第2話 New Morning

月明かりに照らされた女は、まるで死んでいるようだった。

痩せ細った体に、青白い肌。

その肌は月明かりに照らされて綺麗に輝き、風になびく長い髪は、光を纏っているような美しさだった。

今にも消えそうな儚い女。

顔も、痩せすぎて目元は陥没し、頰はこけ、手足も骨が浮き出ている。

近づくと、女の瞼が震え、ゆっくりと開いた。

長い睫毛から覗くその瞳は、

まるで全てを飲み込んでしまいそうな、真っ黒な闇そのものだった。


〜・〜


ゆっくりと目を開けると、知らない天井だった。少し右を向くと、窓から青い空が見える。

起き上がろうとして、やめた。

気力がわかない。何もしたくない。

私はまだ生きてるのだ。

昨晩の記憶を手繰り寄せる。

男に横抱きにされ、そのまま歩いて森の入り口に向かっていると感じたところで意識が途切れている。

それからの記憶はない。

…ここは、どこなのだろうか。

「休んどけ」

左方向から声が聞こえた。

それでも私は、右の窓から見える小さな空を眺めていた。

──ギシッ

「おい」

いつの間に回り込んだのか。

"男"が私が見ている右側のベッドに座った。

こちらを見る瞳は黒。

憂い気な瞳は、吸い込まれそうになりそうな感じがする。

「起き上がれるな。なんでもいいから食え」

やはり断定的な口調でこちらに語りかけて、座ったままこちらに体を寄せてくる。

でも私は、視線を合わさないまま空を見ていた。

この窓から見える小さな窓は、窓を開けて身を乗り出して見れば、どこまでも広がる大きな空なのだ。

人もそう。

夢に向かって自由に羽ばたける、どこまでもいける可能性がある。

それなのに、この窓枠のように、ヒトに囲われ、小さな世界でしか生きることのできない。決められた生を進むしかなかった自分。

やっと解放されると思ったのに、今度は男に全て拾われた。

命も、未来も。

捨てたのに、拾われた。


男はため息をつくと、私の背に左腕を、右手をベッドの反対側について私を起き上がらせた。ベッドの端にクッションを置き、そのまま私の背をもたれかけさせる。

私は視線を前に戻すし、そのまま虚空を眺めた。

「固形は無理そうだから、とりあえずこれ。

飲めるだろ」

男は、そう言って私の口元にストローを持ってきた。

何もしたくない上に気力がわかない。

私はそのストローに口をつけなかった。

「はぁ…」

男は、肩をすくめてため息をついた。

そのまま再び私をゆっくり寝かせると、ストローを外し、コップから液体を口に含んだ。

そしてそのまま私に口付けると、その液体を口に流し込んできた。

無理やり口に入れられた液体を、ゆっくり飲んでいく。

味も温度も感じない液体を、ぼうっとしながらゆっくりと飲んだ。

途中、飲む速さと口に入れられる速さが違うせいで口から漏れてしまうこともあった。

それを男はコップに入っていたぶん全てを口移した後、彼の服の袖で私の口を拭いてくれる。

そこで初めて、彼の服を見た。

V字襟の黒無地の長袖とスエットのズボン。

割と長袖もズボンもダボっとした感じで、男の体型は隠れている。

男は私の視線に気づくと、私の顔をじっと見つめてきた。

それが気になって顔を上げて男の瞳を見つめ返し、首をかしげる。

なに?という意味で。

「………なんでもない。俺の存在より、俺の服の方を最初に気にするんだな」

なにも言っていないのに、私の意は汲んでくれたらしい。

そうなんだ、と少し目を伏せ、もう一度男の瞳を見つめ返す。

「…俺はもう食った。風呂も入ったし」

ご飯は食べたのかと思って見つめたら、彼はまた私の意を汲んでくれたらしく、話してくれた。

視線を下にすると、灰色の掛け布団と同色のシーツが目に映る。

そういえば、部屋を見てなかった。

目線を上げて見渡してみた。

灰色の絨毯に、黒い机にソファー。カーテンは白と黒2つ。

ここから見えるのはそのくらいだ。

男に視線を戻す。

「…ここは俺の部屋」

なるほど。

「…30階建てのマンションの30階だ」

なるほど。

「…このフロアはこの部屋だけだから広いだけで、このマンション内の他室はもう少し狭い」

ほうほう。

「……なんで話さねぇお前に答えてんだよ、俺は」

