第15話 本当の"悪魔"

璃久が眠って30分ほどたった。

青かった顔色も、ずいぶん良くなっているように見える。

そっと立ち上がり、部屋を出た。

鬼逸はまだ幸架のところにいるのか、廊下は静まり返っている。

ふう、と小さく息をつく。

スタスタとそのまま歩き、玄関に向かった。

ドアノブに手をかける。

ここにいてはいけない。

それに、だんだんわかってきた。今の私に"価値"はない。

ただの一般人と変わらない価値しかない。

もし連れて行かれても、殺されても、"脳"だけ取られたとしても、何も"問題はない"とわかった。

とりあえず家に帰って必要なものを…。

いや、帰るのはよくないか。

繁華街へ行けば、誰か拾ってくれるかもしれない。女だし、見てくれは微妙だが、物好きが1人くらいはいるはずだ。それに賭けよう。

今夜はそれでどうにかしのげばいい。

その後のことは、その後考えるか。

ゆっくりと玄関の扉を開く。

薄く開いたそこから誰もいないことを確認して、通れる分開く。

「…え」

「…………」

そこには、無言でニコニコと機嫌のよさそうな鬼逸が立っていた。

「……………」

無言で見つめ合う。私はダラダラと汗が止まらなかった。そぅっと視線をずらす。

「どぉ〜こ行〜くの?」

「いや、まぁ、その?…おっ、おっ買い〜もの?みたいな?」

「へぇ〜?」

鬼逸は手ぶらで?とにっこり首かしげた。

なんで、この人わかったんだ。

鬼逸は壁に寄りかかり、足を交差させ、腕を組んで再びにっこりと笑った。

ふわふわ優男の格好のままだ。だが服は変わっている。

淡いオレンジのニットに、ダメージジーンズ。

「……さて」

寄りかかっていた場所から背を離し、私の目の前に歩いてくる。

彼の両手が私に伸びる。

目を覆われ、もう片方の手は私の首を絞め上げた。

片手なのに大きいせいで、細い棒を握っている程度の力でしか絞められていない。

それでも、私の気道は十分に圧迫される。

「い"っ……うっ…」

首に傷あるの、忘れられてるのか?

バタン、と玄関の扉が閉まる、

けっきょく外には一歩も出ていないまま逃亡は失敗に終わった。

「…そんなに怖い?」

「?」

ふっと首を絞められていた力が弱まる。

ゴホッゴホッとその場にうずくまり、咳を繰り返す。

「逃げ出したいほど、怖い?」

「……え?」

璃久と私の会話を聞いていたのか。

ということは、幸架の処置は早々に終わっていたのか?

