第26話
今日の紫微は変だった。異様に口数がすくないのだ。
最近ずっと憂い顔だが、昼に清光鴻とふたりで何やら話してきてからは、余計に暗い表情になった。桟代試験まで残り三日だ。なにかあるなら話してほしい。
夜、眠る前に明かりを消そうとした紫微へ、覚悟をきめ話しかけた。
「なにかあった?」
「なにも」
「清光鴻と話してただろ。昼に」
動きを止めた紫微は、表情にまた憂いを滲ませた。橙色のろうそくの火が、瞳の中の翳りをゆらめかせる。紫微がふっと明かりを消した。なにも見えなくなる。
「お前、試験には出るな」
「え?」
「二度と舞台に立つな。そのほうがいい」
「どうしてそんな……」
暗闇に慣れてきた目が、紫微の悔しそうな顔をとらえた。紫微は黙って答えを待っている。同意を求められているのだ。表情から答えを察したのだろう。紫微は顔を歪ませた。
「瑞月、頼むから……」
「無理だよ」
「考え直してくれないか?」
「君だって、舞台が嫌なわけじゃないだろ? だったらどうして」
「お前には才能がある」
しおしおと打ちひしがれたように、紫微の視線は落ちていく。震えるまつげの先から零れそうな金色の光を見つめていた。紫微のかすれた声が空間を満たしていく。その響きはうっとりするほど麗美だ。
「これ以上舞えば、お前の鈴だっていずれは落ちる」
「鈴……?」
鬼王院に入るとき、手首に鈴を結わえられていた。片時も離さぬようにと黒子に告げられた。邪魔になるものでもないし、重さもつけ心地も感じない。気にもとめていなかった。ただの装飾品。鬼王院へ入った者の証だろうと考えていた。
──そういえば、銀朱が「浅葱の鈴が落ちた」って言ってたな。
それが何だというのだろう。手首にきつく結わえた鈴を、紫微が睨みつける。
「その鈴は──お前の魂の形を留めやすくしている。抑制装置だ」
鈴は舞手の感情をおさえるという。舞手の理性を保ち、魂の形を留めやすくするのだと。鈴がついていれば現世に近い状態にあるらしい。
「鈴が落ちると、魂の形を留めづらくなる。お前も見ただろう? 清光鴻と組んでいた舞手が黒鬼になるのを」
記憶を手繰り、震えが走った。
「……鈴が落ちたら、俺も飛燕子みたいに?」
「いや。感情を理性で抑えられるうちは、まだ大丈夫だ。だが、舞台では音とお前の魂が一体化する。自然と暴走の危険も増す」
鈴が落ちてからが危ないと紫微はため息をつく。
「鈴が落ちると、感情や魂の一部を舞台で垂れ流すことになる。それまでより鮮明に、自身の内をさらけ出すことになる。些細なことで魂が崩れやすくなるから──」
「ちょっと、待って」
怪訝な顔になった紫微は、それでも口をつぐんでくれた。
以前、紫微は「鈴付きは実力がない」と言っていた。鈴は抑制装置だ。舞手の感情を抑え、舞台での表現の幅を狭めている。それなら、鈴さえ落とせば。さっさと落としてしまえば、より音と一体化できるのか? もっと表現の幅を広げられると? もしそうなら、今よりもっと素晴らしい舞台を構築できるのではないか……!?
