第29話

 はんなりとした旋律は、かすかな笛と鈴の音だ。詞はなかった。染み出す音にすべての意味がこめられている。旋律を聴けば、どう舞うべきかはすぐにわかった。舞の動きを感じようとする必要さえなかった。音を聴けば自然に流れこんでくる。清光鴻の奏でる旋律には、力強い指示がたっぷりと含まれていた。舞手に積極的に干渉してくる。


 ──伸びやかな動きだ。布を宙に浮かせ、弧を描いて。


 肌に触れる音圧が、両手足へ直に動きを伝える。本当に何も考える必要がない。糸のついた操り人形になった気分だ。冷たい蒼色で満たされた舞台を、泳ぐようにかき分けていく。冷えた笛の音が「そこで鋭く舞え」と節の切れ間に主張する。動きへの異論は認められない。


「ッ──」


 急な動きに体は悲鳴を上げていた。指定された動きは人間の可動域すれすれだ。さらし布を天高く泳がせるたびに、上げた腕の筋が痛んだ。回転と同時に左足を開脚する。背骨が軋み、ふらついても曲は止まらない。速く動けと急かされる。自分の体は紐で引っ張られるみたいに、勝手に音の通りに動こうとする。意識して動いているわけではない。体が文字通り、のだ。


 ──このままじゃまずい……!


 いずれ息が続かなくなる。楽器に操られこんな風に動くのは、理想の舞台ですらなかった。これではあまりに一方的だ。清光鴻は舞台に満足しているようだ。ほくそ笑むその顔を、視界の端で一瞬捉えた。清光鴻は舞手に期待していない。紫微とは真逆だ。紫微は舞手に期待し、技量を試すような舞台をつくる。けれど清光鴻の舞台は、舞手の個性を徹底的に殺してしまう。楽器の考える完璧な舞台──それはたしかに美しくはあるのだろう。けれど、駄目だ。


 ──こんなの俺の望む舞台じゃない!


 音と舞を一体にする、その目指すところが違うのだ。一方が他方を殺す舞台など、ひとりでるのと同じことだ。清光鴻は一歩も譲らなかった。「言う通りに動け」と音の影でほくそ笑んでいる。


──それなら。


 ただ音に操られ、舞う人形でなくなればいい。表現するものを先読みし、自分で動きを足せばいいのだ。清光鴻の作る世界に、己の意志をおし出してやれば──。


「ッ!」


 音に集中しかけると、腕を勢いよく真横へ引かれる。筋肉が嫌な感じに捻れた。さらし布は華麗に宙を舞ったが、顔は苦痛に歪んでしまったかもしれない。近寄ってきた小鬼をいなす動きだったと、遅れて理解する。楽器に操られることの利点は、襲いかかってくる小鬼のかわし方も清光鴻が考えることだ。おかげでこちらは苦痛に耐えるだけでいい。


 ──音に集中するんだ。


 空気に含まれる純粋な音の素子を、ひとつ残らず拾い集める。

 清光鴻の表現しようとしているものは──蒼色の凪いだ湖水だ。夜の水面みなもは銀の月光で輝いている。波はない。磨き抜かれた鏡のように静謐な世界。天は無限に万化する。夜空を月とともに星が巡る。繰り返し幾万の夜が訪れ、星々が往くのを湖面はみる。ぞっとするほど寂しく、孤独な事象だ。陽の光や動物たちの存在は完璧に排されている。夜の粛然とした美のみが舞台に表現される。自然の厳しさや鋭さ、身を切る残酷さ。完璧に固められたこの夜をつき崩すのは難しい。


 ──けれど今、自分は舞台の上にいる。


 清光鴻の作り上げた世界の内側にいる。だから、できるはずだ。

 客席から動揺した空気が伝わってきた。舞台の上で、舞手が突然光を当てられたように見えたのだろう。それまでは風景の一部のように動いていた舞手が、急に人としての意志を取り戻したのだ。意識して音に逆らい舞えば、風景からは外れ、自然と目立つ。清光鴻の奏でる音がぐっと冷たさを増した。「言うことを聞け」と言っている。


 ──冗談じゃない。お前こそ俺に下れ!


 膝からつま先の角度を無理やり変えられ、躓きかけた。清光鴻はなりふり構わず、強力な音で肉体を動かしにかかった。転びそうになったのをこらえ、あえて楽器の意図とは別の動きで華やかに舞う。

 夜の湖にひとり踊る光景を演じた。

 着地した水面に銀のさざ波が立ち、さらし布の軽さが重力を消す。清光鴻の表す世界は背景になり、舞手こそが主題に変わる。

 曲の節々で、音が強力に腕や足の角度を変えようとした。こうなるともう消耗戦だ。指や肋骨が嫌な音を立て折れていった。音と反する動きで体を捻るため、筋肉があちこち痛んでいく。動くのも限界に近い。それでもまだ動けた。極限まで舞台に集中しているおかげだ。止まればもう動けなくなる。それを知ってか、清光鴻はあえて曲調をゆるめた。穏やかな拍のほうが舞手への負荷は大きくなる。これ以上体力を消耗したら楽器の操り人形になってしまう。


 ──耐えてみせる。これは俺の舞台なんだ!


