第32話 左ピアス

──ブオオオオオオオオ…

湊は私の髪を乾かす。

自分でできるのになぁ。

そういえば、湊はよく私に触れたがる。

髪もそうだけれど、首や手首もそうだ。

隠し武器の位置でも探っているのだろうか。

カチッと音がした。

乾いたらしい。

ドライヤーのコードをまとめてしまった後、湊は私を後ろから抱きしめる体制で座った。

私はそちらに向かって嫌味ただっしく言った。

「……いつまでここにいるつもり?」

「さぁ?」

湊はあっさり私の嫌味をかわした。そして私の髪をまとめて右に流すと、首の左側に顔を埋める。

お腹に回された腕は、強くもなく弱くもない力加減だ。

首に当たる唇と息がくすぐったい。

「……今から話すのは、俺のかってな思い込みだ」

彼の声が耳元でする。低いその声は、なぜだか心地のいい響きを持っている。

しかし、今の私にはその言葉は不穏な響きとして聞こえた。

「はい?」

「黙って聞きながせ」

「………わかった」

ほんの少しの沈黙の後、湊は私に会いに来た本題の話を始めた。

私の嘘を暴くという話を。

「時系列順に話す。

まずは最終戦闘試験のことだ。

お前は選抜して璃久と幸架だけを逃したことになってるが、それは嘘だ。

試験前日、俺は大幅に遅れて帰った。

だからその場面を見ていないが…璃久と幸架が寝ている時に、他の奴らにお前は話を持ちかけた。翌日の試験内容と、2人逃すのが限界だ、と」

「………………」

「……最終試験に残ったのは、お前を抜いて8人。

その中で、逃げてからも生き抜ける確率があったのは璃久と幸架だけだった。他の6人は、…どうしたって生き残っていけるような奴らじゃなかった。

お前は、逃がす2人は璃久と幸架にしようと思っていることを6人に話したんだ。6人は全員それを受け入れた。

そして当日。

何も知らないフリをしてお前と6人は演じ切った。目的通り、2人を逃すことに成功し、6人は死んだ」

「…………………」

ポッポツッ、と雨が降り出す音がする。

次第に雨脚はひどくなり、雷鳴が轟き始める。

「…次だ。開理との取引。

口頭で引き受けた賭けだったが、お前は本気でそれを受け入れた。俺たちは、その賭けが今回の無名組織壊滅のことだと思ってたが…それは違ったんだ。

…確認したい。賭けの内容は、俺がお前の予測を超えること、だよな」

「………そう」

「……この賭けは、…親父がお前に持ちかけた時点でお前の負けだったんじゃないか?」

「……………」

稲妻が走る。

電気をつけていない部屋がパッと一瞬、明るくなる。

5秒ほどで大きな雷鳴が聞こえた。案外近いところで落ちたようだ。

湊は黙り込んだ。

私も何も言わない。

私に回された腕の力が少しだけ強まる。

「それで?」

「……お前の予測を超えたことを俺が一体いつしたのか、考えた。

…1つだけ思い当たるのがあったんだ」

「…何」

「…1歳の、あの日。

──俺がお前に話しかけたこと。

…違うか?」

目をそっと閉じた。


ーーーーい…え…え?


