第7話 The End

彼女といると、まるで初めて日が差したような暖かいものが胸に広がる。

煙のような、女。

火元から濃く、上に向かって曲線を描いて登っていく。登った先には空気に溶け込んで消え、見えなくなる。

そんな、儚い煙。

しかし、消えてもその存在は残っている。

部屋には確かにあり続けている。

いつの間にか焼けたもので天井や壁が黄色に染まり、部屋に匂いがつく。

その場にいる自分には、何ら臭わないそれは、他人が入るとよくわかるものだ。

そう、この女のように。

激しく抱けば、折れてしまいそうな手足。

帰って来る頃にはもういないのではないかと思ってしまうくらい、儚い命。けれど家に帰ればいつものように彼女はベッドで眠っている。

掴めない女。

時折 記憶媒体としてではない彼女自身から発せられる言葉に、心が侵されているのだ。

俺自身は気づかない。

だが、周りから見れば、

俺は変わったのだろう。

──あんた、他人のこと大事にするようになったよな

この前の仕事で言われたこと。

あぁ、この女のせいだ。

──あなたの帰りを、ここで待っていたい

どこにも行くなとか、ここにいさせてほしいという意味ではない。

ただ俺に"おかえり"と、言いたいという意味で。

女の寝顔を見つめた。

こんな細い体で、かなりの体格差がある俺に毎晩抱かれている。

眠り続けるのは当たり前だ。

医者から、女が体重が45kgになるまでは抱くなと言われた。

来た時、彼女は36kgだった。今もまだ30kg代だ。

それなのに、俺は毎晩女を抱く。

あの日何でも1つ要望を聞くと言った時、俺は彼女が殺してくださいというと思っていた。

しかし、それを彼女は、わかっていたんだ。

それでも要望はできるはずなのに、俺にその言葉を言わなかった。

俺だけでなく、彼女もまた変わったのかもしれない。


〜・〜


男に拾われてから、約1ヶ月の時が過ぎた。

最初の数日は私が眠っている間に出てゆき、帰ってきていた男は、私が起きている間によく帰ってくるようになった。

それでも私が寝ていようがいまいが関係なく、彼は私を抱いた。


パチリ、と目を開く。

今日は割と早く目が覚めた。

隣を見ると、男の精悍な顔が間近くある。

たくましいその腕は、私の体をしっかりと抱きしめていた。もちろん、一糸纏わぬ姿で。

寝る前に何か着ておけよ!!!

視界の暴力ぞ。男は吊り目で精悍な顔だちをしている。しかしそれをわかっているのかいないのか、彼は私に対してとても無防備だ。

「………ん」

だるそうな声とともに、男が眠そうな瞳をうっすらと開いた。

「おはよ、、、う?」

「……ん。はよ」

おはよう、なんていう人だとは思わなかったので、その返事に驚いた。それと同時に嬉しくなる。

今日も、朝がきたのだから。

それから男はテキパキと動き出し、仕事の準備をしていく。

私もシャワーを浴び、服を着て彼を見つめた。

ちなみにこの1ヶ月間、彼が仕事に行っている間に家事など──主に掃除や料理をしてみたりして、歩く練習をしていた。だいぶ歩けるようになった。

「……なぁ」

「はい?」

「………」

「………?」

この、嫌な沈黙は何だろう?

