第24話
食堂からの帰り道、廊下に誰もいないのをいいことに、舞の足さばきを練習しながら自室へ向かった。
紫微に教わったのは閃雷の舞だ。不規則な足さばきと回転、嘘みたいに難しい動きで素早く、何度も回転する。速度を微妙に変え、曲の熱を高みへと運んでゆくのだ。一見して規則性がないように思えるが、実はきちんと法則がある。あまりにも素早く難しいので、そうはみえないだけだ。
──本当は即興で踊れたらいいけど。
舞台での雷をまともに受ければ、落命しかねない。型どおりに舞わないと命とりになるから、閃雷の舞は即興ではできない。すれすれで舞うから美しく、緊張感をはらみ感嘆を呼びこめる。そのために必要なのは、より洗練された動きだ。即興でやっているように見せかける技術も必要とされる。
回転。すばやく息を殺すように。
跳んで、かかとで方向を微調整。
己を殺しにくる紫電は非情だ。すばやく瞬く間に落ちる。容赦は微塵もない。
──優雅に舞うこと。たおやかで鋭く、獣めいた素早さでもって足を進める。
紫微に指摘されたとおりに身を動かしてみた。幸い廊下には今、誰の姿もない。
両手で風をつくる。胸をそらし進む。回る。避ける。踵で一閃。首を傾け、つま先で回る。回る、回る──……。
「何をしている」
「……あれ?」
自室の前まで進むと、紫微が立っていた。部屋の扉にもたれて待っていたらしい。紫微は呆れ顔でため息をこぼしている。
「どこへ行っていたかと思えば」
「なにか用? ──じゃなかった。えっと……今日は不甲斐なくてごめん」
「ふん」
「俺、もっと動けるように練習するから。また明日から」
「明日と言わずに今日からだ」
開けろ、と紫微は部屋の戸を顎で示した。半眼になった目はいつになく眠そうだ。無理もない。すでに深夜だ。まさか今から練習したりはしないだろうが……扉を開けると、紫微は遠慮なく中に入ってきた。敷いたままの寝具にかってに座ってしまう。足を組み、横柄に「来い」と促されれば、ひくりと顔がひきつった。他人に断りなく部屋へ入られるのも、寝具に触られるのも好きではない。
「いつまで起きているつもりだ。休むのも舞手の仕事だぞ」
寝具の手前で突っ立っていると、紫微は眠そうに半眼でのたまった。
「今日から、私もここで寝起きする」
「な、なに?」
「お前に拒否権はない」
「いや、それは」
「舞の呼吸を合わせるためだ」
「無理だよ。寝具もないし」
「ここにあるだろうが」
見下ろした寝具は、成人男性ふたりが寝転んでも余りある大きさだった。この部屋を宛がわれたとき、ずいぶん贅沢だとは思ったが。
「……俺に床で寝ろってこと?」
「まったく」
舌打ちした紫微に腕をつかまれ、引っ張られた。寝具に頭から倒れこんだ。隣に寝ころんだ紫微の瞳は、とろんと微睡んでいる。よほど眠いのだろう。
「寝ろ」
「紫微」
「寝ろ」
「……誰かと一緒だと眠れないんだ。放して」
「なら、黙って横にいろ」
「厠に行きたくなったら?」
「そのときには起こせ」
つかまれた手首は解放されそうにない。うつぶせのまま窺うと、目と目が合ってしまった。近い。前髪の先が触れるくらいの距離だ。紫微はゆるやかに笑っている。
「いずれ……眠らざるをえんさ。お前だって……」
やがてすうすうと寝息をたてはじめた相手を、愕然と眺めた。明かりを灯していない部屋は暗く、静まりかえっている。紫微につかまれた手はほどけそうにない。へたに離れようとすると、起こしてしまいそうでできなかった。つかまれた箇所が熱く脈打っている。苦労してうわかけを引きずり、隣にかけてやった。紫微から可能なかぎり距離をとって、しかたなく寝転んでみる。
「……どうしよう」
眠れない。昔から誰かがいると眠れなかった。他人に触れられるのも好きではないし、許容範囲を超えて距離をつめられるのも苦手だ。銀朱も紫微も、許した以上の距離を簡単につめてきてしまう。肩に触れ、腕に触れ、手を握られる。その温もりを憶えてしまうくらいには、接触する機会が増えていた。彼らは楽器だから、遠慮なく自由に振る舞えるのかもしれない。眠る紫微を、息を殺し見つめていた。静かな呼吸が穏やかに空間を満たしていく。