私の瞳を見て、嬉しそうに手を伸ばして声を発する小さな小さな男の子。

まるで、宝物を見た方かのようにキラキラと目を輝かせ、それをうまく伝えられないことを悔しそうにしていた。

あの日、1人だけ部屋に帰ってきた私に近づいてくる人なんていなかった。

運ばれてこないご飯と、誰もこない不安で全員精一杯だったはずだ。

それなのに、瞳が綺麗だと。ただそれだけの理由で私に近づいてきた男の子。

私がどんな人間なのかなんて知らない、無垢で純粋な…。

ゆっくりと瞳を開けた。

ほんの少しうつむき、私のヘソあたりにある湊の手を見る。

「あとは?」

私を後ろから抱きしめるジュンの顔は、私には見えなかった。

「2年前、お前は無名組織壊滅の準備を終えた。

開理は、これが賭けの内容だと思ってたみたいだが、それは違う。

組織壊滅は、お前がかってに考えたことだ。

そして、お前に"リミッターなんて元からなかった"。

俺と幸架、璃久が合流した時点でお前の目的は達成だ。

ここでお前自身の役割が終わった。

お前はお前が集めた俺らが集まったことで、俺らが組織壊滅を計画すると踏んだ。あとはお前自身が無名組織と心中すればいい。

そうすれば、無名組織どころか全ての情報が入る自分さえ消えれば、もう何も脅威なんてない。

お前はただ、組織壊滅までそのままじっとしているだけで目的が達成できる。…予定だった」

「………………」

大きな光とともに轟音が鳴り響いた。

まだガラスがビリビリと振動する。

「俺らは、2年前にお前が脱走したのは計画の1つだと思ってたんだ。リミッターさえ外せば、お前は自由だ。

…でも違った。

リミッターなんて、つけられる前にお前は簡単に避けられたはずだ。

それなら、なんのために脱走した?」

「……………」

2年前。

監禁されていた場所から深い森へ逃げた。

月が綺麗だったのを覚えている。

「……お前はあの日、本当に死のうとしてたんだろ」

ぎゅうっと、つよく抱きしめられる。

私は答えない。

これは彼のかってな思い込みだ。

真実ではない。聞き流せばいい。

大丈夫。

まだ、大丈夫。

「死のうとして脱走したのに、お前は俺に見つかった」

「…あとは?」

「他はない。

でもわからないことはまだたくさんある」

「……………」

「なんでお前は"Devil"として俺らを助けたり、情報与えてきたり、俺が風邪のとき駆けつけてきたんだ?

死んでも別に問題ないなら、放っておけばよかったんだ。」

「…………」

「他にもあるよな?

お前は"記憶がなくなってなんかいない"。

なら、何故記憶喪失のフリをして表社会に出たんだ?死にたかったなら死ねばよかったんだ」

「…………」

「もっと言えば、お前を拉致した俺ら3人を殺すタイミングなんていつでもあっただろ。

俺らの目を盗んで死ぬことだってできたはずだ。それなのにそうしなかったのは何故だ」

「……………」

お互いに黙り込んだ。

言うことは、何もない。

この男は、私に回答など求めていない。

確信して話しているのだから。

見透かされている。

今回の件全て。

でも、"まだ大丈夫"だ。

私の本当の目的も、動機も、何一つバレていない。

一手でもしくじれば、終わりなのだ。

ミスなんてできない。

「ふふっ……あはははははっ!」

「……………」

突然笑い出した私を、湊は訝しげに見た。


「お前は、本当にバカだなぁ?」


バレてはいけない。

欺き通して、自分さえ騙して。

全てを手のひらで転がすのだ。

最後の最後まで、絶対に悟られるわけにはいかない。

雷鳴は止むことなく響き続ける。

大地と空気を震わせ、街全体にその音を響かせた。

私は立ち上がり、ベッドに腰掛けた。

足を組み、口元に手を当て、ニヤリと笑みを作る。

「次の一手の目的が何か、知りたいんでしょ?」

「……………」

男の眉がピクリと動いたのを見逃さない。

こいつは、今回の全貌を知っているぞと暴露し、私がそれに動揺したところで次の一手について情報を得ようとしたのだろう。

騙されると思っていたのか?

「いいよ?教えてあげるさ。別に隠してないし」

「……………」

男の顔が歪む。

バレたか、なのに何故教えてくれるんだ?という顔だ。

私を欺こうなんて、まだまだ早いな。

「今回の目的は、無名組織壊滅。それは君もわかったでしょう?」

「……あぁ」

「次の目的はねぇ…

──君を殺すことだ」

見下すように男を見つめる。

男の目が見開かれた。

こいつは、私が自分を殺すつもりがないと結論に至った。

それは、今回の件で私が何度もこいつを助けるように動いたからだ。

だからこそ、今状況を飲み込めずに混乱している。

「何動揺してんの?」

「………っ」

「さっきから話してたのは君の思い込みでしょ?自分で言ったんじゃないか。

真実はいつだって思い通りじゃないものな方が多いよ。

君は私を美化しすぎてる。

誰かを活かすために。

法で裁けないから代わりに。

復讐を果たすために。

死んだ人の無念を晴らすために…」

「……………」

「最近殺し屋も殺人鬼も、犯罪者に何かしら動機があって、人間の道徳的に情を惹きつけられるようなものが流行ってるけどさぁ…。

私たちは"犯罪者"だよ?