どれだけ出際よくやればあれだけの出血を短時間で止められるんだ。

だいたい、足りていなかった血液はどうしたのだろう。

というか、この人はなんで長袖しか着ないんだろう。

こんな真夏に。

「ゴホッ…ゲホッ、…ゴホゴホッ」

鬼逸は自分で締めてきたくせに、私の背をさすってくれる。

ごめんとは絶対に言わないあたり、反省はしてないんだろうけど…。

ひょい、と持ち上げると、そのまま真っ直ぐ進み、突き当たりの扉を開いた。

1番広い部屋。

ベッドも、1人で使うには大きすぎる。

シンプルで、何もない。

ベッドにそっと寝かせられる。

男は、ベッドの淵に座った。

「…怖いです」

「…そっか」

「あなたはおかしい。誰がみてもおかしいです」

「ユウ、敬語。…そうだね」

切なげに瞳が細められる。

そっと私の頰に触れようと伸ばされた手が途中で止まり、引き返す。

そのままシーツの上に力なく落ち、彼の瞳もその手を追って伏せられる。

「……いいよ」

「……?」

「行って、いいよ。……逃げたいんでしょ?」

男が、シーツをぎゅっと掴んだ。

その手が、ほんの少し震えている。

「追わないから、行って」

「…あなたは、僕をどうしたいの」

「さぁ、ね」

「僕がいるから、鬼逸さんは"そんなこと"ばかりするんだと思ったたんだけど?」

「そんなこと?」

「兄さん。…僕をバカにするのも、いい加減やめてよ」

男の瞳が私の目に合わせられる。

揺れる瞳。

いつもよりほんの少し茶色味を帯びた、自然な色だ。

「…死にたいのは、僕じゃない。鬼逸さんでしょう」

「…………」

「…今までの鬼逸さんの行動見てて僕のためだと思ってたけど…。違そうだね」

「…………」

「僕のためにしてるなら、鬼逸さんは今僕を行かせようとはしない。僕がここから出て行ったら、…死ぬつもりだったでしょ」

フフッと男が笑う。

上半身だけベッドに横たえると、その頭がちょうど私の太ももに乗る。

「…俺がいつお前をバカにしたって?」

地声だ。機嫌も直ったのか、自信満々の余裕な笑みを浮かべている。

「悪魔って、存在すると思うか?」

「…本に出てくる悪魔はいないと思うよ。でも…目の前にはいると思うけど?」

男をジトーッと見つめる。

フハッと笑うと、今度こそ私の頰に触れた。

「俺が?悪魔?…フフッ…あはははッ!」

ついにネジが飛んだか?というくらい、鬼逸は笑った。

「俺じゃねぇだろ。本当に悪魔がいるなら、それは"お前"だ」

なん、だと…。

頭の中で作っていた今までの"仮定"を頭の中で再構成していく。

だが、相変わらずニヤニヤ笑っている彼の思考は読めない。

常に先を行く彼の行動。

未来予知でもしてるのか?と思うほどのその行動と対応力、知識と経験。

何か、まだわかっていないことがあるのか。

「…1つ、聞きたいことが」

「何」

「あなたは本当に湊さんじゃないの?」

「だから、"湊"って誰だよ」

やっぱり違うのか。

なんだ。この違和感。

「答えなくていいから、聞いてほしいことがあるんだけど」

「…………」

「気が向いたら、間違ってることは違うって言ってくれると嬉しい、な」

「………」

私の頰から手を離し、今度は手を触り、むにむに触ってくる。

それを眺めながら、話をして行く。

「…2年前、僕は橋の下で目覚めた。その時、僕にはそれまでの記憶が全くなかった。

でも、一般的な常識や知識はそのまま残っていたから、なんの不都合もなく就職することができた。

たまに何か思い出すけど、かなり断片的な上、機密情報なんかじゃなくて、どこかに出かけたりしている風景や、誰かの顔がぼんやりって感じだけ」

「……………」

「…それから推察すると、

僕は記憶を無くしたのではなく、デリート(消去)したのだんじゃないかって考えたんだ。

でも、コンピュータではない人間の記憶は簡単にデリートできない。そこで記憶媒体にとってのデリートとは何かを考えてみた」

「……………」

「人間は他のことを覚えなきゃいけない時、どうでもいいことを捨ててそっちを優先させる。つまり人間である記憶媒体たちが行えるデリートとは、上書きのことだ」

「…………」

「そして僕の中にあったらしい"情報"がデリートされたと考えるなら、何かで上書きされたはず。何で上書きされたかはまだわからないけど。つまり私は、組織に連れ戻されても、"脳"だけ引き抜かれたとしても役には立てない。もうすでに"情報"は存在しないのだから」

「………」

彼は相変わらず私の手をいじってくるだけで、特になんの反応も返してはくれない。

「僕と最後にいたのは湊という人物だ思う。それなら、デリートを行なったのは湊という人だ。でも湊は2年前に死んだって2人が言ってたし、実際そうだと思う。それなら、なぜ僕にデリートしたのか」

「…………」

「それは、湊にとって消されなければならないようなことを僕が知っていたからだ。それも何かはまだわからないけど…。でも、湊は僕に何か託したはず。そしてあなたにも」

「……………」

「…鬼逸さんの行動は、未来予知が出来なければ出来ないことばかりだ。あなたは、僕が今日ショッピングモールに行きたいと言うことを"知っていた"。

さらに、璃久さんと幸架さん、あとあの集団もショッピングモールに来ることも知っていたんだ」

「……………」

「出かける前にあなたは言った。なんで人が多い場所に行きたがるのかって。それなのに連れて行ってくれた。

さらに、フードコーナーで、幸架さんと璃久さん、あとあの集団が通る時。僕にそれを"見せるための位置"で座った。あなたからは見えなかったはずなのに、あなたは僕の言う通りにあの通路に向かって行った。その後どう見ても物騒な言い合いをしている2人と集団を見ている僕を、あなたは止めなかった」

