第1話 Last Night

マンションの部屋は引き払った。

家具はすべて捨てた。

服もアクセサリーも下着も、身につけているもの以外すべて捨てた。

お金も捨てた。

そのまま、ゆっくりと秋の深い森へ足を踏み入れる。

後悔はない。

あるのは、苦しみから解放される安堵と愛されなかった寂しさだけ。

それだけを胸に、深く、深く、森を進んでいく。

夜の森は、心の穴も、闇も、苦しみも、全てを受け入れてくれた。

風が吹く。

髪が舞う。

薄茶色の髪に黒い瞳。

肌は青白く、血管が浮き出るほど痩せ細った体。

──ふらふら、ふらふら

いつ倒れるかわからない足取りで進んでいく。

暗いく冷たい、寂しい夜の深い森へ。

歩き続ける。


足を止め、上を仰ぎ見る。

大きな木があり、まるですべてが潰されるような、飲み込まれるような感覚に畏怖する。

その木の根元に座った。

足を投げ出して腕もだらりと下げ、虚空を眺める。

これから、死ぬのだ。

死ぬためにここに来た。

死ぬため、では語弊があるかもしれない。

”生”、という しがらみから解放されるために、ここに来たのだ。

愛されず、汚いもの扱い。

塵以下の扱いと、痛みだけの毎日。

食事も風呂もトイレも、何もない。

存在意義は、渡された部屋にただいること。

かってに引き払ってきたマンションの一室は、私のものであって、私のものではない。

キッチンも布団も風呂もトイレも、何もかも使うことを許されてはいなかった。

ただ、なぜか生活感のある部屋に、何も敷かれていないスペースに座り続けるだけの毎日。

誰もこない。

たまに、ご飯という名の餌を携えた人が来る。その時だけ、キッチンも風呂もトイレも使うことが許された。

自分の名前だけは覚えている。

しかし、誕生日も家族も思い出も、何もない。

否。

"私"は知らない。

その名前すら、本当の名前なのか確証はない。

──ざわざわ、ざわざわ。

木々が風に撫でられ、騒いでいる。

真冬の中、上着もなく、薄いボロ布のような服だけを着ている。

下着はないし、ズボンもない。

ボロ布のような、一応ワンピースを着ているだけ。

それでも、少しも寒くはなかった。

心地よかった。

目を閉じ、木に寄りかかる。

身元が分かるものは、すべて捨てた。

と言うより、元からそんなものは持っていない。

1つだけ捨てられなかったのは、左耳のピアスだけ。

アレキサンドライトの、ピアス。

太陽の元では赤紫に。蛍光灯の下では青に。

そんな不思議な石のピアス。

──ざわざわ、ざわざわ。

ゆっくりと冷やされる体。

靴はない。

靴下もない。

裸足は枝や石を踏んで傷がたくさん付いている。

それでも、気にしない。

痛みなどない。

あるのは、死への安堵だけ。

ゆっくり深呼吸をして、眠りにつく。

次に目を覚ますことがあるのかはわからない。

目を覚ますことがないことを祈る。

でも、こんな綺麗な空気の中にいれるなら、

少しだけ、次に目を覚ますことがあってもいいような気もした。

ゆっくりと呼吸をする。

自然と一体となって、ゆっくりと。

人工物などないこの場所に、自然の中に、還れるのならば、生きてきた意味があったのかもしれない。

死ぬ意味があるのかもしれない。

そう、感じることができた。


〜・〜


──ガサッ。

明らかに自然の音ではない音がした。

靴で草や枝を踏む音。人工的な、人がいる時だけの音。

もしかすると、同じ目的のために…。

死ぬために来た人か。

ゆっくりと目を開けると、2メートルほど離れた場所に人が立っていた。

暗くて顔は見えないが、女にしては広い肩幅と高身長。

おそらく、男だ。

その人は、こちらを向いて立ち尽くしている。

死にに来る人以外こんなところにはいないだろう。

死ぬならば、関係ない。

会話の必要もない。

その人から目線を外し、地面を見つめる。

相変わらず足も腕もだらりと脱力した状態で座り、目を伏せ、少し首をかしげた状態でぼうっとする。

「…死ぬのか」

低い声。

低すぎるほどではないが、重厚感のあるような、人を惹きつけるような声。

やはり、女ではなく男のようだ。

男の口調は疑問ではなく、断定的だった。

会話やコミュニケーションなどとろうとは思っていないので、男には目もくれず、そのままぼうっと虚空を眺める。

──パキ、パキッ

男がこちらに近づいてくる音がする。

雲間から月の光が差した。

木々の間から差す月の光は、男を照らし、空間に浮かび上がらせた。

暗い瞳、少し長めの黒い髪。

目にかかって鬱陶しげな髪は、風になびいている。

黒い瞳には、憂いが宿っているように見えた。

その男は、目の前に来たと思ったら、私の目の前でしゃがんだ。

こちらに手を伸ばすと、顎を掴まれて無理やり顔をあげさせられる。

「お前、死ぬならもういらないんだろ。

その命も、未来も」

またもや断定的な男の口調。

疑問ではない口調は、なぜか確信をもって放たれているとわかる。

”私”は答えない。

ただ、虚空を眺める。

頷きもしない。目を合わせない。言葉を発しない。

雲が晴れた。

男の顔がはっきりと照らし出される。

精悍な顔つきに、華奢に見える体つき。

だが、華奢に見えるだけで、しっかりと筋肉がついているのがわかる。

「いらねぇなら、俺がもらう」

勝手に1人で話を進めていく男。

もう立ちあがる気力も体力もない私は、男に腕を引かれ、横抱きに抱え上げられても動かなかった。

男に抱き上げられたまま、

来た道を戻っていく。

この森は、帰れないことで有名なはずだが、男は迷うことなく進んでいた。

私は、足も腕も、全身をだらりとさせたまま、されるがまま。

ゆっくり、目を閉じた。


私の最期の夜は、男に拾われた。

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