どうしたって正義にはならない。

人の命を奪い、誇りを汚し、都合よく罪をなすりつけてそのままポイッだ」

「……………」

「私に正義を求めていたみたいだけど、残念だったね。

私はただ、殺人を楽しんでいるだけだよ。

私は、私を超える誰かが私を殺すまでやめるつもりはない。

次は君を殺す。君は、私の予想を超えてくれそうだから楽しみだよ」

男の顔が苦渋に歪む。

「あっ!そうだ。その前に開理を殺して、その後に璃久と幸架にしよう。

その方が、君も本気で殺しに来てくれるでしょう?」


──ガッ


私はベッドに押し倒され、首を絞められた。

男の顔が、苦しそうに歪む。

そう。それでいい。

どうせ彼は私を殺せないのだ。

心のどこかで、私を信じているのだから。

1歳のあの日から、彼は私の後ろを離れずに歩いて来た。

私がいれば大丈夫と安心して、ずっと私の後ろをついて来たのだ。

信頼を失うのは簡単だ、なんてよく言うが、本当に信頼していたものだとしたら、そう簡単に疑えるものではない。

グググッと首を絞める力が強くなる。

男の歪んだ顔を見ながら、私は嗤い返す。

お前に殺せるのか?私が。

ふっと首を絞めていた手が離れる。


「……なん、でっ」


男から、苦しそうに声が漏れる。

なんで、の後に続く言葉はなんなのだろうか。

なんで俺を殺すのか?

なんで、信じていたのに?

なんで、どうして?

その、どれでもない気がする。

何を言おうとしているのか、わからない。

でも、これでいい。

起き上がり、服を整える。

うずくまって何かに耐えるように手を握りしめる男を見下す。

「殺すつもりがないなら、さっさと帰ってくれない?」

男の肩がビクリと揺れる。

「明日には3人とも殺すし、そろそろ次の手に行きたいし。

君の思い込みもちゃんと全部聞いてあげたしさ」

「…………」

「はぁ…」

動こうとしない男を見て、ため息をつく。

水でも飲みに行こうか、と立ち上がった。

「こんなんで怖気付くとか、期待外れ」

聞こえるよう、わざとそう言った。

これで襲いかかって殺しにくればいい。

私を憎んで、そうすればいいのに。

キッチンに向かいながら、ため息と共につい、こぼれ落ちた。


──こんなんで、生きてても、なぁ


ボソッと、本当に小さな声で言った。

ぽろっと出てしまった本音。

聞こえるわけがない小さな小さな本音。

自嘲気味に、ほんの少し笑った。


──ガッ


「うっ……わっ!」

かなり強引に腕を引っ張られ、ベッドまだ連れて行かれる。そのままそこに押し倒された。

「突然何、」

するの、まで言うことができなかった。


──ガリッ


「い"っ…っ!」

容赦なく噛まれる。

食いちぎられるのではないかというほどの力で、いくつもいくつも血が滲むまで噛み跡をつけられる。

「声、抑えろ」

口に手を突っ込まれる。

強く吸い付かれ、紅も散る。

「な、に…い"っ!」

男は、噛みながら私の服を捲り上げる。

来ていたパジャマのズボンもスルリと脱がされる。

痛みでジタバタと暴れる私の足をつかみ、自分の足をその間にねじ込むと、その隙間から足の間を手で触り始めた。

「ぁっ…い"っ……ぅ、あっ…」

「ハッ、俺に殺して欲しくて煽るようなこと言ったのか?バカだな。そんなの受けるわけねぇだろ」

期待外れ、と言ったことに激怒したらしい。 

いや、まさかあんな小さな声でつぶやいた本音が聞こえていた?…それはないか。

男の手の動きが早まる。

耐えろ。大丈夫。

こんなこと、いつだって耐えられて来たんだ。

大丈夫、耐えられるはずだ。

「ふっ…ん……も、やめ、…」

「やめねぇよ」

薬が抜けていない体は重く、思うように動かない。

抵抗もできない。

ひたすらに責められ続ける。

性的な拷問には、だいたい二つのパターンがある。

焦らし続けるか、繰り返し絶頂させるか、だ。

どちらが苦しいかといえば、前者と答えるものの方が多いだろう。

繰り返しの絶頂は、いつか気を失う。

気を失うことさえできない、焦らされ続けるだけなのは相当苦しいらしい。

だが、今の相手はこの男。

意識を飛ばさない程度にイかせ続けるなんて、お手のものだろう。

そうなれば、話は別だ。

耐えられるわけがない。


「ぅ…あっ!やぁっ!……あぁっ!」

ビクンビクンと体が跳ねる。

それでも、男の手は止まらない。

あれからどのくらいたった?

