第4話

 黒子が扉を開くと、室内は暗闇だった。うす明かりのひとつもない。質量のある息苦しい黒さが広がっている。銀朱より先に中へ入ると、背後で扉の閉まる音が聞こえた。

 入るときにかすかに見えた内部は蔵のようだった。埃っぽい木棚が壁際に並び、布をかけられた大きな何かが、所狭しと並べられているようだ。


「ここは──」

「楽器蔵です」


 一緒に中へ入った黒子からの強い視線を感じた。黒子は蔵内を見て淡々と告げた。


「唯一にして絶対神たる主上が、鬼王院にはおわします。入内する前にまずご自身のことや、来訪の理由を主上へご報告ください。院へ入れば、あなた方の舞はすべて彼の御方へ捧げられることになりますので」

「報告って……ここで、ですか?」

「さようでございます。どうぞ、前へ」


 言外の圧力に押され、おそるおそる闇奥深くへと足を踏み入れる。黒子は背後の扉を開き、さっさと出て行ってしまった。

 黒子の持っていた手燭の明かりが消えると、途端に真っ暗になる。なにも見えない。

 強張る肌が、自分以外の気配を感じ取った。

 息づく呼吸が聞こえる。衣擦れの音も。

 かすかな囁きとくすくす笑い、さざめく息遣いが無数に増えていく。


「う」


 恐怖で叫び出しそうになったとき、最奥から声が聴こえた。


 ──お前は誰か──


 女とも男ともつかない声だった。

 子どもでも大人でもない。誰でもない声が複雑に混じりあっている。人に出せる声色こわいろではない。ごくりと唾をのみ、からからになった喉で答えた。


「瑞月です。蘭家嫡男、し、神前に舞を奉じるため、まかりこしました」


 子どもの忍び笑いがそこかしこから聞こえた。


 ──お前の望みは何か──


「望み……?」


 ──最上の舞を納めれば、お前の望みは叶う。下界での繁栄・富・名誉……至高の舞手になれば、それらすべてが叶うだろう。お前は何を望む? ──


 告げられた言葉を反芻してみる。ここで至高の舞手になれば、願いがなんでも叶うという。


「望みが叶うとは、本当に……? あなたが、主上ですか?」


 風が抜けるような音がした。ため息だ。不思議な存在が嘆息したことに驚き、すこしおかしくなる。声だけの存在は、ずいぶんと人間くさかった。


 ──何も知らんのか。きゃつばら、何も教えんのか──


 戸惑い瞬くと、暗闇に慣れてきた目がおぼろげに室内の様子をつかみとった。壁際の棚にはありとあらゆる楽器が天井まで積み上げられていた。琵琶、筝、三絃、太鼓、笛……布をかぶせられている大きなものや、一見して何の楽器かまったくわからないものもある。最奥に祭壇のようなものが見えた。怖くてとても近寄れないが、どうやら声はその辺りから聞こえてくるらしい。風の吹く音がまた聞こえた。またため息だ。


 ──お前にはひとつの望みもないのか? ──


 富・名誉・家の繁栄。望めばなんでも叶うなら、自分は何を望むだろう?

 自分をかりそめの嫡男にした蘭家は、すでに繁栄している。官吏として政治を司り、権力も財も存分にある。これ以上の栄華は必要ないだろう。蘭家当主の考えは違うようだが……もし本当にひとつ願いが叶うなら、答えはひとつしかなかった。


「最高の舞を。舞うことだけが、俺の望みです」


 そのために生きてきた。この十年、歌舞技術を磨くことにすべてを捧げてきた。肉体を苛め、動きをなめらかにし、歌や芸に関する教養を叩きこんだ。朝から晩まで修練に励む地獄のような生活は苦しくもあったが、それを上回る喜びがあった。

 ただ愉しかった。

 苦しみのなかに達成感と発見があった。

 曲をおぼえ、足運びを習得するなかで、高みへと近づいている自負があった。


 ──でもまだ足りない。もっと美しく舞えるはずだ。


 見るものの心に華美と優雅さを広げたい。悲哀や悦び、凄惨さを含めた舞を堪能してもらいたい。事象のすべてを舞で表現したい。それだけを望み生きてきた。自分はある意味、鬼王院にぴったりの存在なのかもしれない。ただ愚直に舞うことだけを追求できる。だから願うことはひとつだった。


「この身を賭して舞いたいのです」


 与えられた応えは短かった。


 ──愚か──


 ため息すらない。無感情な響きがいつまでも消えず、心に針のように刺さり、残された。

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