第15話
「いよいよだな」
奉舞の当日、部屋へ迎えにきた銀朱はそわそわと落ちつきがなかった。
浅葱との揉めごとについては、あれから銀朱には伝えず、黙っていた。舞台が終わったらどうしたいかを銀朱に尋ねて、必要ならそのときに聞かせるつもりだった。もし銀朱が浅葱のもとに戻りたいなら、自分はそれを受け入れる。実際そうなったら、また楽器を探さねばならない。仲良くなった銀朱と離れるのは寂しいが、わだかまりを残したまま居続けるのは絶対によくない。浅葱はあの屋上での会話以来、いっさい話しかけてこなかった。なにごともなかったように練習を続けている。あえてこちらから近づくこともないが、遠巻きに眺めていると、その顔色は日増しに悪くなっている。舞台の上で練習中に何度も休んでいる姿を見かけた。
──浅葱はどんな舞台にするんだろう。
曲を演奏しているとき、舞台は音に表された事象で染まる。水の曲なら水で溢れ、火の曲なら燃え盛る火竜巻が起こる。『
毎日練習のために通って見慣れたはずの大広間が、今日は一変していた。真ん中にぽつんと舞台がしつらえられている。その四方を囲み、観客用の緋毛氈が敷かれていた。発表者以外はそこに座り、全員で舞台を鑑賞するらしい。広すぎる空間にあるのはたったひとつの舞台きりだ。いつも練習しているものと大きさは同じなのに、やけに小さく見える。舞台の四辺を囲う注連縄も、今日は取り払われていた。
「あれで音を制御してるんだ」
銀朱によると、注連縄には音と事象を制限する働きがあるという。奉舞のときには客席にもその効果が及ぶように、四隅の注連縄は外される。
緋毛氈の上に座って、開始までしばらく待つことになった。
二階の観覧桟敷も、今日はたくさんの楽器の姿で埋まっている。極彩色の晴れ着姿の少年たちが大量に集まり、談笑している様子は圧巻だった。見下ろしてくる楽器たちの中に紫微の姿を探した。絶対に見つからないだろうと思ったのに、不思議と視線が吸い寄せられていく。
白布で覆われた貴賓席のすぐそばで、紫微は頬杖をつき座っていた。一瞬、目が合ったと思ったが、勘違いかもしれない。目が合ったとしたら、向こうも自分を見てくれていたことになる。
「銀朱。見て。あそこに紫微が──」
「ん」
銀朱はそわそわと別の方向を窺っていた。遅れてやってきた浅葱を見ている。すこし離れた席へ大儀そうに座した浅葱は、いまにも倒れそうな顔色だ。浅葱を支える白服の楽器も心配そうにしている。
「銀朱、今日が終わったらちゃんと話し合おう」
「え、なにを?」
ようやく振り返った銀朱は、視線で意を汲みとったらしい。申し訳なさそうに眉を下げた。
「ごめん、瑞月。おいら──」
「いいんだ。俺は今日、紫微に舞を見てもらいたいだけなんだから」
「ああ、わかってる」
赤茶色の瞳に深い理解を浮かべて、銀朱はこっくり頷く。
「おいらだって見せつけてやりたいよ。楽器としてこんなに楽しみな舞台は久しぶりだ」
静かに交わした視線には期待と、ほのかな喜びがあった。これから全員の前で曲を披露する。指先から這いのぼってくる緊張感が心地よく、全身がはずむようにわきたっている。
大広間の戸が閉められた。いよいよ始まるのだろう。黒子がひとり近寄ってきて、小声で告げた。
「瑞月さま。お時間です。どうぞ台の上へ」
「え」
思わず息をのんだ。初手なのか。奉舞の順は知らされていなかった。
「よかったな、瑞月。後の奴ら、きっとやりにくくなるぞ」
銀朱は大声であてこするようなことを言って、浅葱を見た。浅葱は鋭く銀朱をねめつけたが、目が合うと苦々しく視線をそらした。その横に座っている白い礼服の楽器のほうが、いつまでも銀朱を睨んでいた。
舞台へ銀朱と上がると、一斉に視線が集まった。
何十、何百という意識が四方からつき刺さり、空気が痛いほどにひりついている。
黒子が拍子木をひとつ大きく打ち鳴らした。甲高く乾いた音に広間はしんとする。
上階席でざわめいていた楽器たちも、ぴたりと声を消した。
「ようこそお集まりくださいました。本日の演目は『
舞台で口上を述べた黒子が近寄ってきて、静かに言う。
「瑞月さま。あちらに主上がおみえです」
示され、二階を見上げた。観覧桟敷の白布で覆われた特別席。その白布の向こうに人影がみえた。姿は隠され見えないが、体格のよい男性だ。特別席にいるその誰かは、右手に畳んだ扇を持っている。
「一礼してください」
慌てて頭を下げた。通常は、舞台へ入る前に一礼する。形式にこだわらないと聞いたので、そのまま入ってきてしまったのだ。
「瑞月さま」
慌てぶりを嗜めるよう、黒子が淡々と告げる。
「院での舞はすべて主上への捧げものです。よって、奉舞の際にはどのような場であれ、必ず主上がおみえになります。つねに主上を意識してください。主上のための舞であることを、ゆめゆめお忘れなきよう」
黒子は音もなく台を降りていった。観覧桟敷の白布の影を、こわごわと窺ってみる。
──見られている。
観客は他の舞手や楽器たちだけではない。鬼王院での舞は、そもそも主上のためのものだ。あらためて神たる主上の存在をかみしめると、不思議な心持ちがした。本当にあそこに神がおわすのだろうか。それが今、舞台を観にきている──……?
「瑞月」
銀朱が開始の間合いをはかったので、視線で頷いた。
紫微のために構築してきた舞を、今から主上に披露する。意識の外にあった鑑賞者を実感すると、場の空気が重くなった気がした。誰かに見られているという恐怖と、それをはるかに上回る喜び。
タン、と鼓の軽い音がして、あたりが暗闇につつまれた。舞台の上だけではなく、大広間全体が真っ暗になっている。
銀朱が予定どおりに曲をはじめると、広間に『孤宝』の空気が広がっていく。
いつもの練習と違うのは、音と闇の広がりが今日ははるかに大きいことだ。
舞台をこえて溢れ出した漆黒は、客席をのみこみ、広間の壁に打ち寄せると、上階にある観覧桟敷までをもとっぷりと包みこんだ。
客席の舞手や楽器の顔が暗闇のなかで白く浮かんでいる。さながら、無数の仮面が宙に浮いているみたいだ。近くで見ている舞手たちは、初めての舞台鑑賞におののいている。頭上から太陽光に似た暖かさを感じた。反射的に顔をあげると、主上のいる特別席が白く輝いてみえる。闇が一部とり払われ、そこだけ音の効果が弱められている。
『銀朱』
あれはどうにかならないのか。
視線で呼ばわると、曲に集中していた銀朱はかすかに首を振る。
主上の発する白光は温かく熱をもち、周囲の昏みをしりぞけてしまう。完璧な闇を表現する『孤宝』の曲では厄介だが、どうしようもないのなら仕方がない。
──多少明るくても支障ないだろう。
銀朱が
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