今は何時だ?

「ぅ……あっ……」

「ハッ。もう声も出ねぇ?」

ガクガクと体が震える。

もともと、バーテンダーに盛られた薬がまだ残っている。

まだ抜けてないらしいその効果のせいで、体は動かせない。


──ガリッ


「ぅっ……あ"っ……」

すっと男の手が離される。

ビクビクと震える体を引きずり、なんとかベッドから逃れようともがく。

「何してんだよ」

それを嘲笑うように、ずりずりと身体を彼の方へと引きずられる。

「も、い、…でしょ」

「そんなわけねぇだろ」

ぐっと押し付けられたものの感触に、思わず顔が青ざめる。

「やめっ、」

「やだね」

「他のことなら、なんでも、いい、から」

「ふーん…」

男の、私の腰を掴む力が弱まった。

少しほっとして体の力が抜ける。

「例えば?」

「…一つ、要求を飲む」

「へぇ…。だったら、」

ぐっと一気に体の奥まで貫かれる。

突然の刺激と衝撃で耐えきれずに悲鳴をあげた。

「うるせぇよ」

片手で口を押さえつけられ、容赦なく腰を打ち付けられる。

丁寧さのかけらもないその行為は、ただひたすらに虚しかった。


この男は、なぜ私を抱くのだろうか。


「んっ……んん…ぅ…んっ…」

「はぁっ…はっ…」

痛い、苦しい、熱い。

乱雑に抱くくせに、私に触れる手はとても優しい。

何故?

男の手が、私の口から離れる。

「殺す予定の男に、こんなことされる感想は?」

「ぅ…んっ……はっ……も、…や、…め、」

「やめねぇって、言ってんだろっ」

乱雑に抱くくせに、私の弱い部分ばかり狙ってくる。

私がビクンと達するたび、ほんの少し動きを軽くしてくれる。

ねぇ、どうして?

「はぁっ…はっ……」

ねぇ、なんで?

どうして、泣いているの?

「………ーー、ーー」

私は必死で声を紡いだ。もう枯れた声で、それでも必死に。

「は?何?」

彼の動きは止まらない。

私の体がぐったりと揺らされているだけだと気付いていても、腰を止めてはくれない。

「ーーー、ー……」

「だから、聞こえねぇっつってんだろっ!」

声が掠れる。自分の声じゃないような悲鳴が聞こえる。

理性で耐えきれなかった涙が溢れる。

「……ー、ーーー」

「はぁ、…はぁ…」

男の動きが止まった。

私の体は、ビクンビクンと動く。

男が、鬱陶しげに前髪をかきあげ、汗を拭う。

「はぁ、はぁっ…。何?」

「……み、…な、と」

ハッ、とバカにしたように彼が笑う。

「何それ」

ゆるゆると腰の動きを再開される。

涙が止まらない。

なんで、この人がこんなことをするのか、わからない。

「……き、い、……ち…」

「わざわざそんなこと言いたかったのか?」

ねぇ、泣かないで。

そんな顔、しないでよ。

行為が激しくなる。

もう、声は出ない。

喉がヒリつく。

体は重く、男の私の腰を掴む手が痛い。

「……ー、ーー、ー」

「なんだよ。聞こえねぇよ」

ねぇ、あなたは気付いてる?

私の名前を忘れてしまったことに。

2年前、初めて森で拾ってくれて、その後湊が死んだと偽装した時に。

「……ーー、ーー」

「はぁっ…はっ……」

出血の量が多すぎて、記憶が少しなくなってしまったらしいね。

そのなくなった記憶の中に、私の名前があるのを。

あなたは、知っていますか?