 苦痛に唇を噛むと血の味がした。酸欠で視界が端のほうから黒くなってくる。しなやかに回ってみせたとき、曲の合間に切れ目が生じた。

 タン、と鼓の音がひとつ転がり、小鬼と対面する形になった。

 清光鴻が遠くで笑んでいる。怒りにぎらつく目は、「そいつをひとりで何とかしてみろ」と嗤っていた。変わらず音楽は流れているが、場つなぎに近い。動きに何の指示もない。今まで小鬼をかわせるように、音が次の動きを示してくれていた。それが消えたのだ。自分ひとりでなんとかするしかない。さらし布で鬼に対峙できるだろうか? 清光鴻はどうやって鬼をいなしていただろう。

 考える余裕はなかった。狼のように疾駆する小鬼を布の先で払う。回転し距離をとろうとしたが、布の先を小鬼が噛んだ。そのまま強く引かれ、綱引きのようにたたらを踏む。


 ──まずい!


 動きが崩れる。舞台が乱れる。

 噛まれたままのさらし布を起点に飛び上がる。逆立ちになるように宙で一回転する。もう一方の布を空中で小鬼の首に巻きつけた。布に噛みついた小鬼は、とっさのことで身動きが取れない。今が好機だ。布を小鬼の首に絡ませ、紐を結ぶように巻きつける。あとは落下の勢いで布を引き、鬼の首をへし折るだけ──……。

 緊張のせいですべての風景が細かく見えた。

 真っ先に目に飛びこんできたのは客席だ。舞台のすぐ外、前方で身を乗り出すようにして紫微が立っている。舞台に上がってこようとするのを、大勢の黒子たちに阻まれていた。血相をかえ、なにか叫んでいる。その声は聞こえない。外の動きが耳に届くまでに時差がある。近づいた小鬼の黒い目と目が合った。小鬼の意志を感じた。想像よりずっとつぶらな瞳をしている。不思議な既視感。鬼なのに、人のように生きているのか──。


「やめろ殺すな!」


 紫微の叫びが聞こえた瞬間、布を勢いよく引いていた。考える暇もない。今さら止めようとして止まれるものでもない。骨を折る感触があり、鬼の首があらぬ方向にねじれた。小鬼が声もなく絶命し倒れる──刹那、視界が真っ黒に塗りつぶされた。

 



 暗闇だった。

 客席、舞台、すべてが濃密な黒に塗りこめられている。

(なんだ……?)

 さらし布の中で小鬼の姿が崩れ、さらさらと黒砂になる。小山を築く黒砂に、そっと指を伸ばし触れてみる。指先に電流に似た衝撃が走った。

 怒涛のごとく記憶が流れこんできた。それが誰の記憶かと考えるうちに、気づけばになっていた。誰かの視点で世界を眺めている。それが誰かもわからないのに──……


 ──彼は、素晴らしい楽器と組めて誇らしかった。

 楽器とともに歩けば、誰もが羨望の眼差しをくれる(楽器って誰のことだ?)

 この素晴らしい楽器に見合う己であれるよう、日々鍛錬を行った。常に完璧であらねばならない。舞台に立つとき、楽器から称賛の視線を送られるのが何より嬉しかった。褒められることに「当然だ」と胸をはる。けれどそれは精いっぱいの虚勢だった。(誰かはわからないが、彼はいつも楽器の首元を眺めている。楽器のほうが背が高いらしい。意図して彼は楽器の視線を避けている。楽器が誰か、この視点からだと顔はわからない)

 本当はいつも恐れていた。自分よりずっと優れた舞手が無数にいること。鬼王院に来なければ出会わなかったはずの少年たちだ。自分と生きてきた年数は変わらないのに、舞台に人生を捧げてきたような者がいる。今こうして、素晴らしい楽器と組んでいなければ恐れることもなかっただろう。舞うたび、楽器への愛着と己の未熟さを思い知る。いつか楽器を失うのではないか。ともに舞ううち、己の無価値さに気づいた楽器から「不要だ」と切り捨てられるのではないか──そう考えると鳩尾が重くなり、息がつまった。嫌な想像をするほど舞はぎこちなくなる。舞台に立つのが苦痛になっていく。(彼は楽器を信じきれていない。自分のことすら信じることができないのだ。それは何より辛いことに思える)