「…………」

「そしてもう1つ。レイが来ないことを知っていた。それが、今日あったこと全てあなたが最初から知っていたと確信できる根拠だ」

「それで?」

彼は私の手をいじっていた動きが止め、私を見上げた。

「私からすれば、悪魔は"湊"って言う人ですよ。全部予測してあなたと私に託したんでしょう。しかも託したくせに念には念をとでも言うようにデリートまでした。

それなのに、あなたは"悪魔は私"だと言いました。つまり、私はどこかで間違っている」

彼は、楽しそうに嗤った。

──やっぱり、お前は悪魔だよ。

ギリギリ聞き取れたその声は、そう言っていた。その男の瞳は、一瞬だけ別な場所を向く。

この部屋のドア。廊下へ続くドアの方。

カチリと頭の中で何かの音がした。パンドラの箱を開けたような、そんな音。

"悪魔"は嗤った。


よっと、と鬼逸が唐突に立ち上がる。

ソファーにかけてあったパーカーを羽織り、フードを被る。

ほら、と手を出される。

「なんですか?」

「そろそろ口調もどして。あなた、じゃ他人みたいでしょ。そろそろ2人とも起きるよね」

鬼逸の声がもうふわふわ優男の声に戻っている。

男にひかれるまま、幸架が寝ている部屋に行く。そこには璃久も幸架もそこにいた。

2人とも起き上がっている。

「…兄さん。あれだけ出血してた幸架さんが、こんなに早く意識戻るなんて…。一体どうやったらそんなことできるの」

「ん〜?企業秘密〜」

相変わらず彼はは人間離れしてる。

どうやったらこんな人間生まれてくるんだよ、というツッコミは頭の中だけにしておこう。

「…この度は、助けていただいたこと感謝いたします」

幸架と璃久が、床に跪き、頭を下げた。

「…このご恩は必ず返させていただきたく思います。…何か、私たちにできることは、ないでしょうか」

2人の肩が小さく震えている。

それを見ている男の顔が冷めていく。

「なんで俺に頭下げてんの。君たちを助けたのは俺じゃなくて、ユウ」

「は?え?」

2人は困惑した顔でお互いの顔を見ると、私の方へ視線を向けた。

私も意味がわからなくて鬼逸を見上げた。

「ユウ。君が俺にこいつら助けろって言ったんじゃん」

「え。いっ、言った?あれ?」

彼は私が行こうとしたのかってに行っただけだった気がするのだが。私の気のせい?勘違い?

「だからー、君たちが恩を持つ相手は俺じゃなくて、ユウの方。幸架君の治療だってユウが頼んできたからやったことだし、璃久君の治療したのもユウでしょ」

あ。璃久に触ったのバレてる。

あ…あぁ……鬼逸さんの顔が、……黒いオーラ出てるよ…。

「あ、の…」

「だから、俺じゃなくてユウに言ってよー」

彼は少し不機嫌そうに顔を顰めた。そこで幸架と璃久は私に向き直る。

「ユウさん」

「い、いや、敬語じゃなくていいですし。

というか恩なんて、何も…かってにやったというか、頼まれてもいないことしたというか…」

「そうそう。ちなみに俺はユウからご褒美もらうから、気にしないでー?」

ちょっと待って。聞き捨てられない言葉が聞こえたのだけれど。

「兄さん…。なんて言ったの?今」

「え?もしかしてなんの見返りもないと思ってたの?」

「…別な、ものに、してくれると…」

「んーー?」

「…はい」

私がしゅん…としていると、途端にブハッという2人分の笑い声が聞こえた。

「「…スミマセン」」

私と彼の会話を聞いていた2人が、肩を震わせて笑いをこらえようとしている。

もしここでピッタリな効果音があるとすれば青ざめた私の顔がアップになって、チーーン…と鳴っているに違いない。

「……いいんですよ。…笑ってくださっても、全然構わないです…」

「い、いやっ…フフッ」

「あはははははははははッ」

「璃久さん…ブフッ」

幸架が、笑いを止められない璃久を見て頭を抱えている。

しかし幸架さんよ。君も笑い、堪えられていないのだよ…。

まぁ、私のポジションなんて、こんなもんよね。とほほ。はぁ…。

「…お二人さん。とにかく今は体を早く治すために休んでください。それからのことは、その後考えましょう?」

「あ、そのことなんだけどー」

ずっと笑っていた璃久が笑いを止めて私の方を見る。その表情はさっきと一変して真剣だ。

「俺ら、探さないといけないやつがいる。

でも何もあんたに借りかえしてねーし、幸架は傷だらけだから置いてく。幸架をもう少し頼めねーかな」

「何を言ってるんですか!私も行きますよ」

「ダメだ」

「璃久さんっ!」

「…………」

必死な2人。

探さなきゃいけない人、か。誰だろう。

…ん?

「…それって、レイさん?」

「なんであんた知って…」

「それなら、僕に心当たりがあります」

「っ!ほんとかっ!」

「はい」

私はニッコリ笑った。

さっき彼と話してわかったことがあった。

そう。この男の弱みを握るチャンスだ。

このくらいの仕返しはしてもいいだろう。

今こそ、復讐の時。

ハッハッハッハッハーー!!

ついに!ついにきたぜ!せいぜいイケイケな顔でアホヅラ浮かべておくれ!