紫微はたぶん、距離をつめようとしているのだろう。奉舞の呼吸が合わないから、うまくやるために譲歩してくれている。その期待に応えられるか。なんとしても応えなければならない。「一緒に舞台へ」と頼みこんだのは、自分なのだから──。
紫微との生活には、思っていたよりはやく順応できた。
最初は拒絶感もあったが、舞台で一日中ずっと一緒にいると、その気配にはすぐに慣れてくる。
毎日隣で過ごしてみて、いくつか気づいたこともあった。
まず、紫微の食生活だ。紫微は異様に塩分の濃いものばかりを食べている。食堂に行くと、山盛りにされた塩が必ず用意された。黒子たちは心得たもので、紫微が来るとなにも言わずに塩の小山をもってくる。盛り塩は人の
「お前がそう言うなら、配慮しよう。私は塩辛ならなんでもいい」
種類も量も豊富な漬物に、さらに塩をふりかけ食べるのにはげんなりしたが、食塩を直接
また、紫微はすこぶる几帳面でもあった。
練習の後、舞装束を脱ぎ散らかすと怒られる。気づいたら衣装はぴっちり畳まれ、あるべき場所へきちんと戻されていることもあった。脱いだ靴はかってにそろえられているし、使った後の寝具は問答無用で整えられた。整っていないものがあると、最初は怒られるが、二度目からは紫微が手ずから整理してしまう。そのことを指摘してみると、生真面目な楽器は眉をひそめた。
「お前を教育してやる義務はない。私がやったほうが万倍きれいだ。わかっているなら努力しろ」
「うーん」
「お前、舞のこと以外はまるで無能だな」
「褒めてる?」
「馬鹿が」
何が気に食わなかったのか、紫微はちょうどそのとき、すでに綺麗な部屋の床を熱心に磨いていた。四つ這いで必死になっているその姿に、おかしくてつい笑ってしまった。楽器が掃除好きだなんて変だ。
生活のほぼすべてに紫微の気配が染みこんできた。それを自然なことと捉えるようになっていた。きっちり整えられた寝具や、ふたつそろえて並べられた靴。丁寧に畳まれた装束と、机に置かれた紫微愛用の盃──目に見えるすべてに紫微とのこまかなやり取りがあった。ささいな衝突や発見、妥協点を見つけて話し合う。その過程で暖かな記憶が築かれていく。自分をとりまく空間が優しくなっていく。
予想よりうまくいった紫微との生活で、それでも困難だったのは睡眠だった。日中ずっと舞台で練習するので、肉体は疲れている。それでもすぐ隣に誰かがいると、どうしても深い眠りに入れない。夜中に飛ぶように意識を失い、慌てて目を開けると、暗がりで紫微の寝息が聞こえる。そういえば紫微がいたんだったと思い出し、そこからまたしばらく眠れない。その繰り返しで、どうにも疲労が抜けなかった。
ある日、舞台で練習中に紫微が曲を止めた。どうしたのかと聞く暇もなく、むすくれた紫微に腕をつかまれた。そのまま自室へ連れていかれ、寝具の上に突き飛ばされた。
「寝ろ」
上かけを投げられ、紫微も隣に寝転がる。その表情は硬かった。
「でも、昼だし」
「いいから」
すぐそばに紫微の怒れる金眼があった。眠れるわけがない。そう思ったのに、全身が鉛のように重いことに気がついた。やわらかな寝具に意識が沈みこんでいく。
部屋には暖かな昼の陽光が入りこんでいた。燦々と白い──午睡にはちょうどいい。つらつらとわずかな意識で眠気に抗い、目に見えるものの意味が飛ぶまで紫微の輪郭を眺めていた。
紫微は綺麗だ。
楽器には思わず息を飲むほど美しいものがいるが、そういったものはどこか恐ろしく、近寄りがたい。その点、紫微には暖かみがあった。つんとすまして気が強そうなのに、一度
切れ長の目は凛として優美だった。輝く金色の瞳孔にはいつも見惚れてしまう。
