第16話

 ──四方よも冥冥めいめい いささここに我を知る

   四方に冥冥 薄か言に我を訊く──


 はじまりは静かな動きだ。

 孤独、悲しみ、寂寥、どこまでも連なる虚しさを舞う。

 水平に両腕を動かし、空気を混ぜる。暗闇に含まれる音ごとかきまわしていく。

 明かりはほぼない。客席からは、舞手の動きなどろくに見えないだろう。それでも今は構わない。

 銀朱は舞台の上にわずかに水銀を含ませた。身を翻せば空気が揺らぎ、舞の軌跡を光らせる。自分の袖がゆるやかに円を描くと、客席からは銀糸が暗がりで垂れたように見えるはずだ。ほかの舞手がどうやって『孤宝』を表現するのか知らないが、自分たちは銀朱の特徴である水銀を活用する。

 暗闇と孤独の曲だから表現できることがある。漆黒のなかで優雅に光る銀色の軌跡。

 

 ──四方に冥冥 薄か言に我を得る

   四方に冥冥 薄か言に我にめどる──


 曲調が一転し、明るくなる。『孤宝』で唯一、希望を感じられる転調部だ。

 歌の主題である孤独な人物が、誰かに出会う場面だ。彼は今、世界に希望と光をみつけている。激しくなる筝と鈴の音にあわせて、台上ですばやく一旋した。同時に、銀朱が暗闇を一気に取り去った。布を丸めて抜き取るように鮮やかに。ひと息に明るくなり、大広間全体がまぶしく輝く。


 『孤宝』の曲は始めから終わりまで暗闇であるべきだ。そういう曲なのだと、最初に銀朱からは教えられた。主上の孤独をうたうのだから、こんな風に曲自体の主張を変えてしまうのはおかしい。普通なら「もはや別曲」と、蔑まれてもおかしくない極大解釈だった。けれど、これでいい。


 回転する視野の端で銀朱を見ると、彼はうっとり微笑み、了承する。飴色に蕩けきった瞳が恍惚とうるんでいる。

 曲と舞の動きは完璧に一致している。音に含まれる銀朱の感情は、歓喜一色だ。楽器としての途方もない悦楽が、耳から振動として伝わってくる。

『楽器は、舞と音を一体化させることをなにより望むんだ』

 練習を重ねるなかで、銀朱からそう聞かされた。それが彼らの本質なのだと。


 ──見えているだろうか?


 回る動きをぴたりと止めた。頭上の観覧桟敷を見やる。暗闇から場が明るくなり、楽器たちもまだ眩しそうに目を細めている。紫微がいるあたりへ腕をあげた。


 ──俺がほしくはないか。


 いまや紫微の姿がはっきり見える。頬杖をついていたはずの彼は身を乗り出し、食い入るように舞台を眺めている。指をさされ、かすかに身じろぐ仕草が目に飛びこんでくる。

 届いた。そのことに頬をゆるませ、台上を軽やかに駆けていく。

 銀朱が舞台を音で転変させる。ここからが本番とばかりに、曲は華やぎを増す。ありえないほどに明るい曲調が鳴る。

 足元から水銀が垂直にせり上がってくる。鈍く光沢を放つ銀の液体世界を、四角形の舞台のうちに構築する。

 素早い動きで事象を作りだした。かえす手に、翻す半身に、想像の力をこめる──ここからは機転と身体能力を問われる局面だ。

 まずは自然美を舞台に表現する。

 木々の爽やかさと小鳥のさえずり、無限に広がる花畑。銀朱の音にあわせて身を翻し、銀の森を舞台に作った。水銀で作り上げた森の景色は、虹色の輝きを帯びて美しい。舞い散る銀の葉っぱと花びらの草原を、できるだけ息を浅くして駆ける。毒を吸いこまないよう、素早く動く必要があった。銀朱が曲の拍動をさらに速める。現象がめまぐるしく変わる。