「どこにいるっ?」

「教えてください!」

「はい。ここに」

こちらです、と両手を隣の人物に向ける。

最高の笑顔を2人に向けて。

彼はあの場にレイが来ないことも、ここにいない不自然さも感じている様子がなかった。さらに変装が得意で、あの集団を跳ね除けられる実力。夜仕事していた──幸架が情報、璃久が下見、実行役はレイがしていたと私は推察している──レイの特徴と一致する。

指された本人はあらぬ方向を見ている。

なんのこと〜?みたいな顔で、ほんの少し汗を浮かべて。

2人の目は点になって、私が指している人物の方へ、ギギギギギッと顔を向けた。鬼逸も同じように私をジト目で見つめてくる。

「「「「………」」」」

あれ?何、この空気。

「…ねぇ。ユウ?」

あぁ…見たくない。そっちを向きたくない。いやだあぁ!!!

「……あとで覚えてろよ」

耳元に響いた、死刑宣告。

完璧地声に戻っていたそれは、私の耳以外には届いていないらしい。2人はまだ驚愕の視線を鬼逸に向けている。

「えっ…ぁ…え?」

「あの…っえっと、その」

しどろもどろになっている2人。青ざめたまま苦笑いになっている私。明らかに雰囲気が黒くなった彼。

異様な光景である。

「……はぁ。はーい、レイさんでーす」

鬼逸は高めの優しい声で一言告げ、男が髪を掴んで変装を剥がした。

その下には、泣きピエロの化粧がされた顔があった。

璃久と幸架は、鯉のように口をパクパクさせている。

「……璃久、幸架、大丈夫?」

ふんわりと優しげなレイの声が、鬼逸の口から発せられる。

「単語…その声…うそ、だろー…」

「え…レイ?え?…え」

2人が落ち着くまで、2時間必要だった。


「確認、させてください」

「……………」

ソファーで踏ん反り返り、足を組んでいる鬼逸。その向かいのソファーで2人並んでカチンカチンになって座っている璃久と幸架。

私は男の傍の床に座って、片手は男に握られたままの姿勢だ。なぜ私だけ床なのか。

「あなたは、"影"の一員で、鬼逸さんで、レイ…って、ことですか?」

「さぁ?」

「そうですよ」

「…ユウ」

鬼逸の見た目はまたふわふわ優男の姿に戻っている。声はレイの声のままだ。

こいつ、嘘つきだし、私が代弁してやろう。

うへへ。ざま〜見ろ、イケメン!

そんな綺麗な顔してるからボコりたくなるのさぁ!!そのイケメン顔を、今こそたっぷり歪めたまえ!

「…イケメンって思ってくれてるあたり、全然痛くもかゆくもないけど?」

いやいや。

それはそれは今まで散々に抱かれてきたんだ。

これくらい許してもらえるさ

「なんの根拠持って許されると思ってるわけ?」

根拠も何も、私が彼の嫌がってる顔とか見れたら優越感に浸れる。心は自由さぁー!何思ってもいいんだから!してやったり。

ついに、私の番が来たー!

「へぇ…つまり、心の自由から奪ってやらなきゃ意味がなかったわけか」

「…あれ?」

目の前の2人が固まっている。

私を遠い目で3秒見たあと、御愁傷様とばかりにその手を形作る。

そのまま目を閉じ、黙祷された。

……え?

これは…

これは…。私の人生、オワタ……?

「…僕、声に出してましたか?」

「いや?」

「…あれ?」

「ユウ、俺をなんだと思ってるの?」

何って…。

「言わなくても、わかりますよね?あなたは、僕と2人を助けてくれた心優しいお方ですよ?」

「へぇー。そっかぁ?…鬼畜イケメン悪魔野郎、だっけ?

無駄に綺麗な顔してやることえげつねぇよ

見逃せよ

ここは聞かなかったことにしようよ

って言うかなんでわかるの?

やめてー!言わないでー!

いーやー!

…とか思ってるんでしょ?」

うわ…。マジか…。

って、私の声で私の心の声を再現するのやめてほしい。

え?じゃあ何?今までの全部…。

「そ。丸わかりー」

いやー!!!!!

歪んだのは、男ではなく私の顔でした。


「ゴ、ゴホン。その、少しお話しをさせていただけますか?」

「あー…。どーぞー」

撃沈している私の頭を撫で続けながら、鬼逸が幸架の問いに答える。

「その…俺たちは、"影"の人間たちとって不都合なことを知ったりしてしまったんでしょうか?」

「なんで?」

「その、…」

「零として近づいたのはなぜか?それはまぁ気まぐれかな。暇で歩いてたら暇つぶし出来そうな現場が目の前にあったから手を出したってところ。

助けた後も一緒に動いてくれたのはなぜ?使えそうだったから。

"影"達に喧嘩を売ってしまったのだろうか?

知らない。

というかまず"影"って何?ってかさー、早く終わらせたいからさっさとちゃんと喋ってくれないかな」

言う前に答えられるなら答えてあげればいいのに。

これだから鬼畜悪魔(イケメンって思うとバレるから思わないようにする)は怖がられるんだ。

「ユウ、無心になれない?」

「…僕は僧侶じゃない」

また悟られた!今私の方見てなかったじゃん!なんで!