「……っ、……」

私の名前を知っているのは、私とあなたしかいない。

でも、あなたは私の名前をもう覚えていない。

だから、私の名前を呼んでくれる人は、

もうどこにもいない。

でもね、それでいいよ。思い出さなくていい。

あなたの中から、私がちゃんと消えてくれるなら、名前なんて忘れてていいよ。

「ー、……ー、ー、……ー」

「聞こえねぇって、言ってんだろっ!さっきからなんなんだよ」

あなたには父親の開理がいて、同志の幸架と璃久がいて。

あなたに力を貸してくれる人は、たくさんいる。

他にもいるんだよ。

これから、その人たちが絶対に君を助けてくれるから。

思い腕を精一杯持ち上げ、男の目尻に触れる。

男の涙が私の指に流れ、手首から腕へと伝う。

だから、──泣かないで。

「ぅ……ぁ………」

そんなに苦しいなら、逃げていいよ。

逃げたって、みんな君の味方だ。

殺さなきゃいけない人がいる日は時、何日もろくに眠れなくなってしまうのを、私は知っている。

あなたがは優しいから。

でも、あなたの"衝動"が、それを許さない。

「ぁっ……ぁっ……」

何も知らなくていいよ。

全部、私がかってにやっていることだ。

だから、君には自分の幸せを掴みとってほしい

私は人間じゃない。

だから犠牲に入らない。

だって、私は…道具なんだから。

だから、気にしなくていいよ。

男の目尻に触れたいた手を頰に当てた。

激しく揺らされるせいで、うまく触れることができない。

私はね、これしかできることがないんだ。

君が、私を特別に思ってくれていることを知っている。

でも、その手を取るわけにはいかない。

私を抱いて気がすむのなら、いくらでも抱けばいい。

私を傷つけて満足するなら、いくらでも跡を残せばいい。

いいよ。

君の望みなら、それでいいよ。

「……っ、…ゼロっ」

そうだよ。

私はゼロ。

無であり、無でありながら存在する、ゼロ。

私が、君の悪夢を終わらせよう。

そして、君の夢を叶えてみせるよ。

ねぇ、だからさ

──笑ってよ


「……ゆ……う、い………」


男の動きが止まった。

私の腕がパタリと落ちる。

もう体は1ミリも動かせない。

ぼんやりと男を見つめる。

「なっ…んでっ」

泣かないで。

笑ってよ。

漆黒の瞳からボロボロと雫が溢れる。

いつのまにか止んだ雨。

月の光が窓から入り込む。

窓から見える星と、ポロポロと泣く君と、月の光で輝く涙。綺麗、だなぁ。月もあなたも。

「なんで、知って、」

ねぇ。

あの日、君の背中に向かって名前を教えたのはね、私なんだよ。

1ヶ月前、君は父親に、颯斗って呼ばれたんだよね?

君は、君の父親が君の名前を知らないことに傷ついた。

私は、それを見ていた。私もさすがに驚いたよ。

まさか、君を、"君の兄"と間違えて呼ぶなんてさ。

でも、私はちゃんとわかってるよ。

大丈夫。

君はお兄さんに会えるよ。

ねぇ、だから、笑って?

