し出した。

「ええーっと、意味がわからない。ロックって、コンサートかなにかか」

「なにバカなこと言ってるの。このテントへ大岩が転がり落ちてくるのよ。直撃よ、直撃。もう、ぐっちゃくちゃのミンチになっちゃうんだから」

 三秒ほど時を経て、尻に焼きゴテを当てられたように男子高校生が跳び上がった。

「うっわ、そ、それはヤバい。逃げなきゃ」

 二人は狭いテントの上部に頭を押し当てながら外へ出ようとする。

「ちょ、ちょっと、なんなの。外は雨が降ってるのよ」

 テントの出入り口には母親がいる。子供にとっては邪魔となることが多々ある存在だ。

「母さん、いますぐ外に出るんだ。ロックだ、ロックがヤバいんだ」

「え、なんのこと。わたし、タンゴならできるけど」

「団子のことなんかどうでもいい。おばさん、とにかくロックがくるの」

「ゴマ団子は甘すぎて歯に沁みるのよ」

「ヘソのゴマを溜めすぎると、めっちゃ臭くてクセになりそう」

「頭を掻いて爪のニオイを嗅ぐ男を見るとイライラするのだけど」

「トーストを焼いたのにバターが切れているとイライラするわ。お父さんがバター好きで、だからハゲになるのよ」

 新条母と雪子のやり取りが嚙み合ってないが、不思議とコミュニケーション自体は成立しているように見えた。そこへ雨に打たれた多少ハゲがやって来る。

「バター犬がどうしたって」

「ハゲは入ってくるな」弘江がふたたび追い出そうとする。

「外は寒いんだよ。寒くてずぶ濡れだ。もう、外はイヤだ。オレは中に入るぞ。暖かいテントで団子にバターをかけて食うんだ」

「だからゴマ団子は甘すぎるって言ってるでしょ。しょっぱいものが食べたいわ」

「そうよ。お父さんは塩辛くて、口うるさくて、そしてハゲ」

「娘よ、お父さんはピリリと辛口だが、ハゲではないぞ。ちょっと薄いだけだ」

 誠人は首から先だけをテントの中に入れているが、その寂しげな頭部を弘江がバシパシと叩いていた。

「なんか音がするんだけど。早く出ないと絶対にヤバい気がする」

 遠くのほうからゴロゴロと地響きが鳴り続き、しだいに大きくなってきた。

「お父さん、そこどけて。ってか、急いで逃げて。大岩が転がり落ちてくるって」

「なにっ」

 いったん頭を引っ込めて周囲の景色を見た誠人は、暗い山の斜面から大きな岩がゴロンッ、ゴロンッ、と跳ねながら転がり落ちてくるのを発見した。

「うわあああー」と叫んで、慌ててテントの中へと潜り込んだ。

「ちょっとう、お父さん。入ってこないでよ」

「あっ、ハゲがわたしのオッパイを触った」

 勢いあまってつんのめってしまい、意図せず弘江に痴漢をしてしまう誠人であった。

「ひさしぶりに柔らかい。いや、ち、違うんだ。これは事故だ。アクシデンタルなんだ」

「お父さん、娘の目の前で痴漢するってサイテイじゃないの。すぐに腹を斬りなさい。三回斬ってワンと鳴きなさい。隣の柿と客食って斬りなさい」

「菖蒲ヶ原さん、隣の柿じゃなくて客だって。ってか、ゴロゴロがくるう」

「そ、そうよ、そうだった。とにかく逃げなきゃ」

 高校生二人が同時に動く。密着し一塊になってテントから出ようとするが、大人たちが邪魔だった。

「きゃっ、なにするのよ。訴えてやる」

 痴漢されて怒った弘江が誠人を責め立て、わいせつ行為の現行犯人がうろたえていた。「女房より柔らかいが、ちょっとサイズがいまいち」と余計なことを言って、怒りの火に油を注いでいた。

 ドドドドドーン、とたいそうな地響きが鳴っている。いよいよ大岩が迫ってきた。猶予としては数秒たらずだろう。

「うわーっ、きたきたー」

「なんか、土臭い。カエルのにおいがする」

 巨大地震の初期微動のように、その災厄は特定の臭いを先行させていた。小学生の時にカエルを飼っていたことがある雪子が、なつかしそうに言う。

「こらっ、おっさん。いい加減にわたしから離れなさい。そんなにくっ付いたらハゲがうつるでしょう」

「いや、オレはくっ付きたくてくっ付いてるんじゃないぞ。奥に行って体を乾かしたいんだけど、雪子と駄犬が邪魔なんだ」

「ちょっとう、うちの息子を駄犬呼ばわりとはヒドイわ。ハゲのくせに」

「お父さん、早く出なさいよ。ハゲのくせに」

「オレはハゲてニャイ」

「いやいや、もう間に合わないよ」

 ドドドドドと、ものすごい音が響いてきた。

「キター」

「あひゃあ」

「ハルマゲドンだ」

「ちょっと、ハゲマゲドンってなんなの」

 抜き差しならぬ事態を察知した四人が一斉に走り出した。しかし、テントの外へは出ずに中での駆け足だ。四つの肉体がもつれて一塊になり、勢いがついたままに内側から生地を押し込んだ。