男は頭を抱えて唸っている。

うおおおお〜とまるで漫画の文字がその頭上にあるかのような光景に、少し笑った。

「…俺の唸りがそんなに面白いかよ」

恨めしそうにこちらを見る男に、また少し笑

えた。

「はぁ。…風呂、行け」

かすかに笑う私を見て、男は言う。

ゆっくり起き上がり、絨毯の上に足を置いた。

ふかふかの絨毯は、裸足に床の冷たさを感じさせない温もりをもっている。

男が私の手を引き、風呂場へと案内してくれる。

「ここだ。これがシャンプー、コンディショナー、ボディーソープ。あとはあるもん使え」

そう言うと、私に背を向け、手をひらひらさせて扉を閉めた。

脱衣所兼洗面所となっているかの部屋をぐるりと見渡す。

ずいぶん広い。

洗濯機と脱いだ服を入れる籠。洗面台にタオルケースとティッシュ。

広いのに、物はこれしかない。

そのせいか、広い空間がさらに広く感じる。

ゆっくりと服を脱ぐ。

お風呂なんてそうそう入れるものではなかったため、こんなに早く入らせてもらえるとは思わなかった。

ふらふらとした足取りで風呂場のドアを開けると、浴槽も大きかった。

円形で、大人が5人ほど足を伸ばせるくらいの大きさはある。

シャワースペースも広く、のびのびとくつろげる空間が広がっていた。

髪を洗い、体を洗う。

最後に顔を洗って湯船に浸かる。

温かくて、全身にその温もりが広がっていくのを感じた。

浴槽の端にに体を預け、縁に後頭部を置く。

自然と上向きになる。

ゆっくりと目を閉じ、温まっていくのを感じながら。意識を手放した。


〜・〜


「………おいっ!」

──バタンッ

ドアが乱暴に開けられる音と、男の大声。

なんとなくふわふわした感触で体は動かない。それでも、このふわふわとした時間が幸せで、このまま楽に逝けるのではないかと思った。

男が服を着たまま湯船に入ってくる。

そのまま私の背と膝裏に腕を入れ、横抱きに抱き上げた。

焦ったように脱衣所に私を運び出すと、丁寧に体を拭いてくれる。

さっと服を着せられ、男も自身が濡れていることに気づき、自分の足を拭いて自室へ行った。

男は戻ってきた時にはすでに着替えていた。着替えるの早いなぁと思って見ていると、また横抱きに抱き上げられる。

男は小走りにベッドまで私を連れてくると、壊れ物を扱うようにゆっくりそこに下ろしてくれた。

そのあとパタパタと動く音がした後、男が戻ってくる。その手には氷枕とミネラルウォーター、タオルがある。

「……わるいがちょっと我慢な」

そう言って私の上半身を起き上がらせ、胸に抱きかかえると、その間に氷枕を枕の上に置いた。

その状態のまま、男は持っていてたミネラルウォーターを口に含むと、私に口移しする。

さっきのように溢れないようにと、ゆっくり流し込んでくれたため、口の端から漏れた量はさっきより減った。

「……一気にたくさん飲むのは良くねぇから。ゆっくりな」

そう言って、3回ほど口移しした段階でやめた。

男は、そのあと髪を乾かしてくれた。

力が入らないせいで座っていることができないため、男が私を胸に抱いた状態で乾かしてくれる。

やりにくくはないのかと思いながらも、ふわふわとした感覚と眠気に襲われ、ゆっくりと眠りについた。


〜・〜


ふっと、意識が戻ってくる。

目を閉じたまま周囲の音、匂い、温度、今自分が触っているものの感触を確認し、まぶたの裏から見える明かりで時間を予測する。

おそらく、ベッドの中で布団をかけてもらった状態。

室温は21度。

あとは特に聞こえない。匂いも特にない。

時間はおそらく15時程度。

近くには、人の気配がする。

たぶん1人。

そこまで予測し、ゆっくりと目を開けた。

「お前なぁ」

側に男がいた。

ベッド脇に椅子を置いて、ベッドの端に寝そべるような格好をしている。

ゆっくり起き上がると、私の目を見て男はため息をつく。

「……風呂で寝るバカがいるとは思わなかったよ」

頭をガシガシと搔くと、私を起き上がらせた。

「……まぁ、あんなとこで死のうとしてたしな。風呂で寝て死んだって別におまえは困らないか」

そうだなぁ。むしろその方が嬉しかったかもしれない。

「……お前が捨てた命と未来は俺が拾ったんだ」

そうだね。かってに拾われた。

