第27話

 とても嫌な夢を見ている。瑞月はそれを自覚していた。

 これは夢だ。

 うす灰色の舞台の上に、紫微がひとりで上がっていく夢だった。

 追いかけようとしても追いつけない。声をかけても、透明な膜に阻まれ、届かない。白金の礼装姿の紫微の背はどんどん遠くなり、一度も振り返らない。指で虚空をかき、必死に追いすがろうと、ただひたすらに叫んだ。


 ──どうして、どうして、どうしてどうして!


 置いて行かれた。ひとり暗闇に残されている。それなのに紫微は。


「瑞月っ!」


 衝撃に飛び起きる。

 部屋を満たす白昼の明るさに頭痛がした。天地がひっくり返る気持ち悪さで、反射的にせり上がってきたものを飲みこんだ。夢の残滓が重く体にのしかかっている。耳の奥で鼓動がうるさい。顔を上げると、苦い顔の清光鴻が立っていた。一瞬、状況が把握できなかった。どうして彼が自分の部屋に──……?


「やられたね。君は間に合わない」

「なに……?」


 自室で、寝具の上に寝ていた。視線を落とすと、きらびやかな白金の舞装束を着ている。瞬間、愕然とした。これは桟代試験の衣装だ。今日がその試験日だった。朝から舞装束を着て、身なりを整えた記憶がある。

 今朝、紫微と部屋で桟代試験の準備をしていた。段取りや動きも完璧に頭に入っていた。あとは舞うだけの状態だった。楽しみで、じっとしていられないような心持ちでいた。今日の桟代試験で、紫微と初めて小鬼斬りの舞台に挑むことになっていた。どんな舞になるか、練習の成果をいかに発揮するか。なにより、紫微と作り上げた舞台を披露できるのが嬉しかった。

 鈍く痛む頭の端で、記憶の断片がちらつく。紫微の悲しげな目。

 舞台へ向かおうとした矢先だった。一瞬で近づいてきたうすい唇。避ける間もなかった。触れた瞬間に感じたのは──苦い苦い味がしたのだ。


「──っ、紫微は!?」


 清光鴻は無言で首を振る。

 止める清光鴻の声を聞かずに、ふらつきながらも舞台のある大広間へ向かった。

 進む廊下は静かだった。みんな桟代試験の場へ移動した後なのだ。時間が分からない。陽はかなり高く昇っている。意識を失う前は朝だったのに。


 ──まさか。


 大広間の扉を開ける。桟代試験の会場は厳かな静寂につつまれ、舞手たちがすでに客席にいる。全員の視線の先に、輝く白金色の舞台があった。最奥につくられた横長の台は、桟代試験のためのものだ。そこで舞が始まるところだった。

 真ん中に並び立つふたりが主上の席へ一礼する。

 紫微だ。

 自分と揃いの白金の礼装姿で、紫微は舞台に立っている。つんと澄ました顔はいつも通りなのに、その隣にいるのは自分ではない。

 本来自分がいるはずの場所に、勝ち気な笑みの狼尾がいた。黒塗りの鞘を腰にはき、得意げな顔は舞台への期待と高揚で輝いてみえる。

 舞台の端に移動した紫微が、間を置かずに楽奏を始めた。

 狼尾が嬉々として黒鞘から白銀の刀を抜く。

 舞台に雷雨が落ちる。閃雷の舞だ──あれは自分が舞うはずだったものだ。

 雷の轟音と激しい稲光が、何度も鋭く目を灼いた。客席の舞手たちは威力と勢いに圧倒されている。雷ひとつを見ただけで、舞手の命に関わる舞台だということが十分に伝わる。聞きなれた雅奏と雷の軌道。紫微の呼吸までもが手に取るようにわかる。どうやって舞台を作ろうとしているのか。これだけ離れていてもわかるのに。


「あれは、俺の舞台だ……俺が舞うはずだった舞台だ!」


 前へ進もうとして倒れかけた。体に力が入らない。後ろから伸びてきた手が、砕けそうな体を支えてくれた。清光鴻。ついてきていたことにも気づかなかった。


「やってくれたね。私も君も、裏切られたのさ」


 苦い清光鴻の声は聞こえるのに、意識のすべては輝く舞台へもっていかれた。動くことすらできず、ただ白く光る舞台を見つめる。


「裏切られた……?」


 舞手は楽器に選ばれる。紫微は結局は自分ではなく、狼尾を選んだのか。

 あれほど一緒に練習してきたのに。打ち解けたと思っていた。それなのに、なぜ。


 ──いや、無理だ。


 頭のどこかがすうと冷えていった。ひきちぎれそうな理性が、心の均衡を保とうと懸命に喚いていた。そんなことは無理だ。狼尾にできるはずがない。あの閃雷を、練習もなしに避け続けるなんて不可能だ。ずっと練習してきた自分ですら、完璧に舞うことは難しかった。それを即興で演じようとするなんて。

 不規則な雷に対応できるのは、紫微とともに過ごしてきた自分だけだ。繰り出される落雷はおそろしく速く、これまでに見たどんな舞台よりも苛烈だ。狼尾が身体的に優れていようと、即興は命取りになる。紫微は実際、これまではかなり手加減していた。楽器との顔合わせの場で繰り出された雷などは児戯に等しい。今日予定されていた閃雷の舞は、それをはるかに凌駕する、大がかりで危険な舞台だった。それに小鬼切りの舞台でもある。ただ雷を避けるだけではなく、小鬼を優美に斬らねばならない。自分のように、雷の場で自在に動き回れるようになっていないと、紫微と舞台に立つなんて自殺行為だ。