 テントは数か所に打ち込まれたペグによって固定されていたが、あっけなく抜けてしまう。支えを失った肉と生地の塊が平地を不器用に三回転したのち、斜面を転がり落ちた。

「うおう、、回る回る」

「きゃっ、な、なんなの。転がってるじゃない。イタタタタ、目が回る」

「うぎゃっ、いま、背中に尖った岩が当たった」

「こ、これ、あまり行くとマズいのよ」

 テントの近くには窪みがあり、このまま転がると、そこへ落下してしまう。四、五メートルほどの落差だが、怪我を負うには十分な高さである。

「ちょ、止まらない」

 もはや肉団子となり果ててしまった四人は、生地となるテントに包まれて転がるシュウマイだ。徐々にきつくなる斜面を、スピードを増して奈落へと向かっている。

「ひゃっ」

「おっ」

「な」

「こればーっ」

 大きなシュウマイが窪地のヘリからジャンプした。勢いのまま空を多少は直進するが、すぐに急角度の放物線を描いて落下する。

「はっ」

「ヤバ、いー、落ちるー」

 重力の喪失を悟った高校生の男女は焦った。雪子は密着していた男子の尻を、その肉が千切れんばかりにつねった。

「おっわ、痛っーー」

 慎二が叫ぶと同時に周囲の空気がシュッと収縮した。次の瞬間、空間が小さく弾けて四人は同時に着地した。

「いたたたた、尻の骨が砕けたんじゃないか」

 ガウン姿の中年男が尻に手をあてて四つん這いになっている。そのすぐ目の前に椅子があるのを発見し、そのひじ掛けにすがって立ち上がった。周囲を見渡すと、キョトンとした表情だ。それは他の三人も同様である。

「あれえ、ここって、俺んちだ」

「え、ほんとに」

「あら、なつかしい」

 慎二と雪子がそろって立ち上がった。弘江もキョロキョロと見回している。

 新条母子と菖蒲ヶ原父子は、立山連峰から新条家の居間へと瞬間移動した。窪地へ落下したさいに慎二のサイキックが発動したのだ。いつものように、当人にその意思と自覚はないが、とにもかくにも皆を連れて無事に帰宅することができた。

