第35話

 蔵を出ると、紫微が心配そうに待っていた。


「っ、瑞月、大丈夫か? いったい何をされた?」

「……この部屋のこと、知ってたの」


 質問自体が無意味だとすぐに気づいた。は、と落とした己の息は変わらず嘲るように乾いている。紫微は楽器だ。自分が鬼だったことを彼は知らない。ひょっとしたら主上のことも、鬼王院の仕組み自体も知らないのかもしれない。眉を寄せた紫微は、内心の心配を隠そうともしない。


「この蔵はお前と初めて対面した場所だ。覚えているだろう。私が『何を望むか』と聞いたら、お前は『舞うことだけが望みだ』と答えた」

「あれは君だったの? でも声が──」


 紫微の声ではなかった。紫微の声は低くまろやかだ。蔵内で聴いたのは、得体のしれないもっと不気味な声だった。


「楽器はここで気になった舞手に声をかける。顔合わせの場までは、姿は見せず声も変える。不思議なことだが……蔵で声をかけた舞手はたいてい、顔合わせのときに自分の元へ来る。最後に組む相手になることも多い。なぜそうなるのかは知らないが、きっと波長が合うのだろう」


 紫微はあのとき「愚かだ」と言った。身を賭して舞うことを真っ先に否定したのは紫微だったのだ。

 ぐったりと力が抜け、紫微にもたれかかった。疲れていたが、怒りのあまり頬がほてり、気力は満ちている。鬼王院の廊下にあったはずの鮮やかな夢魔を、今はかけらも感じない。自分の感情のほうが怒りで膨らんで、周囲の夢魔をかき消している。他の感情より己の内にあるもののほうが大きく、受け入れる隙間がないのだ。


「お願いがあるんだ」


 身の内にあふれた熱が指先から胸、目を通り、髪の毛先まで焼きつくしそうだった。もう紫微の心の声も聴こえない。ただ支える腕にぐっと力がこめられた。何を言われるかと身構えている気配がある。身を離し、涙に潤む目で紫微の瞳をじっと見つめた。自分から発された熱が、空気を暖めながら紫微に伝わっていく。怒りの感情がふりきれ、ごちゃごちゃになった思いの収拾がつかない。ただ熱に侵されている。それが怒りなのか欲なのかも判然としない。ただひたすらに熱かった。目を瞠る端正な顔を、ぼんやり眺めていた。情欲は伝わったらしい。湿りけを帯びた唇が動くのを、視線で追っていた。


「……いいのか?」


 頷くと、無言で紫微は手をつなぎ引っ張っていく。自室へ戻り、扉を閉めた瞬間に喰らいつくすように互いをむさぼった。息を乱し、寝台の上へ転がった。


「ん、瑞月。本当に……?」


 上から覗きこんでくる紫微はまだ心配そうで、不安と期待で金色の瞳がうるんでいる。本当は何があったか聞きたいだろうに、不安を無理やり押しこめている。求められることに応えようとしてくれている。今までこうして触れ合ったことはなかったが、ともに生活するなかで紫微にそう望まれているのはわかっていた。

 楽器を利用することへの罪悪感はあったが、今は熱を持て余している。振り切れた怒りが体を沸騰させ、熱い──すこしでも冷やさなければ、今にも壊れてしまいそうだった。無言で相手の首を引き寄せると、堪えきれなくなった楽器の欲が伝わった。熱は鎮まるかと思ったが、いっそう高まるばかりだ。

 熱い。心地よくて考えが散らばり、視界が明滅する。


「瑞月、っ、私はお前を──すまない。守れなくて、すまない」


 うわごとのように謝り続ける紫微の髪を梳いた。謝られる必要はない。紫微はきっと期待に応えてくれる。自分と組んだことの責任を取ると言ったのだから。


 ──紫微をまた傷つける。


 茹であがるような快楽の後、互いの熱を発散すると体は急速に冷えた。人生で味わったことのない嵐のような快楽だった。珍しく無防備にうっとりしている紫微とは反対に、己のなかで冷えた怒りが鋭さを増していった。

 ──許さない。鬼王院も、黒子たちも。

 この場にあるものすべてを許さない。空っぽの主上の席も、二対の巻物も──己のすべてを踏みにじったものを、完膚なきまでに壊してやりたい。


「なにを考えている?」


 金色の瞳に不安の熾火が揺れている。


「ごめん。本当に──でも、君には責任をとってもらう」


 自分を選んだのだ。最後まで手を貸してほしい。縋るように見つめると、額と額がこつりと当たる。汗ばむ髪を擦りあわせ、紫微は震える睫蓋の奥で意志の光をひらめかせた。


「気兼ねせずに言え。もうお前を止めるのも、命を救おうとするのにも飽いたわ」

「大鬼の儀に出るよ」

「……そうか」


 覚悟はしていたのだろう。きゅっと結ばれた唇を指でなぞった。


「これ以上なく華やかな舞を披露したいんだ。そのために俺は──」


 これからのことを告げたとき、紫微は愕然とした。話し終わると、紫微は背を向けてしまう。猫のように丸まり、小さくなって寝転がっている。


「あの……」

「朝まで話しかけるな」

「紫微」

「わかったから。……すこし、待て」


 ぐすりと鼻をすする音から、泣いているのだとわかった。どうすることもできずにその背を見つめ、横になる。


「ごめん。甘えてばかりで」


 空気にそっと放した声はしばらく漂って、受け取られないままにぽとりと落ちた。明日から大鬼の儀まで、やることはたくさんある。限られた時間を使うしかない。願わくは、すこしでも多く紫微と一緒に過ごせたらいいのだが。

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