男は、ジトっと私を見つめる。

何かやらかしただろうか。

いや、それはない…はず。たぶん。

あらゆる可能性を考えるが、思い当たるものはない。

腕を組んで左手を口元に当てて考えていると、その手を男が掴んだ。

「……?」

その手を見つめていると、突然グッと引っ張られた。

「えっ」

今までも、突然抱きしめられることはあった。

それでも。こんなにきつく抱きしめられることは、無かった気がする。

きつくきつく。苦しいほど、痛いほど。

それなのに、何も言えなかった。

私よりも男が、苦しそうに、痛そうに、つらそうに。いつも無表情だった彼が、顔を歪めていたから。

そっと男の背に腕を回し、力を込め抱きしめ返す。

「少し、このまま…」

いつもこちらを小馬鹿にして飄々としている彼にしては弱々しい声だった。頼りない声だった。

不安げで、胸が締め付けられるような声だった。

寒いのか、その体もすっかり冷えている。

「うん」

何かあったのだろうか。

それだとしても、無理に聞いてはいけない気がする。

だから、そっと抱きしめていよう。

あなたに、私の体温が移るくらい。1人じゃないと伝わるくらい。

そう思って、私は自分の腕に力を込めた。

しかし、私は後悔することになる。

この時どうして無理やりにでも”どうしたの?と、そう言えなかったのか。

そして何故この時引き止めなかったのかを。

「行ってくる」

そう言って男は私の頭を撫で、優しい眼差しで私を見た。

「行ってらっしゃい?」

疑問形になってしまう。珍しい彼の態度に動揺しているのかもしれない。

思わず頭を抱えていると、男はふっと笑って私にキスを落とした。

「…行ってきます」

彼が私に背を向ける。

部屋よりも暗い、夜の玄関の先へ。

──ガチャン

ドアが閉まる。

なんでだろう。今日は、いつもよりその音がやけに大きく聞こえた気がした。

いつもは、男が仕事に行く時間に私は眠っていることが多い。彼の仕事は夜がメインだからだ。

今日はたまたま目を覚ました早朝に彼の仕事が入っていたようで、行ってらっしゃいまで言えた。

だからだろうか。

男がこの部屋から出て行く姿をあまり見かけないせいかもしれない。この胸騒ぎのようなものは。

さて、今日が始まる。

今日も綺麗な部屋で、美味しいご飯を作って待とう。


けっきょく、

何をやっても今日はうまくいかなかった。

掃除ではなんとリビングに巨大蜘蛛を発見。思わず飛び上がった。

お風呂掃除では、シャワーを頭からかぶり、さらに滑って転んだ。頭にたんこぶができた。

夕飯作りでは鍋を焦がし、作ったものは生のままで火が通っていなかった。言うまでもなく食べてお腹を壊した。

あれもこれも、朝から集中できていない証拠だ。

…まったく、私は何を焦っているのやら。

切り替えるのだ、私!大丈夫、私ならできる!私の頭には、あらゆる情報が詰まっているのだ!

集中力を取り戻す方法も、落ち着く方法も、この知識があれば、難なく…なわけもないわけで。

「はぁ…」

けっきょく夕飯は作り直し、掃除もなんとか終わらせ、ソファで休む。

そこで、いつの間にか眠ってしまったらしい。


──!!!!!

「………っ、……はっ…はぁ……っ…」

なに?これは、なに?

