第34話
「どうぞ」
明るさに慣れた目がとらえたのは、真っ白な小部屋だった。
四隅に手燭をもった黒子が四人、控えている。壁や床は染みひとつない白漆喰で、暗闇から逃れた目にその白さがまぶしい。急に外へ放り出されたみたいに明るい部屋だった。黒漆塗りの文机と紫の座布団があって、黒子はそこへ座るように促した。
「え……?」
部屋にあるのはそれだけだった。真っ白な小部屋の真ん中に、黒い文机と紫の座布団。四隅に明かりをもった黒子が四人。主上の姿はどこにもない。てっきり仰々しい玉座や御簾のようなものがあって、そこに通されるものだと思っていた。
近づいた机には巻物がふたつ、ていねいに置かれていた。うす緑のものと、紫のもの。筆とすりたての黒墨もある。ここで文字を書かされるのだろうか。
案内してくれた黒子を見ると、彼は無言で巻物を開くように念じていた。
ふたつある巻物のうち、左のうす緑色のほうを紐解いてみる。
そこに書かれていたのは鬼王院の歴史だった。古語で記されている。古い書物だ──少しずつ内容に目を通していく。
──……二百年前、建国ほどなくして鬼王院は造られた。初期の院は学問所として、高名な学者や、研究者を抱えていた。……当時の国には万鬼が跋扈し、政治の中枢は混迷した。混乱を鎮めるため、朝廷は官職制度を整えた。すべての官のとりまとめに太政官を、その下に貴族からなる
現在も続く「
昔はこの国に鬼があふれていた──きっとそれは事実なのだろう。想像してみると、なんともおそろしいものがある。
──……行吏たちは捕縛した鬼を学問所へ送り、それが何であるかを調べさせた。高名な学者たちは知髄を集め、鬼がもとは人であり、心の均衡が崩れたことで鬼になると見出した。鬼の出現を防ぐためには民心の拠り所として、人智を越えた権威が必要とされ、その術が具申された。この世を絶対的存在で治めること。民心に安定の重しを置くことが、人を人たらしめるために必要とされたのである。太政官はその意を認め、学問所に人心平定の役割を与えた。捕縛した鬼を王山にある学問所へ送るようになったので、この学問所を「鬼王院」と呼ぶことにした……──
文字を追う指が震えはじめる。指先から体温が奪われていく。
鬼は人──気づかないふりをしてきた事実をつきつけられる。
清光鴻と舞台にあがったとき、はじめて小鬼を殺した。あのとき流れこんできた記憶は、飛燕子のものだった。
飛燕子を殺した。この手で。
さらし布でへし折った首の感触が、今でも皮膚に残されている。震える両手を握り、再度文字を追う。考えるのは後回しだ。紫微にすべて話し、苦しみや悲しみを整理してもらえばいい。助けを借りて消化していくしかない。だから今は──……。
──……民心の混乱を平定するために太政官は、人智を越えた存在を求めていた。……院では、鬼を人に戻すための研究を行っていたが、それはしだいに、鬼の性質を保持・引き出すための研究へと変わっていった。……鬼のなかには、風雨や火を操るものがいた。特異な才は、鬼を人型へ戻すと途端に壊れてしまう。鬼の魂だけを取り出し
文字が空虚に脳を通りすぎていく。
理解はできても、実感として受け入れることができない。
楽器は鬼。いや、かつては人だった。楽器はそれを知らない。けして知ることはない。知らされれば壊れてしまうからだ。楽器は自分のことを、はじめから楽器だったと信じこんでいる。
──……楽器は人智を越える才と、無限に近しい寿命をもつ。……院は民心の拠り所として楽器を提示したが、太政官はこれをよしとしなかった。万民の重石に壊れる綻びがあってはならず、瑕疵のない存在が求められたからである。……当代一とうたわれた学者が、綻びのない「神」を提示した。それは見えず聞こえず、触れられない。語らずして万民に呼びかける。院はそのための機構を構築し、太政官は国の礎としてそれを認めた。楽器を用い、超越した力を世に広く示し、虚無たる神の存在を確たるものとする。院と国の権威はいっそう高まり、民草の混乱はおさまった。賢治のはじまりである。……──
同じ文面を何度も読み返した。そんなはずはない……──。
受け入れがたい事柄が、文字として眼前に広がっている。茫然と同じ文字を見つめた。
──虚無?