 だからことあるごとに言い聞かせた。自分は素晴らしい。自分は楽器に認められている。見合うだけの価値がある。誇らしくあれ。胸をはれ、虚勢を悟られぬように振舞えと。

(呪文のように唱えていたのか。唱えるほどに不安は濃くなり、怯えは膨れ上がる。いまや楽器に認められることだけが、彼の存在価値になっている)

 わかっていた。耳あたりのよい楽器からの誉め言葉が、実を伴わないものであること。初めこそたしかにあった関心が、しだいに消えていることにも。けれど今さら楽器を手放すことなんてできない。

(そんなことは許されない。この自分が捨てられるなど、あってはならない)

 だから楽器にまとわりつく少年たちをくびり殺した。ひとり、ふたり、さんにん。楽器は気がついている。気がついていて、面白がっている。増長する楽器の奔放さに気づかないふりをして、裏で邪魔者を消していく。

(なぜ黒子たちは関与しないのか。死体があることには気づいているはずだ。犯罪を無視し、その上で証拠となる死体を黒子たちは隠している)

 楽器の心を留めようとしても無駄だった。毎日の隙間にすこしずつひび割れができていく。固い岩盤の亀裂が、時とともに広がっていくように──狭間から溢れてくるのは、真っ黒な感情だ(憎らしい。いっそ楽器を壊してしまおうか。舞手を全員殺せばいいのか。こんな考えに囚われたくないのに、どうしようもない)己より優れた舞手がいることが許せない。楽器の視線が彼らに向かうことも耐えがたい。私だけのものなのに。私が真っ先に選ばれたのに。あれは、私の──私だけの──……。昼も夜もなくなり、たださまよい歩くようになった。楽器が部屋に帰ってこなくなったからだ(どこに行ってしまった。どこに──私だけのものなのに)

 ふと、回廊の先に少年を見つけた。瑞月だ。

 自分と同じ、由緒正しい家柄の少年だ。舞の名手との呼び声も高い。貴族の割にあか抜けない、素朴な物腰だった。以前、清光鴻と一緒にいるのをみかけたことがある。そういえば、あのときはやけに親密そうだった──。ひょっとして清光鴻は今、瑞月のところにいるのか。瑞月と私の清光鴻は──……どうして自分より瑞月を選ぶ? 自分を捨てた理由はなんだ。舞が素晴らしいからか。瑞月のほうが、才能があるからか。それとももっと別の理由で──?(どうして自分を裏切った? あれほど親密に過ごしたのに、すべて嘘だったのか。仲良くなれたと思ったのは、自分の思い過ごしだったのか?)どうしてどうしてどうして──……答えのない問いは積み重なり、憎悪へ転じる。膨れて鋭く尖り、誰彼かまわず害そうとする。毒に変わっていく。それがわかる。

 瑞月と真っ直ぐに目が合った。驚いた顔をしている。ああ、憎らしい。引き裂いてやりたい。けれど一番許せないのは、記憶のなかでさえ輝く清光鴻の笑みだった。どこまでも甘美で、記憶から消えてくれない。輝く思い出が胸を刺した。何度も何度も胸をえぐる。許さない。けして許さない。どうして、どうして私を裏切ったのか。どうしてどうして、どうして私をわたしを──!




 リ──―ン……、と鈴の音がした。

 小さな鈴が、目の前に転がり落ちる。木板の上で止まったそれを茫然と眺めると、轟音に似た音が全身を打った。

 あたりを見て、ここが舞台の上だと理解する。

 観客から拍手が送られている。

 自分はしゃがみこんだまま、さらし布を手に床を見つめていた。目の前に落ちているのは銀の鈴。


「なかなかだったよ」


 涼やかな声にはっとした。

 緞帳の影に楽器が──穏やかな顔の清光鴻が立っていた。

 その姿を目に入れた瞬間、夢中で駆けよっていた。立ち上がり、よろつく身体を無理やり動かし相手の胸に拳を打ちつける。威力はなかった。恨みをこめて何度も拳をふるうのに、全身の力が抜けていく。ついには膝が崩れた。


「どうして、どうして──ッ!」


 悲しみと恨みで胸がつまった。自分の涙で溺れそうだ。

(裏切り者が! なぜ裏切った! あれほど一緒にいたのに、どうして私をいとも簡単に裏切れるのか──!)

 清光鴻の足のあたりにすがりつき、恨み言を吐き続けると、清光鴻は嘆息した。


「こうなるのが嫌だったから、紫微は君を裏切ったんだ。君を桟代試験の舞台に立たせたくなかっただろうね。小鬼を斬れば、否応なく君の鈴は落ちる。人を殺めて平静でいられる人間は少ないから──特に君には優れた感受性がある。堪えただろう」

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