形のよい鼻と、白くすべらかな頬。唇はうすく、今は怒りのせいできゅっと噛みしめられている。かすかにうねる黒髪の先から、白い首筋までをぼんやりと眺めた。それから、ほのかに香る紫微の気配を吸いこんだ。瑞々しい水みたいな香りだった。森林の奥を流れる湧水にも似ている。吸いこむと心地よく、つい呼吸を繰り返してしまう。
──もっと近くに。もっとそばに。
眠りにぼやけた体はぴくりとも動かせなかった。ただぼんやりと紫微を眺めている。視界にあるすべての輪郭がぼやけ、意味を失っていく。あらがいがたい眠りの淵。
意識を失う寸前、目にした紫微の表情は穏やかだった。
金色の丸がふたつ。口は三日月の形だ。
眠りがこれほど安らかで気持ちいいと思えたのは、いつ以来だろう。
無意識の淵で思った。いつか訪れるだろう死も、こんな風であればいいのに──。
それからは、紫微が隣にいても自然と眠れるようになった。
人肌が暖かくて、朝起きたら体を密着させていたこともある。紫微は気にしないようだったが、さすがに気まずかった。夜眠るとき、紫微はよく鼻を鳴らしている。こちらをみて、すんすん匂いを嗅ぐのだ。
「なに?」
「お前はいい匂いがするな」
石鹸の匂いかと思ったが、紫微は「舞手の匂いだ」とつぶやいた。良い舞手からはいい匂いがするのだと。よくわからないが、それなら良い楽器からもいい匂いがするのかもしれない。紫微の匂いは気配として身にしみこみ、すっかり自分の一部になってしまった。舞台で動きを合わせるのも、この頃はずっとうまくいっている。目で捉えずとも、紫微がどう反応し、閃雷を落とすかがわかるようになった。視界や音に頼らず舞えるのは不思議なことだ。
四角く小さな台の上で、紫微はつねに隅角に立つ。舞っているとき、視線や五感のすべてで、つい佇む気配を追ってしまう。動きの軸としているものが、いまや音ではなく、紫微の存在へと傾いている。そのせいで舞に集中できず、音をおろそかにしてしまうこともあった。紫微も気がつき、時おり「集中しろ」と睨んでくる。
紫微をみていると、どうしても心を乱される瞬間があった。舞台の上で刹那に目が合ったとき、じわりと両目の奥が暖かくなる。その白い頬は電光で照らされ、陶器に似た質感にみえる。夜、寝具のなかで感じる温もりへ指を伸ばしてみたくなった。──触れてもきっと怒られない。楽器は接触を嫌がらないからだ。部屋で眠るときや舞台の上で舞うとき、胸の奥がうずく感覚は、日増しに増えていった。むずがゆく、緊張に似たしびれが胸から全身へ広がる。紫微にもっと近づきたくなる。触れてみたい。もっとそばに。
ふとした瞬間、恐々と手を伸ばしてみる。指や頬、あどけない寝顔の前髪の先に──すると、大きく叩いた銅鑼に触れたみたいに、指先からしびれが起こるのだ。振動は全身へ伝わり、胸の痛みと共鳴する。
紫微はいつだって変わらなかった。手を伸ばされても淡々としていて、なにも感じないみたいだ。人ではないから、そうあれるのか。己の感情や感覚がおかしいのか。
ふいに、浅葱のことを思い出した。銀朱のことも。浅葱の感情に銀朱はどのように応えているのだろう?
この関係に名前をつけられない。このままでいいような気もするし、もっと近くへいってみたい気もする。日増しに想いは強まり、比例するように舞の精度は上がっていった。舞台はうまくいっている。次の桟代試験ではうまく舞えるだろう。ぼんやりと夢見心地の日々で、けれどなぜか紫微の目には憂いが増えた。舞が上達すればするほど、紫微はなにかを恐れるようになっていた。舞台で音を合わせることが嫌なわけではなさそうなのに。
──なにを憂えている?
そう真っ直ぐに問えないのは、己の中で紫微の存在が大きくなったからだ。大切になればなるほど、向き合うことに臆病になる。拒絶されることが怖くなる。
桟代試験まであと数日という頃になっても、紫微はまだ憂えているようだった。持て余した感情をひた隠し、紫微の意識を毎日追うしかない。いったい何を考えている? 時間はあっという間に過ぎていった。
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