 狼尾は死ぬかもしれない。いや、いっそ死ねばいい──そう思った。

 紫微の雷に打たれて、あの場で身を焦がし死ねばいい。

 紫微はその死に傷つくだろうが、それすらも自業自得だった。自分を裏切った紫微が、立ち直れないほどに傷ついたって構わない。狼尾を選んだことを後悔し、身が引き裂かれるほど苦しめばいいのだ。そうでなければ納得がいかない。

 目を灼く雷が舞台を走った。

 稲光が落ちた先は、黒子が舞台中央に置いた小鬼の瓶ではなく、舞台の端に隠されるようにして置かれていた木箱だった。ひと抱えもある大きな箱が、轟音とともに砕け散る。硝子が割れる不協和音が響き、舞台に鬼が現れた。

 大きい。あれは、本当に小鬼だろうか。

 濃紺の鬼は獰猛な牙をもち、いかにも強そうだ。人の倍ほどもある巨鬼は、先日の大鬼の儀で見た鬼によく似ている。巨鬼は立ち上がろうとして、左腕が不自由なのか姿勢を崩した。重量のあるものが落ちる振動が、空気を震わせる。巨鬼の不満げな唸りが肺腑の奥をざわめかせた。


「行こう」


 清光鴻に手を引かれ、暗い広間の端を舞台へ近づいていく。

 客席の舞手や楽器、黒子までもが舞台に釘づけで、自分たちが歩いているのを咎める者はいない。その場にいた黒子たちは、舞台の四方に張られた注連縄をはがそうと躍起になっていた。注連縄は鋼鉄のように宙に固定され、黒子たちが懸命にはがそうとしてもびくともしない。一度舞台が始まってしまうと、中へ入れるのは楽器と舞手だけになる。今、舞台にいる者以外でも楽器や舞手は入れるが、黒子たちは中へ入れない。それでも、黒子たちは中へ入ろうとしていた。

 清光鴻が歩調をゆるめる。舞台袖まであとすこしというところで、低い位置から舞台を見上げて言った。


「あれは小鬼じゃない。大鬼だよ」


 茫然と見返すと、清光鴻は苦い笑みをくれる。


「紫微のやつ。大鬼の封印瓶を勝手にもってきたんだ。あそこまでするなんて」

「……どういう、意味」


 やっと絞り出せた声は掠れていた。

 清光鴻は答えない。舞台の端には緞帳がかかり、注連縄の向こうに舞台へ上がるための階段があった。注連縄の前にいた黒子たちが気づいて身を引いた。中へ入ることは止められなかったが、通り過ぎざまに黒子のひとりが言った。


「清光鴻、あれを止めろ! 大鬼はけして傷つけるな」

「知らないよ」


 清光鴻は喚き声を無視し、中へ入っていく。注連縄をくぐり階段を上がると、間近に雷が落ちた。見慣れた光景だ。臓腑を震わす轟音と、肌を焦がす細かな光。


「止まって」


 先へ進もうとしたとき、鋭く制された。

 紫微は舞台の反対側、最奥にいる。遠すぎて表情は窺えない。

 真ん中に大鬼が立ち塞がり、さらに一番近い位置で背を向け、立っていたのは──。


「狼尾!」


 呼ばわると、古なじみの友はちらりと振り返る。清光鴻と自分を見て目が細まり、勝ち誇った笑みになる。思わず駆け寄ろうとして、清光鴻に止められた。狼尾が勢いよく舞台の真ん中へ駆けていく。


「放せっ! あれは俺の、俺が舞うはずだった舞台だ! それを──」

「まだ分からないの。どうして紫微がこんなことをしたか」

「なに……?」


 清光鴻は無言で舞台を示した。紫微の雅奏が始まっている。

 白く光る舞台をただ見ていることしかできない。そこで起きていることを。

 紫微のさし向けた雷は容赦がなかった。自分が練習したときと変わらぬ速さで、舞台で動くものを撃ち抜かんと、次々と繰り出される。

 縦横じゅうおう、斜めに走るきらめき。雅奏の音は飾りにすぎない。この舞台でもっとも見るべきは、閃雷の残酷さと苛烈さだ。

 狼尾は舞台の中心へ見事に移動していた。じぐざぐに軌道を変え、不規則に立ち止まる。雨と降りそそぐ雷を、毛先ほどの差で避けていく。抜いた白刀を杖がわりにうまく使い、体勢をたて直しては一歩、また一歩と進んでいく。


「……なんで」


 零れた自分の声は震えていた。できるはずがないのだ。紫微の動きが、狼尾に読めるはずがない。彼と一緒に過ごしてきたのは自分だ。自分だけが、紫微の考えを読める。そのはずなのに──。全身の震えが止まらない。怖い。怖くて仕方なかった。今まで築き上げてきたものが、根本から壊されていく。全身が引き絞られるようだ。

 紫微とずっと一緒だと思っていた。どこかでそう慢心していた。自分たちの間には崩れぬ絆が築かれたのだと。けれどこんな形で、過ごしてきた時を無碍にされるとは思ってもみなかった。紫微にとっての自分は、その程度の価値しかなかったのだ。

 まばゆい舞台に気が遠くなる。

 どうして。どうして。こんなことになった。


 ──紫微は、紫微が、紫微は紫微は紫微は紫微は────ッ!


「落ちついて」


 そっと肩を支えられた。ぶれかけた意識がすんでのところでつながる。

 背後にある温もりは、しかめ面の清光鴻だ。彼もまた舞台に釘づけになっている。狼尾と組んでいたのだから、彼も裏切られたことになる。清光鴻の凛とした横顔に、つられるように舞台を見た。

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