存在しないものを存在しないと証明するのは難しい。見えなくても「そこにある」と言われてしまえば、人は頷いてしまう。
楽器たちは人智を越えた力をもっている。火や水を操り、人よりも長く生き、明らかに人ではない。そういうものがいるから、彼らを束ねる絶対神が絶大で、より超越した存在なのだと考えてしまう。たとえそこに何もなくても。
「だって、いつも俺の舞を見てくれていた……そうだ。銀朱と舞台に立ったときだって。たしかにあの席に──」
銀朱と「
顔を上げる。ここまで案内してきた黒子が、扉のそばで静かに立っている。黒い顔覆いからじっと見つめる視線を感じる。過敏になった神経が、彼の思考をかすめ取る。
──あれは黒子だった。楽器を使い、ときに楽器に光を宿させ、声を聞かせる。そうやって存在を産み出すのだ。
空気から伝わる黒子の感情は哀れんでいる。信じていたのかと蔑んでいる。
──存在しないものを信じて、こんなところまで。だからお前たちは……。
「う」
吐き気がこみあげた。文机に顔をうずめる。うす暗い視界に自分の呼吸がうるさい。間近には見たくもない文字の羅列がある。
鬼。楽器。神。
黒子たちは。そのために行吏たちは。楽器たちは。ここに集められた俺たちは──?
浮かんだひと言で世界がひび割れていきそうだった。巻物の文字はまだ続いている。読みたくない。知りたくもなかったが、縋るように先を追う。そこに希望が残されているかもしれない。なにかひとつでも希望があればいい。なにか──。
──……民心を安定させても国に鬼は産まれ続けた。貴族の長子が転変することが多いとわかり、太政官は貴族の長子を院へ集めさせた。長子を教育し、神の存在を教え、楽器とともに過ごさせて経過を観察する。鬼になりやすい環境を与えるため、舞の腕を競わせる。ひとりを供儀として捧げることにした。院で最上の舞手に大鬼を斬らせ、斬ったものを大鬼とする。……大鬼を斬ったものは心の安寧を欠く。大鬼を斬りふせば、必ず大鬼へと転じる。これは魂に負荷がかかりすぎるからである。……供物を捧げることで、絶対神の存在はさらに強固となった。院の権威は貴族の口上から広まり、
文字を追えなくなり、もう一方の巻物を勢いよくほどいた。
「大鬼帳」と書かれた紙には、名が延々と連なっていた。永い年月使われてきたのだろう。黄ばんだ紙には筆跡の異なる名が書かれ、それらすべてが黒墨の縦線で消されている。まるで死者の名簿だった。紙を最後まで読み進めると、あるところで白紙になっている。最後は「狼尾」だ。まだ黒墨の線で消されていない。この名前が一番新しい。力強い筆跡は古なじみの友のもので間違いない……──。
「名前を」
ぎくりと顔を上げると、黒子が文机の端に置かれた筆と硯を示していた。
「お書きください。その後、ご要望をうかがいます」
「要望……?」
恭しく一礼する黒子を見て、それが至高の舞手に与えられる権利だと思い出した。院にはどんな望みでも叶える用意がある。国と裏でどっぷり繋がっているからだ。それは犠牲となる自分たちへの償いでもあるのだろう。
用意された筆と名前の列を眺める。
なんのために。
そう考えた瞬間、世界が音をたて、ひび割れていった。考えまいと抑えこんでいたものが溢れ出す。
自分はこの手で人を殺した。飛燕子を殺した。それは……いったいなんのために。自衛のためですらなかった。あのときは知らなかった。殺す必要はなかったのだ。けれど、今ではもうわかっている。自分はあのとき楽しかった。舞台の上で舞を披露しながら飛燕子を殺した。ためらいもなく。鬼だと思っていたから、いっそ殺したことに達成感すらおぼえていた。それはなんのために。
意味などなかったのだ。ただ院と国の権威を守る、かりそめの舞台装置にすぎなかった。何も知らされず、目隠しをされ進んできた。進む先に輝かしい未来があると疑いなく信じていた。
至高の舞手、大鬼の儀。
大勢の聴衆の前で、あでやかな舞を披露する。それを外の来賓や他の舞手、絶対神たる主上が観る──そうずっと信じこんでいた。そこに主上はいないのに──……。
落とした視線の先に「狼尾」の文字が粛然とある。ここに名を記した者たちは、全員が大鬼を斬っている。同じように事実を知り、自らも大鬼になると知り、いったいどんな気持ちで筆をとったのだろう? 巻物へ指をはわすと、過去の夢魔が波となり押し寄せる。色鮮やかな記憶に翻弄され、溺れていくようだ。
──名声が欲しくて、震えながら筆をとった。
──富と権力を求め、胸をはり名を書いた。
──動揺し、言われるがまま名を書き連ねた。
──逃れようとして、楽器に助けを求めた。黒子に捕まってそれから……どうなったのだろう?
