第14話

 浅葱とふたりで話す機会を得たのは、練習を始めてから三日後のことだった。

 着替えを取りに部屋へ戻る途中、階段を登っていると、上から降りてきた浅葱と目が合った。


「あ……」


 浅葱はあいかわらず顔色が悪かった。泣きぼくろが印象的な目で、じろりとこちらを見る。冷ややかで底のみえない目にたじろいだが、浅葱はにっこりと微笑んだ。


「ちょうどよかった。君と話したいと思っていたんだ」


 腕を強引に取られ、屋上へ連れていかれる。青空の心地よい午後だった。吹き渡る風は涼しく、陽は暖かい。屋上のへりには腰ほどの高さに木柵があり、浅葱はそこに腰かけた。袖から紙に包まれた饅頭をふたつ取り出すと、ひとつを手渡した。


「ちょうど休憩にしようと思っていたんだ。よければどうぞ」

「あ、ありがとう」


 浅葱の隣へ座り、包みを開く。茶色い薄皮の蒸し饅頭が現れた。ひと口で食べきれそうな大きさなのに、浅葱はすこしずつ上品に齧っている。銀朱のことで恨まれているだろうに、こうして友好的に接してもらえるなんて意外だった。ぼんやり見つめていると、涼やかに笑われてしまった。その顔には生気がない。黒い舞装束からのぞく首筋や手首は紙のように白く、明るい陽ざしにさらしてよいのかと心配になる。


「君は、瑞月だっけ? 僕のことは浅葱って呼んで」

「銀朱のことは──」

「あぁ。もういいんだ。彼、元気にしてる?」

「うん、まあ……話してないの?」

「そうだね」


 蒸し饅頭をひとつ食べ終え、浅葱はふたつめを袖から取り出している。包み紙をはがし、遠くを眺めている。もらった饅頭を口に含んでみると、ほんのり上品な甘さが広がった。ていねいに作られたこし餡に、黒糖味の皮が絶妙でおいしい。鬼王院での食事は貴族をうならせる美味ばかりだ。この饅頭も食堂にあったのだろうか。そんなことを考えていたら、浅葱がぽろりと言った。


「銀朱のことが好きなの?」

「っ、え?」

「それとも、銀朱が君に惚れたの?」


 饅頭が喉につかえた。むせているのを浅葱は凪いだ目で見ていたが、そっと水筒を渡した。ありがたく受け取り飲むと、番茶だった。香ばしい風味が通り、ようやく喉のつかえがとれた。浅葱が答えを待っていたので、慌てて首を振る。


「ち、ちがう! 銀朱は友達で、それ以上のことは」

「僕は好きだよ」

「……え?」

「銀朱に恋をしているんだ」


 水筒を落としそうになる。浅葱は足元をじっと見つめている。落ちる影になにかを探しているようだった。静かに言葉が紡がれていく。


「僕はね。ずっと鬼王院で生きてきたんだ。君たち外からきた人は知らないだろうけど、僕ら内部の人間は楽器と一緒に育つんだ。小さいときから楽器にお守りしてもらって、兄弟や家族みたいにして過ごす。銀朱とはいつも一緒だった。朝起きてから夜眠るときまで、離れたことなんてなかった。それが、まさか別々の相手と組むことになるなんて」


 どこか恨めしげな口調に、つい言い返しそうになる。銀朱が自分と組んだのは、浅葱が別の楽器を選んだからだ。銀朱は傷ついていたのに──……。

 口を開こうとして、できないことに気がついた。舌がしびれて動かない。舌だけじゃない。両手も足も、首を動かすのもままならない。視線をなんとかずらすと、暗い浅葱の瞳が笑っている。


「動けないだろう? お茶に痺れ薬を入れたんだ。大丈夫、死にやしないよ。でもこの高さだと……わからないね」

「ッ、──」


 声をあげたくてもかすれた息しか出てこない。今座っている柵の後ろにはなにもない。ここは十分に死ねる高さだ。背後から吹きつける風がぞっとするものに思えた。

 浅葱は軽やかに柵を降り、目の前に立った。すこし低くなった位置から、感情を消した昏い目が見つめてくる。


「僕は生まれつき体が弱くてね。これ以上銀朱と舞うのは命とりになるって、黒子に止められてたんだ。知ってた? 銀朱の舞台は水銀を扱うんだよ。彼と舞台に立ち続ければ、君も遠からず体を壊すだろうね。まあ、そんなことにはならないけど」


 ここで死ぬから。口にはされなかったが、伸ばされた手が左肩をつかんでくる。

 後ろへゆっくり倒すように力がこめられた。浅葱は笑んでいる。


「他の楽器と組んだからって、銀朱を手放す気はなかった。銀朱は僕のすべてだ。事情をちゃんと説明して、舞わなくてもそばにいてほしいって、そう伝えようとしたのに……君があの場に現れたから」


 君のせいだと、平坦な声が責めた。ぐっと体重をかけられる。後ろへ。


「君が消えれば、銀朱は戻ってくる。また元通りになるんだ。だから──消えろ」


 身が傾いだ。

 落ちる。

 浅葱の泣き出しそうに歪んだ笑みと、晴れ渡った空が見えた。視界が反転し、体が宙に放り出される。落ちる。落ちていく。

 何もできなかった。ただ落下に身を任せるだけだ。建物の茶色い壁と森が目の前で入れ替わる。耳元で風が唸り、腹底が浮いた感覚があった。死ぬ。冷静にそう思った。どうせ死ぬなら、せめてもう一度舞台に立ちたかった。銀朱と練習したあの舞台を、完成させて紫微に見せたかった。重力に引きずられ、目を閉じる。空中では舞うこともできない。ろくに体も動かせないのに、死に際まで舞うことを考えている。それが滑稽で、なんだかひどくおかしい。