「慎二、ジャンプするときは前もって言いなさいよ。お尻を打ったじゃないの」

 ただし、すべての乗客を満足させたということではない。 

「どうしてここに来ちゃったのか謎だけど、きっと山歩きに疲れて夢でも見ているのね」

 理解不能な状況に、弘江は深く考えることをやめたようだ。

「それにしてもリアルすぎる。これであの人が出てきたら、それこそナイトメアだわ。やだやだ」

 母親がつぶやくあの人が誰なのかを、息子は知っていた。

「あ、父さん」

 新条家の主である新条洋輔がやってきた。一人で食事中だったが、途中でトイレに行って戻ってきたのだ。

「おう、慎二。今日は友達の家で食事じゃなかったのか。もう帰ってきたのか」

 菖蒲ヶ原家で夕食をとることは連絡済みであった。いちおう、友達ということにしている。 

「いや、そのう、まあ、なんていうか」

「なんか大勢来てるけど、誰なんだ」

 どこか、うしろめたそうに目線を避ける息子の後ろにいる者たち、とくに中年女性に注目し、彼女が誰であるかすぐに気づいた。

「ああーっ。ひ、弘江。なんでおまえがここにいるんだ」

「なんでって、そんなのわたしにもわかんない。まあ、夢の中だからいろいろとヘンなことが起こるわね」

「夢って、なんだ」

「夢だから夢よ。わたしは立山で一人キャンプして、テントの中で夢を見ているの。明日は早いんだから邪魔しないで」

 洋輔の頭の中に、?が三つほど表示された。

「あれえ、水戸さんはどこだ。おおーい、味噌汁まだか」

 酔っ払いと夢うつつの中間をさ迷っている誠人が、濡れたガウン姿のまま新条家の台所へと行く。

「なんかキッチンが狭くなってないか」と文句を述べつつ、とりあえず冷蔵庫を開けて賞味期限が切れたタクアンをボリボリと齧り、さらに缶ビールを開けて飲みだした。 

「おい、アレは誰なんだ。人の家に無断で上がり込んでタクアン食べてるぞ」

「慎二の彼女のセクハラお父さんよ。親子そろってハゲてるの」

 母親は、常に息子の女関係には辛口だ。

「ちょっと待ってよ。私はハゲてないでしょう」

 雪子が髪の毛の生え際を見せて抗議した。

「もう、なんだかわからないけど、これは夢なんだから気にしないことね。久しぶりにこの家に来たから、お風呂でも入るわ。山にいると体が乾いて痒くなるのよ」

 そう言って、弘江は服を脱ぎ始めた。

「わ、わ、母さん。風呂に入るのはいいけど、ここで脱いじゃダメだって」

「どうしてよ」

「だって、ほら、菖蒲ヶ原さんのお父さんがいるし」

 新条家のキッチンは、低めの間仕切りで居間と繋がっている。右手に缶ビールを持った濡れガウン中年が興味深そうに見ていた。

「どうせ、あなたもあのハゲの人も夢なんでしょ」と言って意に返さない。するすると服を脱いで、下着姿になってしまった。

「ああーっ、白パンティーじゃないか。純白パンティー、しかも、白ブラも」

 元女房の半裸を見て洋輔が驚いていた。

「おまえ、紫はどうしたんだ。得意の紫パンツとブラじゃないぞ。紫は神の色だって言ってたじゃないか」

「あれは、もうやめたのよ。なんかババ臭いし、いまは白といっても、いい感じでいろいろとあるから」

「なんだよ、もう。白パンティー履くんだったら、別れなくともよかったじゃないか」

「まあ、そうよねえ」

 気まずいようで気恥ずかしそうな二人は、もじもじとして微妙な態度だ。慎二はあることに思い当って質問をぶつけた。

「ちょっと待ってくれよ。父さんと母さんが別れた理由って、ひょっとしてパンツのことだったのか。パンツの色がどうだこうだで、ずっとケンカしてたのか」

 驚きながら責めたてる息子に対し、元夫婦はバツが悪そうだった。

「まあ、そのう、なんだ。女はやっぱり白パンティーだろう。黒とか茶色とか、まして紫など論外だ。ババアかっ、って怒りがわいてくる」

 その結論が正論であるというように、洋輔が厳めしい表情をつくってウンウンと頷いていた。

「でも弘江は紫ばっかりで、白を身につけようとしないんだ。そんなの許されると思うか。ある意味刑法犯だよ」

「むしろ犯罪者はあなたのほうじゃないかしら。ふふ」

 元妻は元夫を白い目で見るが、口元はゆるんでいた。

「女はほら、少し年をとるとババ臭い黒とか紫とかの下着をつけたくなるのよ。白っていう選択肢が億劫になるのよねえ。なんだか気恥ずかしいでしょう」

「それわかる。私もじつは紫や赤ブラをつけたいんだけど、さすがにブラウスから透けちゃうから学校には無理なのよ」と、下着の色に一言ある女子高生が口を出した。

「菖蒲ヶ原さんは、ちょっと黙ってて」

 これは新条家にとって重要な場面である。外野からの意見は少しも考慮されることなく却下となった。

「なによ」

 沈黙を要求された菖蒲ヶ原は不服そうだ。

「雪子、赤ブラジャーなんぞもっているのか。父さんとしては、それは遺憾の意だぞ。女子高生というのはなあ、やっぱり純白でなんぼ。まっ白な生地に青春の汗がうっすらと滲んで、これぞアオハルなエロス」

「へぼ作家は黙ってて」 

 娘に叱咤されて誠人が静かになる。

「ハゲ作家は黙ってて」

「二回も言うな。くどいわ」

 不貞腐れたガウン男が、テーブル上のおかずをガツガツと食いながらビールを飲んだ。

「でも私の旦那さんはなぜか白にこだわって、とにかくうるさいのよ。その必死の顔をみてると、なんだかシラケちゃってね」

「相変わらず紫ブラばかりしてるし、話にならんかったさ。そんな女とは一緒にいられないだろう」

 そういう理由で、夫婦は元夫婦になってしまったと告白した。

「そういうことなら、父さんと母さんはまた夫婦になればいいんじゃないのか。だって、母さんは白に戻って父さんの好みになったんだし」

 息子の諫言を受けて、洋輔と弘江がお互いの顔を見た。

「白下着ということであれば、おれはいいけど。というか、むしろ歓迎したい」

「まあ、ハッキリ言って下着にこだわりはもうないわ。あなたが白でというなら白でいいし」

「白は基本だけど、まあ、たまには色付きでもいいよ。弘江の気分も大事だしな」

「そうね、たまにババ臭くなるかも」

「ハハハ、そういうのもいいな」

 お互いが歩み寄って、元夫婦の間にあったわだかまりが消えてゆく。離婚しているという実績は、もはや必要なくなった。

「よし、決まりだな。母さん、明日にでも引っ越して来いよ」

 息子の言葉に、母親は笑顔で頷いた。

{エロいぞエロいぞ}

 どこに隠れていたのか、オームのピーちゃんが飛んできて弘江の頭に着地した。

「そうだ、みんなでスクラムを組みましょう。山でパーティーを組む時によくやるのよ」

 弘江の提案に元夫と息子が賛成した。新条家が一つの輪となり、それぞれの思いが掛け声となって、最後に両手をあげて称え合った。ピーちゃんが飛び上がり、バタバタしながら{エロいぞ}を連呼していた。

