第33話
「瑞月、久しぶりだね」
紗幕をくぐり中へ入ると、息がつまった。げっそり痩せ細った浅葱が力なく笑んでいる。以前にもまして体調の悪そうな彼を、隣に寝そべる白い着物姿の楽器・白煙が、心配そうに眺めている。白煙は視線をくれたが、すぐに浅葱のほうへ向きなおった。そうしたくなる気持ちがこの場にきてよくわかった。
──今にも死んでしまいそうだ。
目を閉じれば消えてしまうのではないか。すこしでも離れれば会えなくなるのではという恐怖を、今の浅葱の容貌は呼び起こさせる。死が彼のすぐそばに控え、看取る隙を狙っている。紗幕のうちには楽器・白煙の怯えと、浅葱にまとわりつく倦んだ気配が満ちていた。瞬いた浅葱の目には、けれどしっかりとした光があった。強い意思が壊れかけの肉体のなかで憤っている。肉体の疲弊を振り払うように、浅葱の声は力強かった。
「瑞月も三桟代に選ばれたんだろう。君の舞台には驚かされたけど。まさか組手を入れ替えるなんてね」
くすくす笑う浅葱にほっとする。話すと表情が動き、彼がまだ生きているとわかる。
「ごめん。浅葱の舞台は観られなかったんだ。観たかったのに……白煙と舞ったの?」
「そう。今度はうまく舞えたよ。おかげで今はこのざまだ」
面目なさそうな白煙の長い白髪を、浅葱は指でもてあそんでいる。穏やかに吐息にのせて、浅葱は囁くように言った。
「もし君が、大鬼の儀に出るように言われたら。僕が代わってあげる」
「それは」
「嫌だろうけどね。まあ聞いてよ」
僕は死ぬ──。吐き出されたその声は、宙にしばらく漂っていた。白煙の怯えを濃くさせ、寝台の上に絶望が染みつくようだった。浅葱の心に恐れはない。動かしがたい事実として、死をすでに受け入れている。
「でも瑞月、君には未来がある。このままうまくいけば──大鬼の儀に出なければ、君は外へ出られる。だから君が選ばれたら、辞退すればいい。大鬼の儀には僕が出る」
「必要ない。大鬼の儀に出ても、死ぬわけじゃないだろう」
「どうかな。……銀朱から聞いたよ。鈴が落ちてからずっと、部屋にこもってるんだって? 夢魔に怯えて、まともに外も歩けないらしいじゃないか。そんな状態で大鬼に向き合って無事でいられると思う?」
「っ、舞台のためなら、命をかけても構わない」
「君が恨めしいよ」浅葱は微笑んでいた。「死に抗えない人間の前で、死を望むというの? 君は、紫微の気持ちを考えたことがある?」
「……考えたって、どうしようもない」
浅葱は瞬きだけをかえし、視線をそらした。
「僕はずっと考えていた。もし至高の舞手に選ばれたら、望みを叶えてもらえる。大鬼の儀に出る前に、主上に直接会えるらしいんだ。何を望むか、そのときに伝えるんだよ」
「直接、主上に……?」
想像したこともなかった。院へ入るとき、至高の舞手になれば望みが叶うと聞いた。まさか直に主上に会えるなんて思ってもみなかった。黙って話を聞いている白煙の髪を、浅葱はぼんやり梳いている。
「僕は銀朱を望むつもりだった。本人に告げたことはないけど──一緒にここから出ていきたかったんだ。もし至高の舞手に選ばれたら」
至高の舞手に選ばれれば、富、名誉、望むもののすべてが得られる。何を望むかと問われた日のことを思い出した。自分の望みは覚えている。それは今でも変わらない。たとえ命を落とすことになっても、変わらないだろう。じっと見つめてくる浅葱の視線を感じた。
「君は、いつも舞台のことだけを考えているね」
「俺は……今になってすこし後悔しているんだ。結局これまで、自分のために舞ってきた。主上のために舞台に立ったことは、一度もなかった」
はじめての銀朱との舞台は、紫微への気持ちを表現したものだった。その次の清光鴻との舞台はやけくそだった。紫微への反発でしかない。これまでの舞台を見て、主上はどう感じただろう。あの大広間の二階の席で、いつも見てくれていたのに。