と思っていたら鬼逸に思いっきり頭にチョップをお見舞いされた。

…痛い。頭割れる。

「無心になれなくても努力しよ?」

「…はい」

はぁとため息をつき、鬼逸は私の頭をガサゴソといじり始めた。

「で?何聞きたいの?…何も答えるつもりないけど」

何も聞けないやん。アホかこいつ。

…あ。

ふっと顔を上げると、男がにっこり笑っている。

「……ハル」

バサッと私のウィックが外された。

それと同時に首元でカチッと音がする。

この人、すごい器用だな。

痛みもなくお団子にされていた髪も一緒に解け、いつもの自分の髪が目の前に戻ってくる。

「「え…!って……は、はる、か?は?」」

息ぴったりの動揺ぶりで、璃久と幸架は困惑している。

「なんか、もう、今日は疲れました…」

頭パンク寸前らしい幸架が、頭を抱える。

彼はそのまま私の化粧を落とすと、「はい、おわりー」と言った。

「………あの」

自分の声に戻っていた。

おぉ〜。

今日は長い一日だったから、ずいぶん久しぶりに自分の声を聞いた気がする。

「ハールー」

「なんですか?」

「…敬語もういらなくない?」

「だって、もうやらなくてもいいじゃないですか」

「えー」

鬼逸は不満そうだ。ぷくーっと頬を膨らませている。その姿だから許されるのであって、いつもの凶悪イケメン悪魔面でやっていたら爆笑ものだ。

「あなたはなんで戻さないんですか?」

「面倒だし」

「作る方が面倒では?」

「俺のことはハルが知ってればいいのー」

そういって彼は変装をとかなかった。

意味わからん。こいつの頭は常にお花畑か。フワッフワなのか?綿毛しか飛んでない花畑か?あまーいこと言ってるように聞こえるけど、私からすればセックスの時くらいしかこの人の素顔見たことないんだけど?

「セックスで素顔なら別に良くない?」

「「セッ……」」

「…口に出さないでくださいよ。心に留めておいたのに」

「えーっと。あんたの体の傷って」

「…御察しの通り、全部この人です」

「うわー」

ドン引きだよね。

璃久と幸架の引き攣った笑みに私も激しく同意だ。

ほんと、私もドン引きだよ。よくこーんなにできるよね。この前聞かされたけど、この人誘われることは多くてもヤる前に逃げられるらしいし。

そんなに下手なんですかね。それとも、イかされすぎるんですかね?いやいや、もしかするとこの異常さがなんとなくわかって怖くなるんですかね。

どちらにせよ、逃げられるって笑。

「…ハル」

「…はい」

あ、これは死んだ。私の心の声バレてたことすっかり忘れてた。

「よく俺に喧嘩売れるよねぇ」

鬼逸はにっこりと笑う。私は死刑宣告をされた気分だった。

するとそこで璃久がおそるおそる話しかけてくる。

「……あんた、何考えてたのか俺らには全然わかんねーけど、すごいな。この人に喧嘩売って生きてるやつなんていないぜー」

「そうそう。生きてるかどうかもわからないし、さらに生きてたのかどうかさえわからなくなりますよ。自分にも、知り合いだった人にも、ね」

…え?この人、本当に悪魔だったんじゃん。なんでそんな危険な人が私で性処理してんの?

待て。待てよ…。

普通だったら、奏多の部屋で会ったあの時?無理やりヤられたあの日…。

殺されても当たり前なことをした気がする。たしか、仕返し、とか言って噛み返した気がするんだけど。

「俺が優しくて、よかったねぇ?」

鬼逸はにっこりと私に微笑みかける。やっぱり怖い。

沈黙が流れる。

そのまま緊張した空気は続く。

ふと時計に視線を移すと、いつのまにか23時になっていた。

何か、食べられるものを作ってこようか。

立ち上がろうとした時、男が口を開いた。

「湊ってやつのことだけど」

2人がバッと顔を上げる。

1つでも聞き逃さないと、その目が伝えてくる。

「2年前に死んだって噂された殺人鬼のことって言ってたよね?」

「えぇ。遺体も見つかっていません。

でも、大量の血痕とそれを実行したらしいやつからの伝言は壁に書いてありました。後日改めて来ようって、写真撮って、遺留品がないのを確認してその日は帰ったんですが…。

…翌日来た時、そこは新品の部屋みたいになってました」

「…家具や遺留品どころか、血痕さえ跡形も無くなってやがった」

「…………」

話しながら、2人が悔しそうに拳を握る。指が白くなるほど、強い力で。

「でも、遺体は見つかっていません。死体清掃や収集をしてる組織も回ったけど、湊さんは回収されてなかった」

「あれだけの血痕が一晩で消えたんだ。どっかの組織がやったとか、単独犯がやったとか、そんなことはありえねー。処理知識に長けていて、さらに短時間でできるとしたら、その手のプロだけということ以外考えられない」

