第30話
清光鴻が何を言っているのかわからない。どうでもいいことだ。この楽器は私を裏切ったのだ。この裏切り者が。こんなことが赦されると思うのか! 私を置いていくなんて。私を裏切るなど──。
力ない拳を清光鴻がやすやすと受け止める。平坦で無関心な瞳だった。愛情のひとかけらもない。冷ややかなまなざしに息をのむ。
「いま、君は誰なのかな?」
「っ、わ、わたし、は……」
紡ごうとした言葉をのみこんだ。何かがおかしい。思いついた名前がしっくりこなかった。私は誰か。自分は誰なのか──……。
心臓の鼓動が大きく脈打ち、立っていられない。息ができなかった。苦しい。自分の形が崩れ、闇にのみこまれていく。床についた左手の輪郭が黒くぼやけてみえる。まるで体が黒いもやになり、崩れていくみたいだ。おかしい。こんなことが──恐怖で全身が震えた。いったい何が起こっている?
(私は、私は、俺は、わたしは──)
閃光が目の前を走った。
清光鴻めがけて放たれた光は、かすかにその衣をかすったらしい。現れた人物は清光鴻をねめつけ、今にも飛びかかりそうな形相だ。
「清光鴻、なんてことをしてくれた!」
「お互いさまだ。君だって」
清光鴻と自分の間に現れたのが楽器だと、そのときようやく気がついた。ひらひらした礼装姿だ。茶色い羽織に、金糸模様の美しい衣──みえる景色の意味がまるでわからなかった。すべての事柄と意味がちぐはぐだ。そこに何があるかはみえるのに、それが何なのかは理解できない。振り返った楽器と目が合う。怒りに燃える金の瞳に射竦められる。眉をひそめた楽器は、「立て」と腕を引っ張ってくる。力の抜けた人形のように体がままならない。うまく立てないことに楽器は苛ついたようだが、清光鴻が声をかけた。
「あちこちの骨や筋肉が壊れているのさ。……そんな顔で睨むなよ。心配ない。鈴はもう落ちたんだ。体の形を思い出せば、自然と修復される」
それまでもてばだけど。
付け加えられた言葉を耳にしたとたん、視界が回った。楽器に担ぎ上げられている。荷物を肩に載せるように運ばれていく。遠ざかる清光鴻はこちらを見ていなかった。舞台の影で成り行きを見守っていた少年を──狼尾のことを睨みつけている。ふたりの姿はすぐに見えなくなり、担がれたまま舞台を降りていく。そのまま大広間を出た。無人の外回廊を渡り、きっちり整えられた玉砂利の庭へ降りる。かつがれたままの状態で、風景が色濃く目に飛びこんでくる。普段見慣れていたはずの景色が、今日はまったく別のものに感じられた。
風にそよぐ木々や、満々と湛えられた澄んだ池の水はすべて静止している。葉や水、風など、刹那に変化する事象は、しばらくするとまた同じ場所へと戻っている。時を巻き戻し、葉は枝の同じ箇所にまたつく。水は元あった場所へ寸分たがわず移動する。この場所は──鬼王院は停止している。庭だけじゃない。ここにあるものすべてが変化を拒んでいる。一定の時間分しか動いていない。吸いこむ空気も、以前よりずっと混じりけがなく透明なものに感じられた。時が止まっているから、雑事の入る隙間がないのだ。あらゆるものがひどく明瞭に、空気を媒介にして伝わってくる。まるで舞台の上で舞っているときのように。
鮮やかになっているのは、風景の動きだけではなかった。かすかに大広間のほうから漏れ聞こえる音だ。楽奏にこめられた激情が、これほど遠くにいても感じられる。誰が演じているのかは知らないが、なんと雅で華やかな感情だろう。
回廊や建物の隅には、ここを行き来する少年たちの感情が染みついていた。手で触れれば明瞭な記憶として流れこんできそうだ。それくらいはっきりと「そこに何かある」と感じる。恨み、怒り、喜びや悲しみ──質量を伴った感情の形。それに、自分を担ぎ運んでいる楽器の燃えるような怒りも。彼の全身が赤く発熱しているようだ。相手の感情が、空気の素子として流れこんでくる。会話をしなくても何を考えているかわかる。
──本当に、舞台の上にいるみたいだ。なにもかも鮮明にわかる。鮮明にすぎる。
感覚が鋭敏になりすぎて吐き気がした。どぎつい色彩の絵画を目の前で入れ替わり見せられているようだ。気持ち悪くて目を閉じると、やっと固い玉砂利の上に降ろされた。背に木の幹が当たっている。おそるおそる目を開けば、巨大なしだれ桜の花傘のなかにいた。
白い玉砂利の上に、小さな紅桜がほとほと落ちる。この場所も時が静止している。落ちた花弁は一定の時を経て、元あった枝に戻る。それから落下を繰り返す。鬼王院の桜はだから枯れないのだ。ここだけいつも春だった。
優美な花の繰り返しを眺めていると、楽器がずいと視界をふさいだ。爆発しそうな感情を抑えているのだろう。声は低く静かで、それが耳に心地よい。
「自分が誰だか、分かるか?」
まごついていると、苛ついた声が降ってくる。
「瑞月だ。お前の名は瑞月」
「みづき……」
「そうだ。私の──この紫微の、唯一の組手だ」
言葉を口中と胸で何度も噛みしめる。すると、妙なわだかまりが苦く残された。
──紫微の、唯一の組手?