「はあ~? パンツの色で離婚って、なんなのよ。頭悪いのにもほどがあるわ。バカなの、この家族」

「フン、くだらん茶番に付き合わされたな。すっかり酔いがさめたうえに水虫が痒くなったわ」

 菖蒲ヶ原家の二人は取り残されていた。誠人はおかずと飯を食い散らかして、三本目の缶ビールを飲んでいる。少々不機嫌な雪子が慎二を無理矢理引っぱってきた。

「なんなんだよ、菖蒲ヶ原さん。いま最高に盛り上がってんだけど」

「同級生のマザコンを見せつけられている私はヒマなの。家に帰るからジャンプしなさいよ」

「そうだった。つい、うれしくて忘れちゃってた」

「私を忘れるとはいい度胸ね。本来なら水を抜いた池の底に生き埋めにするところだけど、ひさしぶりに家族がまた一つになったようだから、まあ、今回は大目にみてあげるわ」

 家庭の安寧がなによりも大事ということを、雪子はよく理解していた。 

「すぐにジャンプするんで、腕を掴んでおいてくれ」と言って、左腕を差し出した。

「ちょっと待って」と言って、雪子は誠人を引っぱってきた。酔っていたので抵抗するかと娘は思っていたが、父親はあんがいと大人しく従った。

「お父さんも一緒だから」

「そうだね」

 三人は身動きせず、超常的な能力が発揮されるのを待っていた。

 一分が経過した。

「ちょっとう、早くしてよ。水戸さんがご飯を片付けちゃうじゃないの。まだ半分も食べてないのに」

「ええーっと、そういえば俺のサイキックは自分の意志ではどうにもならないんだった」

「もーっ」

 そのことは雪子も知っているはずだが、ほっぺたをふくらまして睨みつける。

「タクシーを呼んで」

 ハイと返事をした慎二は、家の電話機へと急いだ。

「雪子、ここから家まで遠いのか」

「そうでもないけど。歩けば三十分くらいかな」

「だったら歩こう」

 誠人が、ガウンの帯を締めてやる気を見せた。

「ええーっ。お父さんと一緒はちょっと」

「昔はよく一緒に散歩したじゃないか」

「あれは、Tレックスがいたから」

 Tレックスとは菖蒲ヶ原家で飼っていた犬であり、雪子が中学二年生になった頃に死んでしまった。豪気な名前とは裏腹に小さなメスのチワワだった。性格も臆病で、二人が一緒じゃないと前に進もうとしなかった。

「そっかあ、やっぱりイヤか」

 誠人は残念そうに表情を曇らせ、そしてしょんぼりとしなだれた。

「べ、べつにイヤじゃないから。寒いかと思っただけよ。まあでも暖かそうだから、歩いてもいいかな。空手三段が一緒なら、なにかと心強いし」

 娘は本気で拒否しているわけではない。彼女の中に少しばかりの照れくささを見出して、父親はホッとした気持ちになった。

「そうか、うんうん、そうだな。久しぶりに歩くか」

 菖蒲ヶ原父娘は、歩いて家へ帰ることとなった。

「タクシー呼ばなくていいのか。もう真っ暗になっているし」

「うん。お父さんと歩いていくわ。なんか、そのほうがいいような気がする」

 新条洋輔が自家用車で送っていくと申し出たが、雪子はやんわりと断った。ガウン姿はさすがに目立つので、洋輔の私服が貸し出された。雪子の靴は、下駄箱に残っていた弘江のスニーカーである。

「なんか、いろいろと面倒なことになっちゃたわね」

「俺にとっては、すごく良いことだったよ」

 見送りに玄関を出た慎二は、いつになく朗らかな面持ちだ。

「私にとってもね。まあ、これからの三十分だけど」

「きっと、なつかしい時間になると思うよ」

「そうね」と言った雪子は表情を見せなかった。

 菖蒲ヶ原誠人が歩き出した。雪子は右手を軽く上げて慎二に別れの挨拶とし、すぐ後ろに続いて歩く。十歩ほど進んで横に並ぶと、父親の顔を見上げて話し始めた。

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