第13話
浅葱たちのいる舞台から離れた位置へ移動した。空いている舞台にのぼり、銀朱がまず告げたのは曲のことだった。
「『
「知らない曲だな」
「そりゃそうさ。ここで使われるのは秘曲なんだよ」
銀朱は「まず音を聴かせる」という。曲を知らなければどう舞うべきか、足運びすら思いつかない。けれど、音だけで動きを決めるというのも妙な話だ。
舞曲には、その意図するところや物語、時代背景がある。普通なら、それらを知らずに舞うことはできない。たとえば悲恋の曲なら、誰がどんな場所にいるかを知る必要がある。戦曲の場合には、時代背景や歴史、人物に関する解釈も行う。大量にあるはずのそれらの情報を、銀朱はたったひと言で済ませてしまった。いわく、『孤宝』は「主上の孤独と悲しみを謡った曲」だと。曲の背景は「聴いて理解しろ」で終わりだ。舞台の隅に立った銀朱は、照れくさそうに頬をかく。
「おいら、紫微みたいにはうまくできないけどさ──」
トン、と軽い鼓の音がした。次の瞬間、周囲が真っ暗闇になった。
「えっ?」
塗りこめた黒の中に閉じこめられた。舞台の切れ間も床の模様も見えない。手につかめそうな闇のなかに、銀朱の姿が白く浮かびあがっている。
銀朱は目を閉じ、耳を澄ませているようだった。いつもの明るい表情を消し、何事か小さく口ずさんでいる。佇む様子は暗がりで神々しく光っている。
舞台に音が染み出してきた。ひたひたと、遠くから闇の空気に紛れこみ、聴こえてくる。
──
四方に冥冥 薄か言に我を訊く
四方に冥冥 薄か言に我を得る
四方に冥冥 薄か言に我に
四方に冥冥 薄か言に我を食む
四方に冥冥 薄か言に我となる──
伴奏は一般的な舞楽と同じだ。聞き取れる範囲では、鈴、筝、笙、鼓、篳篥が使われている。どういう仕組みか知らないが、奏者の姿はなく、音だけが聞こえる。
暗闇に目を凝らし、聞こえる言葉を追っていったが、すぐにこのやり方ではなにも理解できないと気がついた。紫微のときのようにするべきだ。言葉の意味ではなく、音の流れを追う必要がある。銀朱が音で伝えようとしている感情を、耳や肌で取り入れなければならない。
どうせ暗闇なのだからと、目を閉じてみた。
重くたれこめるような闇は深く、肌に触れる拍動と感情には憤りが感じられる。悲しみを含んだ怒りだ。どこまでも深い孤独への嘆きもある。
繰り返される節に一点、かすかな希望を感じる部分があった。孤独にさいなまれている歌い手は、曲の中ほどで暗闇を抜ける明かりを見出す。期待と喜びの節が軽やかに、すこしずつ広がっていく。『孤宝』は、「主上の孤独と悲しみを謡った曲」だという。つまり、この感情はすべて主上のものだ。嘆きの中にいた主上は、曲の中盤で誰かに出会ったようだ。そこで希望を見出したのだ。
──ひとりではない。ようやく出会えた──……。
けれどそれも長くは続かない。凄惨な音とともに光が断ち切られる。大鋏が野草を絶つように、鋭く切りこむ笛の音が入る。
鮮血と、声にならない叫びが音の流れを引き裂いた。
真っ暗闇がまたあたりに満ち、死だけが残される。
孤独な主上は、ただそれを眺めているようだった。
手のひらすら見えない暗がりで虚しさを食み、嘆いている。繰り返される苦痛がまた押し寄せてくる。延々と闇のなかで孤独を感じている──……。
「瑞月?」
曲が絶えたとき、世界は元の明るさと色彩を取り戻した。
手ひどい孤独がしこりのように残り、痛々しい思いが胸を締めつけた。知らず溢れていた涙を拭うと、銀朱は大真面目な顔をした。