「でも、湊さんの遺体は骨一つ出てきていません。もともと何もわからない人だったけど、そういう人の処理をしたという目撃も引受先もありませんでした」

「だから、湊さんはまだ生きていると、俺たちは思ってる」

じぶんを落ち着かせるように、2人は目を閉じ、深呼吸をした。

「でも、あれから何度調べても、何も情報が出てきません。湊さんがフリーランスキラーとして存在したことは確かなのに、湊さんが生きていた証拠一つ出てこないんです」

「1年経って、俺はもう何も見つからねーって諦めることにした。でも幸架が、湊さんは絶対生きてるって俺の話聞かねーし。仕方なくこいつに付き合ってやってるけど…。やっぱ何も出てこねーんだよな」

「なるほど?」

2人が、真剣な顔で男を見つめる。

男は、そんな2人をくだらないとでも言いたげに見つめ返していた。

「湊が生きてるとして、君たちは会ってどうしたいの?」

「どうっ、て…」

「……そんなもん、決まってんだろ」

「そうですね。私たちは、湊さんについていきたいってエゴで、かってに探し回っているだけなんです」

「見つけたら、あの人が嫌だっつってもついていく。意地でも、今度こそ湊さんを俺たちが守るんだ」

「……」

鬼逸は何も言わない。答えない。

空気が凍る。重くて苦い。

彼が、すうっと息をはいた。

目を少しは伏せ、何かを考えている。

その目が、2人に向けられた。

唇がゆっくりと動き、しっかりと空気を振動させて言葉を紡ぐ。


「結論から言うと、湊は死んでいる」


2人の目が見開かれた。

悔しそうに目を細め、俯いた。

耐えきれずに溢れた涙が、彼らの握られた拳に落ちて行く。

「だ、れがっ!」

「誰が殺ったか?それはまだ答えられない」

「なんで!」

「言った後の君らの行動なんて簡単に読める。

言わなければ、唯一知っている俺から君たちは離れられない」

「離れられないって…。俺たちをどーするつもりだ」

「話聞く気あるわけ?」

「ちゃんと聞いてるだろうがっ!」

「俺は言ったはずだよ。"結論"から言うと、って」

「……っ」

「……璃久さん。座ってください」

幸架は比較的まだ冷静なようだ。立ち上がって激昂する璃久を宥め、再びソファに座らせる。

「…わーったよ」

今にも殴りかかりそうだった璃久は、ソファに座った後両手を固く握りしめ、それをじっと見つめていた。

それを見て、退屈そうに彼が私の首に顔を埋める。

「俺、別に悪意とかねぇし」とボソッと地声でつぶやいているのが聞こえる。

拗ねてる拗ねてる…。

よしよし、とその頭を撫でた。

それに、鬼逸は満足げに目を細める。

この人のことは今でもよくわからん。

「……湊は死んでいる。でも、その男は存在している」

「………は?」

「どういう、…」

「言葉のままだよ。2年前湊は死んだ。でもその男は存在している」

2人は、何やら考え込む。

「遺体の場所、教えてやろうか」

「本当か!」

「これから言うこと聞いてくれれば、だけど」

「…交換条件ってわけですね」

「…なんだ」

「……………」

緊迫した空気が流れる。

私も彼の言葉を待って静かに待つ。

「腹減ったから飯食ってからにしたい」

「「「……………」」」

まて、まてよ?まてまてまてまて。

幸架が困惑した様子で視線を彷徨わせ、鬼逸に問いかける。

「……鬼逸さん」

「んー?」

「それは、条件の話を、ですか。それとも、今のが情報を渡す条件ですか?」

「今のが情報を渡す条件だけど?」

相当お腹減っていたらしい。でも条件にするほどお腹減ってるのか?この緊張した空気からのぶち壊し度合いがすごすぎる。

「…そんな顔してるけど、飯食ってないし風呂入ってないしご褒美お預けだし、最悪だよ。もう日付変わるじゃん」

彼は完全に拗ねていた。今日頑張ったじゃん俺、と言わんばかりだ。

私は静かに小さなため息をつくと、立ち上がった。

「…ご飯、作ってきますから、待っててください」

「あ、私も手伝いますよ」

幸架が小さく手を上げて手伝いを申し出てくれた。私はそれをありがたく受け取ることにする。

「あ、それじゃあ璃久さんと鬼逸さんは休んでてください」

私はそう一声かけてキッチンへ向かう。

「…ん」

「…わーったよ」