──楽器に望まれ、大鬼を人に戻そうとして名を書いた。心は覚悟に満ち、奮い立っている。
──そして最後の記憶は……背筋を伸ばし座る少年だった。力強く筆を動かし墨を引く。紙を斬るように、自らの名を記している。
──俺のほうが紫微とはうまく舞えたんだ! あいつが大鬼の儀に立ったら……殺す。俺のほうが強い。俺のほうがあいつよりも、強い。俺のほうがずっと──!
恨みに満ちた目にびくりと身がはねた。巻物の「狼尾」の字が自分を睨みつけている。大鬼となり、友は舞台で待っている。狼尾にとっては強さだけが意味をもつ。恨みと復讐心に満ちた記憶のなかに、どちらが強者か比べたいという強い意思を感じた。最後の舞台に立てば、命がけで強さを競うことになるだろう。
その巻物にどうやって名前を記したか、よく憶えていない。ただ茫然と「瑞月」と墨で書かれていく文字を眺めていた。字を書いている感覚すらなかった。
もはや大鬼の儀で舞う意味を感じなかった。自分にとっては、舞を見せる相手が重要だったのだ。そこに観せたいと思う相手がいないのに、これ以上舞台で踊る必要もない。黒子が近づいてきて、巻物を回収した。
「瑞月さま、それでは望みをお聞かせください」
は、と嘲りの吐息がもれるのがわかった。
「望み……?」
停止していた怒りと苦痛が押し寄せてくる。
馬鹿げている。自分からすべてを──舞う理由すら取り上げておいて。この上わざとらしく何を望めというのか。ありもしない主上の存在を示すため、舞えというのか? 鬼王院の権威を守るため、国の威信を示すために、繰り返し舞手に死ねと言い続けてきたくせに。
目のあたりが熱を帯び、頭がどくどく脈打っている。息は全部空っぽの嘲笑に変わっていく。目から涙が出るのに、心は怒りと嘲りで笑っている。
この世のすべてが惨めに思えた。すべてが愚かしく、馬鹿馬鹿しくなってくる。感情の糸車が台座からはじかれ、空虚に回り続ける。回転する思考が何度も世界を罵り、叫んだ。怒りに満ちた思考が執拗に同じ箇所をたどり、ついにぷつりと糸を切る。
望みを、と黒子に再び問われたとき、感情がはじけた。その矛先が定まる。いく千もの槍先が束になり、相手の血肉を求めて殺意に濡れる。上向く自分の顔がゆっくりと、煮詰めた笑みに変わっていく。
「お前らの死を」
息をのんだ黒子が、平静を装った声でかえした。
「それは……私どもは、大鬼の儀を行わねばなりません。儀式が済みしだいでよろしいですか?」
黙って睨みつけると相手は一礼した。
「かしこまりました。滞りなく儀式が終りましたら、我ら黒子の死をすみやかに」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。