「……かってにとか思うなよ。まぁ、そうだけど…。って違う!つまり、俺が拾ったんだからかってに死なれると困る」

1人ノリツッコミ…。

まぁ、そこは無視しよう。

困る、かぁ。何に困るのかなぁ。

「……何とか、別にどうでもいいだろ」

そこ、けっこう大事だと思うのだけど。

「……ご都合主義って言葉、知ってるか?」

うわぁ〜。この人、逃げた。

「……逃げて悪かったな。って」

はぁ、と深いため息をついて、男はまたうなりだした。

「なんで喋らねぇお前に俺が1人で喋ってんだよ。無性に虚しいんだけど?」

……ご愁傷様です。

「……それ、絶対お前にだけは思われたくねぇよ」

言葉は無くとも、なぜか思ってることを汲んでくれる男。

声を発する気力もわかないので、とりあえずこのままでいいやと思うことにした。

「……よくねぇよ。喋れや、おい」


昼食の時間は過ぎていたが、男は私が眠っている間に食べたらしい。

私に、今朝口移しした液体を口移しで同じように飲ませると、袖でまた口を拭ってくれた。

「おまえさぁ、男といるってわかってねぇな」

男は冷めた目をこちらに向けた。

わかってない?わかってるよ。でも、どうだっていい。何をされたって、もうどうでもいいのだ。

「……へぇ。どうでもいいなら、何されてもいいわけ?」

いいよ。

だって、ご飯もお風呂も使わせてもらったのに、私は何も持っていない。

お金もない。服もない。

家も戸籍も、何もかも。きっともうない。

「全部ないから何されてもいいってわけじゃねぇだろ。お前は女だ。身体は大事にしろ」

そう言いながら、私の上に覆いかぶさってくる男は、そのまま私に口付けた。

唇に感じる温かさに、なぜか泣きたくなった。キスをしながら、男は私の両手に自身の手を絡ませた。

顔の両脇で手から伝わる温かさに、懐かしい感じがした。

最初は唇が重なっているだけだったのが、だんだん激しくなっていく。

男は、私の唇を食むようにキスをする。

酸欠になり、口からの酸素を求めて唇を開くと、そこから男の舌が口内に侵入した。

口の中を蠢き、犯していくその舌に翻弄されながら、男の手と絡められている両手にぎゅっと力を込める。

唇が離れると、男は私の唇の自分の唇を拭った。

「……こういうこと、慣れてないだろ。気をつけろ」

私は捨てたのに。拾われたのに。

嫌がることは、何もないのに。

「………もっと食え」

そう言って、男はコップをキッチンに置きに行く。

外へ行くようだ。

出る前に振り返る。

「……出かける。寝ろ」

そう言って、ガチャリとドアが閉まる音がした。言われた通り、眠ることにする。

その前に、お風呂を借りた。

さっきは眠ってしまって体も洗えていなかった。

シャワーから出る冷たい水が体を打つ。

目を閉じて、体がひんやりとしてくるのを感じながら、深呼吸をした。

髪と体を丁寧に洗い、その後しっかりとタオルで体と髪を拭き、歯を磨く。

その後、渡された化粧水と美容液、乳液で顔の手入れをした。

ベッドへ行き、ボディークリームを手足、腕、首に塗り、手を洗う。

女なのだから、気を遣えと言われて渡されたものたち。

心の底では面倒だと思っているが、言われたのだから仕方がない。

髪にも洗い流さないトリートメントをして乾かす。

腰より伸びた、ゆるっとうねる髪はなかなか乾かないので面倒だ。

終わった後、髪をおさげに結う。

あまりきつくなく、ゆるゆるにする。

こうすれば、髪が痛むことはない。…らしい。

長い髪は、そのまま寝ると痛む。

きつく結んで寝るのも痛む。

三つ編みならまとまるし、きつくなったりもしないから便利だ。

1つ難点なのは、朝解いた時にうねることくらい。

あのマンションにいた時も、ロクにお風呂なんて入れてくれなかったくせに美容には気をつけろと言われていた。

だから、クリームやら髪は結って寝ろやら散々言われたので板についている。

ベッドへ入ると、ドッと疲れが押し寄せてきた。

そういえば、男が私の目の前で外へ出るのを見たのは初めてだと気づく。

でも聞く必要も無いだろう。

私は、”男”に拾われたのだから。

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