第8話 失くしたもの

〜2年後〜


「はる!はーるか!急げー!」

「あ、今行く」

手元の資料が別の物と混ざらないように机に置くと、私は凪流(なる)の元へ早足で向かう。

「やばーい!間に合う?間に合わなかったらどーしよー!」

「大丈夫。昨日のうちにだいたい頭に入れておいたから」

「さーすが!はるは頭良くて羨ましい!」

人よりたまたま記憶力がいいだけで、あとは平凡だと思う。

羨ましがられるほど、ずば抜けて何かできるわけではない。

私は、少し苦笑いをしながら、今日行われる会議の発表内容を頭の中で反芻する。

「はる!はーるー!」

「ん?」

「……大丈夫?」

不安げに凪流が私を見つめる。

凪流は、ボブくらいの栗色の髪に、色白でスタイルがとっても綺麗。栗色の髪は地毛らしい。とてもかわいい女性で、私の同僚である。

「大丈夫」

私は、凪流が安心してくれるように微笑んでみせた。


私には、2年前以前の記憶がほとんどない。

2年前、私はなぜか橋の下で目を覚ました。

泥だらけの足とワンピース。

そして、左耳のブラットストーンのピアスとブラックカード。

それ以外、何の持ち物もなかった。

さらに、それ以前の記憶も。

ただ、唯一思い出せるのは…。

──ゆらゆら、ゆらゆら

苦しそうに笑う男の顔

──ゆらゆら、ゆらゆ…

そんな、漠然とした映像だけ。

よくわからないままそこから歩き始め、とりあえず近くの交番へ向かった。

そこで保護され、検査をしてから仮戸籍の手続きをし、張り紙やテレビで私の知り合いを探してもらった。

けれども張り紙やテレビの成果はなく、知り合いは出てこなかった。

また、私の顔と一致する人物は今の所見つからない、と言われた。

この街の行方不明者の戸籍と照らし合わせてもらったりしたが、行方不明者の家族の中に私を探していた人はいなかった。

なぜ記憶がないのか。なぜ橋の下にいたのか。あの男は誰なのか。

あの、揺らめく煙は何の煙だったのか。

何1つ、わからない。

それでも、生きていかなければならない。

ありがたいことに、日常で必要な知識は頭の中に残っていた。

仕事は案外早く見つかり、仕事をしながら1年間保護施設で過ごした。

そして去年。

1年貯めたお金で保護施設を出て、割と安価なマンションへ引っ越した。

ちなみに、所持品であったブラックカードはありえないほどの額が入っていたらしい。

そのブラックカードの所有者の名前は、佐藤悠(さとうはるか)。

ゆう、と読まなかったのは、カタカナふりでハルカと表記されていたからだ。

佐藤悠という名前でブラックカードの紛失届は出ていなかったため、私が所有者で間違いないだろうと私のものにはなった。

そして、そのブラックカードのデータから、私の身元を探ってもらっている。

しかし自分のものだと言われても、今でもそれは何となく手がつけられずにいた

仕事はOLだ。

けれど、些細なことでも思い出そうとすると頭痛に襲われ、倒れてしまう。

それと、なぜか煙を見ることも。


「あ゛〜、もー、ムリ…」

「そんなおっさんみたいな声出すと、誰もお嫁にしてくれないよ?」

「だってー!私は悠と違って記憶力良くないし…」

「はいはい。どうせ昨日、なんとかなるわ!とか言って発表内容の確認もしないで寝たんでしょう?」

「え…なんで、なんで分かるのー!もしかして…千里眼?いや、サトリ?妖怪サトリ⁉︎」

「私、もはや人じゃないのか」

無事発表が終わり、お昼休憩になった。

いつもはお弁当だが、今日は自分にご褒美、ということで凪流とパスタの美味しいレストランに行く。

疲れたなぁと小さくため息をついた。

隣の凪流はニコニコしていた。

「あ!ねーねー!」

「ん〜?」

キラキラと効果音がしそうなほどの笑顔で凪流が私に話しかける。

「最近ね、イケメンを見かけるのー!あれって、私に惚れたのかな?だからあつぅ〜い視線を向けてくるのかな?最近、私、魅力アーップ?うふ、うふふふ、うふふふふふふふ」

「…とりあえず落ち着こう?」

鼻息荒く妄想しだした凪流を制し、言葉を続ける。

「イケメン見かけてよかったねー。

でも凪流に惚れてるとか熱い視線とか、凪流の魅力が上がったとか………妄想激しすぎてついに幻覚が…?」

「えー!ひどいー!」

そんなくだらない話をしているうちにレストランへ着くと、今日は意外に人が少なかった。

お昼時にはいつも待ち時間が長い、人気のお店なのに。

そう不思議に思いながら席に着いた。

「いらっしゃい」

自称25歳のふんわりと微笑む女性が接客してくれる。

「あの!今日、何かあるんですか?こんなに人が少ないことって、今までありませんでしたよね?」

「そうねぇ…」

女性は困ったように笑う。

2人の会話に耳を傾けながら、店内外を軽く見回す。

「……何か、事件か事故が?」

私が尋ねると、えぇ、と沈んだ声が答える。

ーーーーーカラン

お冷の氷が解けた。

「ここ最近、この辺にずっと立ってる人がいてね?」

私と凪流が注文し、料理が運ばれてくると、女性は近くの席に座り、話をしてくれた。

「うろうろしてるっていうか、本当にただ立ってるだけっていうか…。日が落ちるといつの間にか立っていて、どこかをじっと見てるの。それで、何時間もそのままの日もあれば、数分でどこかに行く日もあるのだけれど…。それがほとんど毎日でね?」

「えー…なんか、不気味〜。

見たことあるんですか?」

凪流がうへぇ〜っと顔を歪める。

「えぇ。帰りによく見かけるわ」

「どんな人ですか?」

「ズボンもパーカーも黒くて、フードを被っているからなかなか顔は見えないけれど…。フードの隙間から少しだけ見えた時は、とても綺麗な顔をしていたと思うわ」

「え!それって、もしかしてカワハラ株式会社前の路地ですか?」

「えぇ、そうよ。あなたも知ってるの?」

あぁ…これは…。もしかしなくても、これは…

「はるぅー!これは、私のストーカーにちがいないわ!」

ああっ!来たぁ! 凪流の妄想ぅ!!!

「はいはい。まぁ、凪流のストーカーかどうかはどうでもいいとして」

「え?いいの?」

「凪流が見た人と同一人物みたいだね」

「見事なスルーゥ!爽快!」

凪流も本当に自分のストーカーとは思ってないだろう。ケタケタと笑っていた。

その後、ゆっくりパスタを堪能し、会社に戻った。

雲行きが怪しく、帰りには雨になりそうだ。

会社入る前、あの女性と凪流が言っていた路地を横目で見た

誰もいなかった

風が吹く。

なんとなく、振り返る。

──ゆらゆら

視界の隅に、何かがゆらめく。

凪流が慌てて私の方へ手を伸ばすのが見える。

体がグラッと傾く。

ひどく懐かしい、誰かの笑みと、薔薇のような真紅が脳裏に浮かんだ気がした。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る