「もし俺が選ばれたら、今度こそ主上のために舞いたいんだ。そのために俺たちは鬼王院へ集められた。そうだろ?」
ずっと舞台を見守ってくれていた主上──大広間の目隠しをされた二階席。そこに主上がいると聞かされていたから、これまで舞えていた気もする。失敗しても誰かはそこにいる。はるか高みであざ笑われていようが、超然とした場所で鑑賞するものがいる。だから舞台に立ち続けてこられた。
「……知らなかったよ。君がそんなに馬鹿だったなんて」
浅葱の声はうんざりした風だったが、案じるような感情が伝わってきた。鈴が落ちてから、周囲の感情を簡単に読み取れるようになった。視覚と同じぐらいに鮮明にわかる。浅葱は自分の感情が伝わったことに気づき、眉をひそめていた。
「失望するかもしれないよ。君の考えているような存在ではないのかも」
「君こそ、銀朱に聞いてみたら。断られるかもしれないのに」
浅葱は笑ったが、大きな動揺の波が空気を通し伝わった。いま彼が一番恐れているのは、死ではない。銀朱を失うことだ。ひょっとしたら、銀朱に伝える気はないのかもしれない。至高の舞手に選ばれたら、銀朱の意志に関係なく望みを通して、ここから連れ出そうと考えているのではないか?
黙っていろと、浅葱が視線で念押ししてくる。考えが読めるのは浅葱も同じだ。桟代になった者は全員、鈴が落ちている。心を読もうとすこし感覚を伸ばしただけで、他人の感情や考えが手に取るようにわかるのだ。
浅葱は息をのみこんだ。紗幕をめくり顔を出したのは銀朱と、ひどく青ざめた顔の紫微、それからいつの間に来ていたのか、黒子がひとり立っていた。
「失礼いたします。協議が終わりましたので、お伝えに参りました」
両袖を合わせる礼をして、黒子がこちらへ向き直る。
「おめでとうございます、瑞月さま。至高の舞手として、大鬼の儀に選ばれました」
誰もなにも言わない。互いを視線で窺うだけの沈黙が落ちる。
紫微をみると、金色の瞳が「断れ」と強く念じていた。
──断れ。そうすれば浅葱が引き受ける。
「……ごめん」
謝った瞬間、紫微の心の絶望が深くなる。浮かぶ失望を見たくなくて、黒子にしっかり頷いた。黒子は一礼し、「では」と言葉を継ぐ。
「ご案内いたしましょう」
「どこに……?」
「瑞月さまを主上がお待ちです」
心配そうな銀朱に見送られ、黒子に案内されて着いたのは、埃っぽい蔵だった。鬼王院へ入った最初の日にひとりずつ通された蔵だ。扉を開けると、以前と変わらぬ暗がりにずらりと楽器が並べられている。前に来たときには奥に小さな祭壇があった気がするが、暗くてそこまでは見通せない。
「ここからは瑞月さまだけです」
一緒についてきた紫微が眉をつりあげる。
「おい、どういうつもりだ。ここに何の──」
「楽器は下がりなさい。瑞月さま、どうぞ」
まだなにか言おうとした紫微を「大丈夫」と視線で遮った。紫微は心配してくれている。この中にいったい何があるのか、訝しんでいる。痛いほどの紫微の不安を感じたが、迷わず暗闇へ踏みこんだ。すぐに扉が閉められた。黒子が手燭に明かりを灯し、先導して歩いていく。
壁際の棚には、ありとあらゆる楽器が天井まで並べられていた。琵琶、筝、三絃、太鼓、笛……布をかぶせられた大きなものや、一見して何の楽器かまったくわからないものもある。
「地下へ降りていただきます」
手燭で照らされた小さな祭壇を黒子がずらすと、下へ伸びる階段が現れた。真っ暗で黴くさい段を、後ろについて降りていく。一番下に鋼鉄の扉がみえた。重く軋む音とともに黒子が扉を開き、まばゆい光が漏れる。まぶしさに視界が白く覆われた。
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