「ゆ…う、…………い…」

君のためなら、私は何にでもなれるよ。

それで君を救えるなら。

いくらやっても、何をしても、君からもらったものに比べれば全然足りない。

君の綺麗な涙に触れるには、私の手はもう汚れ過ぎていて。

ごめんね。

だから今だけは、あなたの名前を呼ぶことを許して欲しい。

愛しいあなたの名前を。

「悠、…威……」

永遠の強さ。自分を信じて、ゆっくりと自分のペースで生きてほしい。

そんな、優しい想いが込められた名前。

君らしいね。

冷酷になれない、温かい、そんな人。

もう自由になっていいよ。

羽ばたくための翼がないのなら、私の翼を折って君にあげる。

君を縛るものは、全部私が解いてあげるから。

だから、だから……。

男が私に覆い被さる。

首の裏に腕を回され、ぎゅぅっと抱きしめられる。

「なんで、お前が、知ってんだよっ…」

私は、精一杯の笑顔で答える。

「わた、しは、記憶、媒体、No.…000。

知らないことは、…あり、ま、せん」

「………っ」

あぁ、これが夢ならば覚めないでほしい。

このまま、温かいこの腕の中にずっといたい。

ポロリ、ポロリと私の紅い瞳から涙が溢れた。

それに気づいた男が起き上がり、私の目尻を指で拭ってくれる。

「……お前の名前は?」

「私、は、…記憶媒体、No.000、です」

「違ぇよ。…お前の名前は?」

「…私は、記憶媒体。記憶媒体には、名前は不要、です」

男の顔が歪む。

そんな顔、しなくていいのに。

「私は、ゼロ。…ゼロ、ですよ。悠威」

「………っ」

これでいい。

これで、いいのだ。

湊──悠威は、一晩中私を抱いた。

今度は、優しく、丁寧に。

もう意識もほとんどなく、力なく体を揺らす私を見て、ごめん、ごめん、と、

何度も何度も、謝りながら。


「……うん、……ごめんね。……大丈夫だったよ。……」

重い瞼をうっすら開けると、自分の声で何か話す声がした。

視線を彷徨わせると、湊が私の携帯で何か話している。

「……うん。よろしくね。……ごめん」

会話が終わったようだ。

コトリ、と湊は机に携帯を置かれる。

「あぁ…起きたか」

「ぁ………」

「……水、取ってくる」

湊は、コップに水を注いで持ってくると、ベッドに座った。

片腕で私を起き上がらせると、口移しで水をくれる。

腕が重い。体に力が入らない。

「……大丈夫か?」

「だぃ、じょ、ぶです」

「……ごめん」

スッと伏せられた漆黒の瞳は揺れている。

その左耳に輝くのは、ピアス。

「アレキ、サンドライト」

「は?」

淡い赤紫。場所によっては青に見える、石。

私がつけていたピアスだ。

きっと、それも覚えてないのだろう。

机の携帯が鳴った。

今度は男の方だ。

はぁ、と一つため息をつき、私を寝かせてから電話をとる。

「…なんだ。……あー………いや。………そうだな。……は?…………それは…………やばいな」

男の顔色がサッと変わる。

次の手が始まる。

私は、左耳のピアスに手を当てた。

右ピアスは、守られる人がつけるピアス。

左は、"守る人"がつけるピアス。

君を守るよ

私は、これで最後だと一度だけ、涙をこぼした。

重い腕を持ち上げ、ベッドに隠した針を取り出す。

「あぁ…。とりあえず一回そっちに行く。

……そうだな。」

針を思いっきり腕に刺した。

ポイントを探して足や腹、手にも刺す。

荒療治だが、それで体は動く。

人間には"ツボ"というものがある。そこを突けばある程度動けるようになる。

ちゃんと位置がわかっていれば便利なものだ。

側に隠しておいたパーカーを羽織る。

袖口からナイフを滑らせる。

湊は、まだ気づかない。

「……そうか。…あいつは?………あー……」


──ヒュンッ


男の首、薄皮一枚を切って壁にナイフが刺さる。

「……っ!」

携帯を耳から離し、信じられないという顔をした湊が振り返る。

さぁ、次の手だ。

私は言った。

あなたを殺す、と。

ニヤリ、と口元を歪める。


「ねぇ、遊ぼう?」


袖口から中型ナイフを滑らせ、斬りかかる。

「うっわっ…」

ガンッ!と携帯を落とし、ギリギリ湊が避けた。

その隙を狙って左手にもナイフを滑らせて投げる。

そのナイフが、男の腕に刺さる。

「お前っ!何して、」

間髪入れずにその頭に向かって蹴りを入れる。

男がそれを片手で受け止めたのを確認し、膝を曲げてその反動を利用して背中にナイフを突き刺す。


30分後、血まみれの湊がぐったりと床に座り込んでいた。

その瞳は虚ろで、どこか遠くを眺めていた。

「……ゼ、…ロ、」

「……………」

ガクリ、と男は力なく倒れた。

近寄って気絶したのを確認する。

大きな致命傷はない。

出血もそれほど多くはないから、大丈夫だ。

男の両頬を手で包み込む。

倒れたのは、ただの疲労だ。

また最近無理ばかりしていたのだろう。

「………さよなら」

これからは、この瞳に敵意と殺意を向けられるようになるだろう。

手を離し、立ち上がろうとした。

──パシッ

「…………っ」

手首を掴まれ、驚いて振り返る。

苦しそうにしながらも、男が私の手首をきつく握りしめていた。

「誰が、逃すって言ったんだよ」

握られていない左手にナイフを滑らせ、男の頭に向けて振り下ろす。

男は、避けなかった。

刺さる直前でピタリと止める。

男は、私から目を逸らさない。

「……離して」

「断る」

「…………」

睨み合う。

急がなければ、そろそろ2人が来る。

それはまずい。

ナイフを私をつかんでいる手に刺した。

それでも男の手は離れない。

「なん、で」

「バカだな、お前は」

男が笑った。

その笑みがとてもやさしくて。

また、泣きたくなった。

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