ちがう。
そう思った瞬間、相手を睨みつけていた。
「……でも、裏切ったじゃないか」
すべての感情と記憶がつながった。思い出したくない恨みと怒りがこみあげる。
紫微は束の間、安堵に顔をゆるませた。怪我をした箇所や折れた腕の様子を見ているが、その心配の素振りですら憎らしかった。
「私が裏切ったと思ったのか」
怪我を見終えた紫微は怒りを深めた。今にも殴られそうな怒気に怯んだが、相手を睨み返した。殴りたければ殴ればいい。ぶつかりあった視線から逃げたのは紫微のほうだ。長い睫が金色の眼を隠し、感情をおさえてしまう。
「私はただ、お前を止めたかった。これ以上舞台に立ってほしくなかった。だから」
「なら、そう言えばいいだろ。あんな風に、狼尾と舞台に──俺がどれだけ──」
「お前は聞かなかった!」
紫微は金目を細め、左手首をつかみあげた。
「見ろ! 鈴を落とした! どれだけ私が忠告しても聞かない。あげくのはてに清光鴻とあんな──」
こらえるように目を閉じた紫微は、怒気に吐息を震わせる。透明な空気ごしに、自分が抱くのとほぼ同種の感情が伝わってくる。膨れ上がる怒りと自責、それに──深くえぐるような嫉妬の感情も。
「瑞月、お前は出会ったときから愚かだった。舞のために命を投げ出すと、平気で口にするような……無責任で悪辣な人間だった。それを矯正できると思いこんだのは、私だ。浅はかだった」
紫微は本当に心配してくれたらしい。てっきり自分に見切りをつけ、才ある狼尾に走ったのだと思っていた。そうであってもおかしくないほど狼尾は優れていた。
そっと左手を差し出してみる。自分のやったことは間違っていない。だから謝らない。きっと何度止められても舞台に立つだろう。そこにどんな危険が待ち構えていたとしても、舞うことを止められない。紫微を傷つけたとしても、舞台のためなら言うことを聞けないかもしれない。それでもこの手をとってほしいと願った。ただそばにいてほしかった。自分から与えられるものは何もない。それでも──。傲慢で無力で、紫微の言う通り愚かしかい。見捨てられても当然だった。嫌われて当然、愛想をつかされても自業自得だ。
伸ばしていた指が、胸の痛みに潰え丸まっていく。力なく落ちかけた手を、暖かい手のひらがつかんだ。
「お前を選んだのは私だ。こうなった以上、責任は私がとる」
「責任……? そんなの」
「馬鹿が。己の為したことの始末もつけられないくせに」
見ていられないと、紫微はつかんだ手を引っ張り上げた。無理なく立ち上がることができたのは、身体の傷が癒えていたからだ。折れた骨や切れた腱、痛んだ筋肉がすべて元通りに戻っている。折れたはずの五指を動かしていると、紫微が嘆息する。
「鈴が落ちたのだ。お前の肉体は、魂の形に連動している」
「怪我をしても勝手に治るの?」
「おい、さもいいことのように語るな。傷が治るというのは、その逆もあり得るということだ。お前の体はお前の心しだいで──それにもう、この世界は」
飲みこまれた言葉の先がすぐにわかった。紫微は桜の花すだれの向こうを見ている。この場には紫微の気配しかない。昔から紫微しかよりつかない場所だったのだろう。ここにいると、他の人の記憶や想いがほとんど聞こえない。心が落ちつく。花傘に守られ、刺激から遮断されている。けれど外の世界は。
「派手な毒みたいだった──」
紫微が眉を寄せる。「鈴を落とすな」と言われた意味がようやくわかった。
鬼王院は、舞台の上と同じなのだ。鈴を落として肉体のくびきから逃れれば、そこかしこに染みついた鮮やかな夢魔に呑まれてしまう。舞台の上で舞うときには、神がかりのように感情や情景にのまれることがある。情感豊かに動けるのは良しとされるが、一瞬ならまだしも、それが延々と続いたらどうだろう。自分のものではない感情に振り回され、そこから逃れられなくなったら。精神をむしばまれて理性を失うか、狂人になるか。その狂ったような世界に耐えられるか。
舞台へ上がるときでも震えない足が、恐怖で動かなくなった。院に来てからおそろしいことをたくさん体験した。紫微を失うこと。舞台に立てなくなること。舞台を奪われること。そして自分自身を失うこと──。
「大丈夫だ。私がそばにいる」
紫微は声色を柔らかくした。眦をゆるめている。めったに見られる表情ではない。窺うと、いつもの澄まし顔に戻ってしまう。
「お前から目を離すとろくなことにならない。また舞台に立つ気なら、見知った楽器で体をならしておいたほうがいい。──どの楽器と舞台に立つかは、後で考えればいい」
紫微がいい。他に選択肢なんてない。答えるかわりに腕にしがみつく。そうしないと立っていることも難しい。自分という形ですら、今や曖昧で壊れそうだ。
「……本当に私でいいのか?」
金色の瞳から感情が直に伝わってくる。鈴が落ちた以上もう遠慮はしない。欲を隠しはしないとひりつく熱を感じる。それでも紫微を頼るしかない。ひとりで院内を歩くことさえできそうになかった。
「行くぞ」
紫微はゆっくり手を引いて歩きはじめる。花傘の外の気配に怯え腰が引けるのを、支えて連れていってくれる。極彩色の世界の中では、ひりつく熱をもった紫微だけが確かな存在だった。
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