夢を見た。内容は覚えていない。けれど、ひたすらに息が苦しかったことを覚えている。

…大丈夫、落ち着いて。大丈夫、大丈夫…。

ふと時計を見ると、22時だった。寝たのは21時。まだ1時間しか経っていない。

そして、彼は早朝に出て行ったきり帰ってきていない。

覚えてはいないが、怖い夢を見たようで汗ぐっしょりだった。

動悸が止まらない。

大丈夫よ、大丈夫。ただの夢なのだから。

ガチャリ。

ドアが開く音にハッとし、玄関に向かって走る。

「おかえ、…え、」

ゆっくりと目を見開く。

その場で動けなくなって、視界がぼやけていく。

「……んだよ、…その、顔」

ハッと笑って、玄関にもたれている彼は、びっしりと汗をかいて。その黒い服は、さらに濃い黒い染みで染まって。

──ボタッ、ボタッ…

紅が散る。

鮮やかな紅。

目がカッと熱くなり、何かが頬を伝う。

それを、男はそっと手を伸ばし、拭ってくれた。

男は、ゆっくり部屋に入り、ソファに倒れこむように腰かけた。

それに小走りについていく。

近寄ると、男は私の袖をクイッと弱々しく引っ張る。

ゆっくり、男の傷に触れないように隣に座り抱きしめた。

朝、様子がおかしかった。

気づいていたのに、私は声をかけなかった。

たった一言言えば、良いだけだったのに。

男は、私の背中にそっと腕を回し、ぎゅっと力を込めた。私の首に顔を埋め、確かめるようにスゥっと匂いを嗅ぐ。

そのまま強く吸い、華を残した。

男の息が、荒い。

荒いわりに、ゆっくりで浅い呼吸で。

…それで、男に残された時間がもう長くないことを悟る。

「た…だい、ま」

「……っ」

こんなに胸が締め付けられることがあるとは、知らなかった。

自分に、こんな感情があるなんて。知らなかった。ただの記憶媒体。機械。道具、の、はずだったのに。

「おかえり…っ、…な、さい……っ…」

もう、間に合わない。

男はフリーランスキラー。

救急車など呼べるはずとない。

助けなど、呼べる人がいない。あるのかもしれないが、彼の仲間と言えるような人の連絡先を私は知らなかった。

それにもし救急車を呼べたとしても、この出血量と傷では間に合わない。

腹の傷は深く、おそらく内臓に到達している。

そして肩の傷も相当に深く、太い血管まで裂けている。

間に合わない

……間に、合わないのだ

私たちは、抱きしめあう。

この尊くて儚い、何よりもかけがえのない時間を、互いに刻み合うように。

この体温を、忘れないように。

「ーー」

ハッと男を見ると、ニヤリと笑った。

「お前の名前」

してやったりって顔だ。

ムカつく。非常にムカつく。

こんな時に私の名前なんて、どうでもいいじゃないか。それにこの人は一体どこで知ったのか。

それでも、嬉しかった。

それでも、まるでサプライズのようなそれにイラ立ち、ぷくーっと怒ったふりをする。

それを見た男が、クスッと笑った。

「……ー、ーー」

「?」

「……俺の、…名前」

「……………っ…!?」

口をパクパクと動かす。

でも、驚きで言葉が出てこない。

「フッ。ハハハッ!……おまっ、…すげー、アホづら」

「…………」

この時間が、終わらなければいい。

また、いつもの明日が来ればいい。

このまま…。このまま、時間なんて止まってしまえ。

「………ご、めん」

「……………」

ごめん、の後の言葉を、私は知っている。

でも、わかりたくない。

理解したくない。

──ごめん、俺が拾ったのにな

「あと5分したら、……お前は、ここから出て、走れ」

「嫌だよ」

「イヤじゃ、ねぇよ。……出てけ」

「嫌だ」

「ハハッ。……ワガママ、言うなよ」

「一緒にいるよ。……ずっといる。ここにいる」

「それは、無理、…だな。……あと、これ」

そう言って、男は胸ポケットから何かを取り出し、私に渡した。

それは、ブラックカードだった。

「これに、…一生遊んで遊んで遊びまくっても、余るくらいは、……たぶん?入ってっから」

「……いらない」

「…いい、から」

無理やり私の手にカードを握らせると、男はほっとした顔つきになった。

「あと、1つ、命令だ」

「………なに?」

「この部屋を、出たら、…お前の持つ、記憶媒体としての記憶を、すべて抹消しろ」

「……パスワードを、提示してください」

「……──」

ポロポロと目から何かが溢れ出す。

私も知らない私が死ぬ年齢を、彼は知っているらしい。確かに、自分の記憶のロックが解除された感覚があった。

涙が止まらない。自分では止められないそれに戸惑う。

「ロック、解、除……っ…」

「……泣くな」

男の指が、私の目元を拭う。

困ったような、嬉しそうな、そんな笑みを浮かべて。

「命令、受理。…了解、です……っ…」

見たことないような優しい瞳で。

「なぁ、……ーー」

私の名前を呼んで私の頰を両手で包むと、優しい温かな眼差しで私を見つめ、

男は、微笑んだ。

「愛してる」

カクンと、その一言を言い終えると、男は、そのまま…。

まだ温かい体。

まだ温かい手。

満ち足りた笑顔で閉じられている瞳は、今にもパチリと開きそうで。

綺麗な唇も、いつおはようと言っても不思議ではないくらい綺麗で鮮やかな赤で。

ーーーーーーポタリ

ぎゅうっと抱きしめる。

ーーーーーーポタリ、ポタリ

彼が寒くならないように、私の体温でずっと温かくしていられるように。

ーーーーーーーポロッ、パタッ、ポタリ

そっと彼をソファに横たえる。

その唇に、そっと口付け、

玄関へ、向かった。

彼からもらったカードがしっかりポケットに入っていることを確する。

「行って、くるね」

部屋に向かって、ぽつりと呟く。

私が見送られることなど、一度もなかったのに。

部屋にいる彼を置いて、私はここを出て行く。

「………あり、がとう…っ……」

この想いは、何という名前なんだろうか。

この、温かで苦しいこの想いは。

……あぁ、そうか。

これこそが……

「……愛してるよ、ーー」

ガチャリと重いドアが開く。私は一歩、踏み出した。

そしてドアが閉まると同時に、記憶と心に鍵をかける。

走って、走って、走る。

ひたすらに走って。どこかわからない土地についても、まだ走った。

ネオンが見える。

人がたくさんいる。

人の匂いがする。

見たことのないものが、たくさん広がっている。

それでも走った。

死にたい。

ただひたすらに、死にたい。

それでも、私が生きることを男が望んだから。

私が"私"であることを、彼が望んだから。

だから、生きなくてはならない。

たとえ泥を啜らなければならないとしても。

この先暗闇しかなかったとしても。

私は、生きなくてはならないのだ。

日が昇り、どこかわからない橋の下。

そこで丸くなって休んだ。

明るいうちは隠れないと…。

組織の連中に見つかったら、きっと連れ戻される。あのショッピングモールであったチンピラ──ルナの構成員たちのような追手が、きっとたくさんいるだろうから。

1人の朝。

肌寒い空気。

この身1つで、迎える朝。

孤独だ。空虚だ。

まるで、昨日の朝が幻だったように錯覚するほどの激しい虚無感に。

私はしばらく、それ以上進むことができなかった。

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