 ──うつくしいもの。


 舞うたびに、手の動きひとつで、水銀によって情景が描かれる。

 外の世界で見た絢爛さ、自然の雄大の片鱗。

 波ひとつない湖で、不規則に舞う青羽蝶の群れ。

 降りつもる深雪みゆきに散らされた、赤牡丹の切なさ。


 ──暖かい心地よさ。


 人々の住まう街並みと、その中にある家族や慈愛。

 星々の影、池にたゆたう月の丸み、燃える熾火の暖かさ──……

 これまでの人生で見た美と喜びのすべてを、可能なかぎり動きと水銀によって構築した。千変する舞台はさながら、銀の万華鏡のようだ。

 『孤宝』が悲しい曲であればこそ、いま舞台にある美しさや喜びが映えるのだ。

 喜びは孤独にあってこそ輝き、希望は深い悲しみによって力を増す。

 紫微が何に怯えているのかはわからない。

 けれどその懊悩を暗闇から一転させてみせる。暗転からの輝く舞台への転換には、そういう意図を込めていた。どんな暗闇も、舞台の上なら千変万化。うつくしいひと時に変えてみせる。自分にはそれができる。そう理解してもらいたい。


 ──君さえ認めてくれたら。


 回転する動きで袖をふり、音の流れをかえた。

 いよいよ息が続かなくなってきた。銀朱が絶妙な時機で光を消し去った。

 鋭い笛の音に希望の光が絶たれる場面だ。

 広間からすべての明るさが一瞬にして消え、目が見えなくなったように感じる。全員が真っ暗闇につつまれる。波音とともに舞台の水銀が引いていき、ようやく息を深く吸いこめた。激しい動きに息が上がっている。


 ──四方に冥冥 薄か言に我を食む

   四方に冥冥 薄か言に我となる──


 曲の終わりには、また暗闇に戻らねばならない。

 倦んだ孤独と切なさ、数瞬前にはたしかにあった美の余韻がのこる目に、この暗闇はいっそうこたえる。


 ──これは紫微が抱えている闇だ。


 自分との舞台を恐れ、忌んで避け続けるなら、この闇をいつまでも払拭することはできない。


 ──俺と舞台を作ってくれるなら、最高の世界を見せてやる。けれど拒むというのなら。


 この倦んだ暗闇を見るがいい。暗がりでうっそりと笑んだ。どうせ客席には表情までは見えない。銀朱の曲はいまや苦痛と寂寥に満ち、孤独の情感は耐えがたいほどになっている。身を刺す孤独。ひとりきりだ。舞う動きもしだいに緩やかに止めていかねばならない。精神を殺された生き物が、やがて静かに息絶えるのに似ている。ゆっくりと──。静かな動作のほうが筋肉と神経を余計に使う。激しく動いた体には一番つらい場面だ。

 音はしだいに消え、動きも孤独を表現したままで終わる。後味の悪い幕引きだが、これが本来の『孤宝』の終わり方だった。曲の途中に明るさを挟んでもそうでなくても、最後は抜け出せない闇で一音を終える。

 しんとした世界に元どおりの明るさが戻っていく。静やかな夜明けのような穏やかさが広がった。銀朱が演奏をやめると、広間には人の呼吸音すらなかった。沈黙と、憑かれたような視線が注がれている。

 ほう、と息を落とし、観覧桟敷にいる紫微を見上げた。

 演舞のさなか、食い入るような視線を感じていた。意図はうまく伝わっただろうか。紫微に興味をもってもらえたかは分からないが、今日できることはすべてやりつくした。

 主上のいる席へ一礼し、銀朱とともに舞台を降りる。思い出したようにまばらな拍手が起こった。下界の見世物小屋でもあるまいし、拍手など必要なかったが、聴衆は心の中に複雑な余韻を受け取ったようだ。やり場のない情感をどう消化したものかと困惑し、ぱらぱらと音にして発散したように聞こえた。

 黒子にはなにも言われなかった。勝手な解釈をしたとも、あれでは別曲だとなじられることもない。かわりに、次の舞手が舞台へ上がっていく。青ざめた顔の浅葱だ。

 進行はつつがなく行われ、台上に立った浅葱と楽器は優雅に一礼する。

 黒一色の舞服に身をつつんだ浅葱は、いっそう青白くみえた。

 黒子が柏木を打ち鳴らしても、場はざわめきを残している。

 浅葱は場が整うのを待たなかった。

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