「どうやったら鈴は落とせるんだ?」
「っ、お前──」
紫微は言葉を失っていた。白い顔で何かを言おうとするが、怒るべきか憂うべきか決めかねているようだ。怒りたいのはむしろこちらのほうだ。そんな大事な話を黙っていたなんて。もっと早くに鈴を落とすべきった。そうすれば、今よりはるかに素晴らしい舞台を作れたかもしれない。時間を無駄にした気分だ。次の舞台披露までは、あとほんの数日しかない。
「お前、私の話をちゃんと聞いていたか?」
「聞いてるよ。だからどうやって鈴を落とせば──」
「っ、お前は死ぬ!」
見つめ合う目に温度差があった。苛烈な怒りに濡れた目を冷静に見つめかえした。笑いかけると、紫微は絶望に突き落とされた目をした。
「死なないよ。俺は死なないかもしれない。そうだろ?」
紫微の声は震えていた。
「止めろ……」
「それに、仮にそうなっても舞台のためだ。もっと素晴らしく舞えるのに、やらなかったら一生後悔する」
「なにもわかっていない!」
突然、距離が縮まった。身を引くと、そのまま後ろに倒される。体の上に紫微が乗っていた。左脚にぐっと重心をかけられ、文句を言う前に凄まれた。
「この足を折ってもいいんだぞ」
「痛いよ」
「腕だって、動かなくしてやれる。一生舞えないようにしてやる。まだ舞台に立つというなら」
吐き出した言葉に彼自身が傷ついているようだ。ひそめられた眉や、白くまろい頬にさす影が美しい。そっと手を伸ばしてみた。紫微は身を震わせたが、じっとしていた。金色の瞳に困惑が揺れている。おかしい。馬鹿げている。
「できないよ。君にはそんなこと……だって、俺と舞台に立ちたいだろ?」
触れた頬はすべすべと心地よい。もっと触れていたい。鋭角な頬から顎、頬骨の高い部分から耳へと指を移動させる。文句を言われないのをいいことに、そのまま黒髪を梳いてみる。間近な紫微の体温が暖かかった。もっとそばにいてほしい。触れるたびに、指先から痺れが走っていった。
この感情の意味を自覚した。はっきりと、つかみ取るようにわかった。紫微に依存している。まるで恋するように、紫微の熱を欲している──。
鈴を落として舞台に立てば、これまでより素晴らしい舞を披露できる。紫微の音と自分の動きが今以上にぴったりと重なったとき、それがどれほどの喜びをもたらすか。想像するだけで胸が高鳴った。
「もっと良くなる。鈴を落としさえすれば──」
「いい加減にしろ!」
手を強くつかまれた。触っても嫌がられないからと、調子に乗りすぎたらしい。振り払われると思ったのに、そうはならなかった。紫微は手をつかんだまま離さず、ぎゅっと握りしめた。
「触れられて、私がなにも感じていないと思うのか」
視線の色が変わった。瞳の輝きは濃く、とろりとした琥珀色がぎらついている。見つめ合う近さに頭が沸騰しそうになる。やはり調子に乗り過ぎたようだ。
紫微は怒っている。
でも、それだけではない。別種の感情もはっきり窺えた。ぎらつく目に呆けた自分の顔が映りこんでいる。空気が熱かった。相手の吐息が頬をかすめ、脳髄がしびれるようだ。声が出ない。紫微の声は、骨の髄にまでじんわり染みこむようだった。
「そんなに鈴を落としたいなら、教えてやる」
どうすれば鈴が落ちるのか。
鼓動の音ともに寄せられた唇が、額に触れる。熱い。汗ばんだ前髪をよけられ、こつんと額と額が触れ合う。像がぼやけるほど近くに相手の瞳がある。紫微のささやき声は甘く、腰のあたりがむずがゆくなる。掠れた喉で唾を飲みこむと、紫微が吐息で笑った。
「閾値を越えた感覚で鈴は落ちる。恐怖、怒りや恨み、悲しみ。それに、快楽でも」
頭が熱で沸き、瞬いた拍子になぜか涙が零れた。悲しくはないのに。
紫微が優しく、唇でそれをすくいとる。
触れた箇所がいつまでも火傷したように熱かった。全身が燃えている。空気が蒸発したみたいだ。紫微の熱で燃やしつくされる。ただひたすらに熱かった。頭が、思考が熱病に侵され、蕩けていく。ただ見つめ合っているだけなのに、ひどく心地よかった。このときが永遠に続けばいいのに。
「私が怖いか?」
「ちが、う。これは」
ずっと触れたくてしかたなかった。抱いた欲は間違いだと思いこんできた。すくなくとも、楽器の紫微には伝わらないものだと、そう諦めていた。