「本当はちょっと心配だったんだ。お前にこの曲がわかるか、ちゃんと舞えるのかって。実はこれ、浅葱の十八番なんだよ」
すこし休憩しようと、差し出された水筒をありがたく受け取った。水を飲もうとして、すんでのところでのけぞった。この匂いは酒だ。
「銀朱、これ」
「いいって。遠慮せずぐいっとやれ」
いつも酒を飲んでいるのだろうか。呆れて手をおろすと、銀朱は遠くを眺めていた。
「おいら思うんだけどさ。いい舞手ってのは、三種類の特徴がある」
銀朱は三本の指を順にたたみ、教えてくれた。
「身体的にすぐれた奴。感情表現がうまい奴。それから、耳と感受性が敏感な奴だ。程度の差こそあれ、その三つが備わってないとうまく舞えない。浅葱はその点、心に真っ黒な感情を抱えてる。それを解放すれば、舞台ではもう無敵だ。みんな呑まれちまう。感情表現がうまい奴なんだよ」
『孤高』の曲が浅葱の十八番だというのが、なんとなくわかる気がした。この曲にはむき出しの感情が込められている。表面上の技巧や場面説明よりも、生の激情を表現するのが正道だ。そのために重視されるのは、感情表現。
「……この曲を舞うには、心の葛藤が必要なんだね」
その通り。そう頷く銀朱は「でもな」と赤茶の瞳を明るくする。
「お前はめちゃくちゃ耳がいい。紫微の舞台で、お前を見て思ったんだ。お前は音を聴くだけで、曲の意図をほぼ完ぺきに解釈できる。つまりお前の強みは──」
「耳?」
「曲に対する理解の深さだ」
銀朱の指摘は的を射ている。どれほど身体能力が高く、感情表現に優れていても、舞う曲への解釈しだいでは舞台は台無しになりうる。曲への解釈が大きくずれていれば、全体としては失敗なのだ。
「曲への理解か……難しいな」
「簡単だろ。前みたいに、耳で聴いたままを
「言うほど簡単じゃないよ」
曲の解釈には先例や類例がある。この時代背景ならこう舞うという、先人たちの道行きを網羅し、はじめて己の見解をつけ足す余地ができるのだ。舞い方には作法と決まりがあり、その通りに演じないと失敗とみなされる。ただ個性をつけようと、独創的に演じても駄目なのだ。すくなくとも下界ではそうだった。奇抜な演舞は「歴史や礼節を無視したもの」とみなされ、敬遠される。
けれど──黒子は「舞い方に決まりはない」と言っていた。ここでは最初から自分の解釈で舞わねばならない。なにもかも自分しだいだ。思わず身が震えた。許された自由の大きさに身がすくみそうだ。同時に、駆け出したくなるような期待で胸がふくらんだ。
「なんだ、怖いのか?」
酒入りの水筒をひとくち呷ってつき返した。
「そうだね。でも、自分の好きに舞えるなら希望もある」
「お、なんか考えがあるのか?」
期待に目を輝かせる銀朱にしっかりと頷いた。曲の解釈とはつまるところ、何を伝えたいかだ。鑑賞者に受けとってほしい想い、それを自由に考えられるなら、何を舞うかはおのずと決まってくる。
紫微だ。
しだれ桜の花越しに見た、金の鋭い双眼を思い出す。冷笑の中に見えたかすかな翳り。その心。楽器にも心があり、脆さがある。そこへ響く舞台にすればいい。
「銀朱、いいかな?」
あとはどのように舞うかの手法を考えるだけだ。話を聞いた銀朱は、新しい手法の試みに目を輝かせる。
「いいぜ。おいら、暗い曲にはもううんざりなんだ」
練習できるのは一週間。たったそれだけの日取りでうまくできるだろうか。一刻も早くと銀朱を促し、曲に集中する。紫微のために舞う。なんとしても、この舞台を完成させてみせる。
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