 ……────────────。

     ……────────。

        ……────―。



「大丈夫?」


 おそるおそる目を開けると、誰かが顔を覗きこんでいた。

 逆光になった白い美麗な面立ちには、見覚えがある。銀色の髪と、頭上の金の牡鹿角飾り。見た瞬間に誰もが息をのんでしまう麗人だ。飛燕子と一緒にいるのを食堂で見かけた。名前はたしか──清光鴻しんこうこう。楽器だ。どうやら彼が助けてくれたらしい。落下の衝撃はなく、体のどこも痛んでいない。いったいどうやったのかわからないが、清光鴻は落ちれば死ぬ高さから落ちた自分を受け止めてくれたようだ。

 声を出そうとしたが、掠れた息しか出てこない。清光鴻は上を見て「やれやれ」と息をつく。


「恨みを買ったね。人の楽器を盗ったりするからさ」


 ちがう。銀朱を盗ってなんかいない。声にならない否定を読みとったのだろう。清光鴻は微笑む。


「なにか言いたそうだね──ん、声が出ない?  さては一服盛られたね。待って」


 清光鴻は黒光りする小さな丸薬を取り出した。手のひらで転がしてみせる。


「これは大方の毒の解毒剤になる。口へ運ぶから、できるだけ飲みこむようにしてごらん」


 口の中に入ってきた異物に反射的にえずきそうになるが、こらえた。小さな薬が喉を伝う感触を、遠く意識で追っていく。薬は即効性だったらしい。しばらくじっとしているうちに体に感覚が戻り、五感も鋭さを取り戻した。しびれが抜けると、途端に清光鴻との距離の近さが気になりだした。目の前に着物の合わせ目があり、白い首筋からはほんのり甘い香りが漂ってくる。その香りに引き寄せられ、不思議と夢見心地になってくる。


 ──なんだろう、これは。


 浮足立つこの感覚を辿っていけば、きっと抜け出せなくなる。そんな危険な予感がした。清光鴻は、誰もが欲しがる甘美な悦楽と、劇薬めいた色香を纏っていた。触れるべきではないのに抗いがたい、禁断の果実のようだ。清光鴻を前にすれば、その魅惑から逃れるのは難しい。あがくだけ無駄かもしれない。今だって、こんなにも良い香りがするのに──……。


「ほら、そういうところだよ。悪い仔だ」


 ため息が顔にかかり、びくりと身がすくんだ。反射的に動いた腕をそっと上げてみる。飲まされた丸薬の効果は劇的で、身体のしびれは消えていた。清光鴻から這いずるように離れると、彼は眼を瞬かせる。吐息で微笑むその仕草にも、見惚れるほどの艶があった。


「君はとてもいい匂いのする、魅力的な舞手だね。だからといって、人の楽器を奪いとるのはよくないな。私が言えたことではないかもしれないが……何事もうまくやらないと天罰がくだるよ?」


 なんの話をしているのだろう。

 その黒く濡れた美しい瞳を、ぼんやりと眺めた。本当に惚れ惚れと麗しい面差しをしている。眺めているだけで、この瞬間が特別なものに思えてくる。できることなら、このまま永遠にその美しさを愛でていたい。いや、もっとそばに近づいて、直接その肌や髪に触れたい。清光鴻の甘い香りが脳裏から離れない。さっき近づいたときに嗅いだ、ほんのり甘い花の香り。あの両腕に飛び込んだら、馥郁とした香りで肺が満たされるのだろうか。それはどんな心地がするんだろう。微笑む彼は、誘うように両手を広げているようだ。思い切って飛び込んでみても、拒まれないのではないか──?

 遠くから近づいてきた人の声ではっとした。

 魅入られていた、清光鴻に。一瞬だけとはいえ、完璧に放心していた。誰かに見惚れ、空気にのまれるなんて初めてだった。


「清光鴻! どこに行っていた。探したぞ」


 足音荒く飛燕子が歩いてくる。心臓はまだうるさく音を鳴らしていた。

 清光鴻は特別なのだと身をもってわかった。ひとたびその美しさにのまれてしまえば、意志の力で抜け出すことは難しい。見えない蜘蛛の糸が張り巡らされているように、彼のまわりには美しさという罠が漂っている。網にかかれば、己の身すら思い通りにならない。彼の視線ひとつで意のままに動かされてしまう。そんな危険をはらんだ楽器だ。


「今行くよ」


 清光鴻の腕を飛燕子が抱えこみ、建物の中へと誘っていく。

 去り際に、飛燕子から向けられた視線はおそろしいものだった。敵意むき出しの鋭い瞳は、あからさまに近づくなと牽制していた。手放すまいと必死になる飛燕子の隣で、清光鴻はやんわりと笑んでいる。その距離の近さに改めて違和感をおぼえた。連想したのは銀朱と浅葱だ。


 ──友情にしては近すぎる。信頼という言葉では、どこか手ぬるい。


 適切な言葉を思いついたとき、思わず首を振った。


「まさか」


 依存。その言葉が一番ふさわしい気がしたのだ。

 紫微のことを思い出し、己のなかにもっと適切な言葉があることに気がついた。彼ともう一度舞台に立ちたい。そう熱烈に請い願う感情は、どこか恋に似ている。

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