──もっと触れてみたい。
音にならない言葉は、互いの目から伝わった。刹那だけ唇同士が触れ、すぐに離れていく。ぐっと眉根を寄せた紫微は、あやすように涙を指ですくっていった。何度も何度も。目が溶けるほど、なぜか涙が出てきた。堰が切れたように止まらない。
「お前の鈴を落とすつもりはない」
「俺は、──」
「駄目だ。どんな手を使っても、お前の鈴は落とさせない」
紫微はそれ以上の会話を拒んだ。ただ抱きしめ合い、なにをするわけでもなく互いの熱を分け合った。いつも通りの夜だった。同じ寝具で眠るだけ。それ以上の何かがあるわけではない。それで十分だと思えた。持て余した熱が、空気中に静かに放出されていく。熱くなりすぎた鉄が、ゆるやかに冷まされていくように。むずがゆい欲は、だんだんと安心感へ変わった。
紫微はそばにいてくれる。心が通じ合っている。ひどく心地よく、安らぎに満ちた眠りが訪れた。紫微からきっともう離れられない。別々の場所で暮らしていくことを想像できない。それぐらい紫微に惹かれている。紫微のことを想っている。
いつかは自分も鈴を落とすだろう。それがどんな形であれ──たとえ紫微に反対されたとしても、自分はきっとそうする。確信があった。
この穏やかな温もりを失うことになっても、きっとそうなる。紫微の信頼を裏切ることになったとしても。舞うために必要なことなら、きっと自分はそれを選ぶ──……。
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夜は平等にすべての舞手に訪れた。
間近に大きな舞台を控えた舞手と、楽器たちとの結びつきは強まる。
あるものは鈴を落とし、あるものは鈴をつけたままで──……。
「銀朱、試してみよう。もう鈴はないんだから」
「いいけど。お前、体調は?」
「平気だよ。できるかどうかは君が見て」
月明かりで満たされた部屋で、悪戯めいた笑みの浅葱が銀朱に身を寄せる。
じゃれあうふたつの影が重なり、静かな夜に吐息の音が満ちていく──……。
また別の部屋では、取っ組み合いに似たやり取りが行われていた。根負けし、仰向けに倒れた清光鴻の上に、狼尾が勝ち誇った顔でまたがる。
「寝てろ。男に倒されるなんてまっぴらだ」
「はぁ。君は本当に面白いね」
恍惚と狼尾を見上げ、清光鴻は「でもね」と、夢魔のように微笑んだ。
「私だってされるがままは嫌なのさ」
「っ、──」
無抵抗だった清光鴻が起き上がり、噛みつくように声を塞いだ。舞台の上で戦うように、互いに闘志をむき出しにし、獣めいた欲望と狂悦で空気が満たされていく──……。
夜も深まった頃、舞台の袖では黒子が静かに桟代試験の準備を進めていた。
棚に並ぶのは、試験で使われる鬼の封印瓶だ。手燭の明かりで瓶はぬらりと光る。一番右端の空いている棚に、黒子は小瓶をひとつ加えた。封印札には朱墨で「飛燕子」と書かれてある。
「小鬼の瓶はよし。さて」
人の頭ほどもある大きさの別の瓶に、黒子は向き直った。封印札がびっしり貼られたそれは大鬼の儀で使われる瓶だ。
(粘り強くそばについていた氷刹遠君も、今朝がた諦めた)
こうなってしまえば、もう取り返しはつかない、楽器はそれをわかっているはずなのに、舞手に執着した。
「なんとも哀れだな」
黒子がそっと分厚い瓶に手をはわすと、中にいる大鬼の悲鳴が聞こえるようだった。瓶のなかで暗闇が蠢き、人の意志と負の感情が振動として伝わってくる。あまり触れすぎるのもよくない。
次の大鬼の儀で使う封印瓶。彼は、楽器の氷刹遠君とともに前代の至高の舞手を斬った。そして彼自身が、今は大鬼として封印瓶のなかにある。氷刹遠君は今回のことでひどく落胆していた。あれはしばらく組手を決めないだろう。あの楽器はこうなることを予想し、犠牲を覚悟で前代の舞手を人に戻そうとしたのだ。大鬼の儀でみせた舞はそのためのものだ。大鬼を──前代の舞手を、なんとか人に戻そうとしていた。結局、その試みもあえなく失敗に終わったが。
暗闇のなかに大鬼の封印瓶を安置し、扉に金色の鍵をかける。桟代試験が迫っている。次の大鬼の儀まではもうすぐだ。
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