気まずそうな2人だが、なんとかなるだろう。私と幸架さんで夕飯を作りに行った。


〜・〜


鬼逸は、2人がキッチンで料理をしている姿をぼーっと眺めていた。

正面にいる璃久は気まずそうに目線を必死で晒している。

「…頼みがある」

「………は…?」

2人に聞こえないよう、静かに声をかけた。

突然声をかけられたせいで璃久はギョッとしているようだが。

「頼み、だから別に強制じゃない」

「んだよ」

「…もうすぐ、全て終わる」

「全て?」

「そう。でも…」

ハルが笑った。

幸架と何か話しながら料理をしているようだ。

話している内容はだいたい予測できているから気にしない。

ハルは俺に笑わない。笑いかけない。

たまに笑みを浮かべるが、あれは笑顔じゃない。

今の笑顔もそうだ。

頭がいいハル。

本当は、記憶がなくたって。

"彼女なら"1ヶ月あれば、持っていた情報よりさらに多く掴めただろうに。

「…このままじゃ、失敗する」

「失敗って…」

「だから、ハルにバレないように、幸架に伝えて欲しい。それと、ハルにバレないように動いてほしい」

「あいつにバレないようにって…。素人だろ。

以前組織にいたっつっても、記憶媒体は記録に長けているだけでそのほかはからっきしっつーか。

他に意識飛ばせるほどよゆーない教育を受けるせいと心を抜く作業をしてるせいで"考えて行動に移す"なんてできねーって聞いてるけど」

「"忘れてるの?"ハルは000だよ。なんで今の組織がハルを探してるか、わかってないな」

「…は?」

「ハルがいなきゃ、あの組織は何もできない。

あの組織が恐れられていた理由は、組織が優れていたわけでもない。

──悪魔を監禁していたからだ」

「……悪魔?」

ハルと目があった。

なに?た首をかしげてみせ、にこっと笑って手を振る。しかしそれは彼女に"あー、嘘くさい笑い方だなー"と言う顔をされて晒された。

…やばいな。

勘付かれたか。

「…ハルにバレたから、この話はまた後で」

「…悪魔?…ハルにバレる?」

たった一度の失敗もできない。

大丈夫。

──俺にならできるはずだ


〜・〜


何にしようか?と幸架と話し合い、もう時間も遅いし、雑炊にしようと決める。

怪我人が多いし、男性の割合が高いので鶏肉を入れることにした。

「…ハルカさん?」

「呼び捨てでいいですよ」

「あぁ、えっと。ハルカ、突然いなくなったのでけっこう探したんですよ。まぁ、鬼逸さんが常人じゃないのは俺も璃久さんも感じてたし、思ったように動けなかったんですが」

「心配してくれてありがとうございます。体以外は無事です」

「…体が無事じゃなかったら無事とは言えないと思うんだけど」

あはは…と言いながらチラリと鬼逸に視線を移すと、目があった。

にこっと笑って手を振られる。

あー、嘘くさい笑い方だなー。

何か文句つけられる前に見なかったふりをしよう。

そう、私は何も見てない。何も。

視線を鍋に移してご飯と水を入れ、火にかける。

その間に大根と人参を切る。

鶏肉はさっき茹でておいたのを細かく裂いていく。

「幸架さん」

「何か失敗した?」

「いえいえ!それは大丈夫ですよ。ただ、一つお願いがあるんです」

「…お願い?」

「はい」

「…ハルカにはたくさん恩がありますから。

いいですよ。私にできることなら」

「ありがとうございます」

幸架がふっと笑った。私を信頼しているのだろうか。

その笑みを見ながら、ポツリと願い事をつぶやく。

幸架の目が大きく見開かれた。

バレないように、鍋から目をそらさずに私も幸架も自然に振る舞う。

さすが、"訓練"してきただけはある。

ふふふっと笑って幸架を見る。

それにしても、鬼逸より信頼されてる感じが出ているのは、なんというか……優越感がある。

イェーイ!勝った!初めて勝った気がする!

「ハルー?」

後ろから声がかかった。

予想していなかった呼びかけで、大げさに肩を揺らしてしまう。

恐る恐る振り返ると、ソファーに座ったままの鬼逸から無言の圧力がかけられた。

「…なんでしょう?」

「明日から女の子の日だもんねぇ。今日は辞めておいてあげる」

「……」

なんで女の子事情を私より知ってるんだよ。

変態ではないと信じたかったけど、やっぱり変態に違いない。

というか声が大きい!

「さすがにそこまで思われるとムカつくよねぇー?…女の子の日が終わったら、遠慮しないから」

ねっ!(♡)みたいな顔で鬼逸は言ったが、女の子の日が終わってすぐか…。

こいつから逃げるのは無理なので、逃げるのを考えるのは諦めよう。

それより、どうしたら避妊してくれるかを考える方が有意義な時間を過ごせること間違いない。

「はぁぁぁぁ」

「…鬼逸さん、すごいね」

「ほんとですよね。人間の発情期は、しいて言えば一年中らしいのですが、あの人は規格外だと思います。あの人は絶対人間じゃないと思います。本当に、ほんとーに、ほんとーーーーに」

「あはは…」

幸架が苦笑いした頃、雑炊が出来上がる。

私は器を持って、幸架は鍋を持って2人の元へ行った。

「おー」

璃久が感動している。

それを見て幸架が嬉しそうに笑った。

兄弟みたいだなぁと思いながら、微笑ましいその光景を覚えていたいと思った。

私は男の隣に座った。

座った瞬間にぺったりくっつかれるが、食べにくい。

「………食べにくいんですが」

「気のせい気のせい」

「いえ、現在進行形で実感して食べにくいです」

「錯覚だよ」

「…………」

幸架と璃久の2人がクスクス笑って見ている。

いや、笑ってないでなんとかしておくれよ。

テレビはついていないし、それ以降会話もない。

静かすぎるので、会話を振ることにした。

「どうしても気になることがあるんですが」

「んー?」

「鬼逸さんが紅茶に睡眠薬を盛った方法です」

「「あ」」

フーフーと息を吹きかけ、少し冷ましてから口に入れる。

口に入れてから、気づいていなかっただけでお腹が減ったいたのだと気づいた。

「鬼逸さんかレイだったと聞いた今なら、いくつか考えられますね。あの日、鬼逸さんは紅茶と指定してきたから、茶葉だったんじゃない?」

「…いや、それはねーよ。紅茶って言っても何種類もあの部屋にはあっただろ。どれを選ぶかなんてわかんねーし、全部に混ぜてたらさすがに気づかないはずねぇー。

カップはどーだ?カップの淵に全部にあらかじめ塗っとけば、どれが誰に当たっても問題ねーだろ」

「いや…。いつ使ってしまうかわからないカップにそんなことしますかね。

だいたい、あの家にカップは大量にありましたし、仮にカップに塗ってあったとしても、洗って流れてしまう可能性だってあります。どのカップか指定しないと厳しいと思いますよ。あの日カップの種類は指定されなかったから、カップではないはずです」

幸架と璃久の話を聞きながら、私も提案する。

「…そうなると、ティーポットですかね?」

そうすると、幸架がそれにすぐ答えてくれた。

「あの家のティーポットは毒物対策にそこに歪みがなく透明度の高いものを使っています。

そうなれば、何か内側に塗ってあればお茶を入れる前に私が気づいたはずですよ」

「…詰んだー」

3人で項垂れる。

「……わからない」

「……うーーん」

3人であれやこれや考えてみるが、わからない。そこで鬼逸のクスッという声が聞こえた。

「「「……」」」

3人同時にイラついた気がする。

笑いやがったぞ!必死で考えてるのに。

「あの日、何か他に触れたりしましたか?それとも、幸架さんか璃久さんが意図的に入れたとか」

「だったら自爆しませんよ。触ったものならたくさんありますが、茶葉もポットの内側もカップの口をつけそうな場所も触っていません」

「…ほかに、絶対に仕込めて、バレずにすむ場所てーとどこだ?」

「「「うーーーーーーーーーん…」」」

クスリとまた鬼逸が笑った。

また笑いやがった。

3人で、ヤケになって雑炊を食べる。その間も、ずっと男は笑い続けた。

本気で顔面殴りたいんだけど。

「…間抜けだねぇ」

なんだとー!

「そこまでわかってるなら、残ってんのは一つしかないと思うけど?」

一つ?

あと一つ忘れてる?

なんだろう…。

ヒントをもらったが、わからない。

「幸架さん。他に何か使いました?」

「うーん…ポットに茶葉入れて、お湯入れて、蒸らして、カップに…」

「「「…あ」」」

一杯しか食べていないのに、もういらなーいって感じの男は、どこから持ってきたのわからないナイフで遊んでいる。

その余裕が腹立つ。

「やっとわかった?」

「…茶こし、ですか」

「盲点だったな…」

「確かに、塗られてもそれじゃ気づかねーわ」

あの家にあったポットは、お湯に茶葉を直接入れるタイプしかなかった。

茶こし付きのポットがなかったのだ。

いくつかあるポットにたいして、茶こしは一つしかなかった。

細かい網になっている茶こしに塗ってあったとしたら、気づかないのも無理はない。

「…なんか、全然スッキリしないんですが」

「そうなの?せっかく答えがわかったのに?」

ふふふっと可愛く笑っている男。

確かにお前の顔は可愛いけどなぁ!中身は別だよ!!!

完全にヤラれた…と璃久と幸架もうなだれている。

1人、楽しそうに男が笑う。

こいつがイケメンじゃなかったら、ほんの少し許せていたかもしれない。

……いや、それはないか。

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