第32話

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 瑞月が紗幕の向こうへ消えてから、紫微は戻ってきた銀朱を睨みすえた。


「私が何を失敗したと?」

「大鬼の儀だよ」

「それだ。黒子のきゃつばらも言っていたが、無理だろう。今年の大鬼はもう消えた。私が狼尾に斬らせたからな」


 大鬼は年に一体しか存在しない。儀式に大鬼は不可欠で、だからそれをわざわざ先日の舞台で斬らせたのだ。黒子たちは激怒していたが、紫微は心のすく思いだった。


 ──これで大鬼の儀式は行われない。


 安堵したのもつかの間、瑞月が舞台へ清光鴻と上がってくるなんて思いもしなかったが。

 瑞月には才能がある。舞えば桟代に選ばれるのはわかりきっていた。万全には万全を期し、大鬼を消しておいてよかった。心からそう思う。これで瑞月が至高の舞手に選ばれるようなことがあっても安全だ。大鬼さえいなければ、瑞月の命が脅かされることはない。

 銀朱は諦めたように息をついた。


「おいらは大鬼について詳しくは知らない。これまで組んできた奴は、ほとんど五体満足でここを出てったからな。鈴が落ちても、みんな鬼にはならなかった。だから舞手の心がどこでへし折られるかなんてわからない。想像しかできないけど」

「なにが言いたい?」

「たぶん、これまでは必要なかったんじゃないかな? だから大鬼は年に一体だけだった。それで十分だったんだ」


 銀朱は「作ろうと思えばいくらでも大鬼は作れるのでは」と言う。一瞬息がつまった。乾いた笑いが漏れる。


「馬鹿な」

「なんで?」

「ありえない。そんな簡単に……大鬼になるのは至高の舞手だけ。それも、年に一度の儀式に出た者だけだ。そうだろう?」

「どうしてそう思うんだ?」

「それは……」


 実際にこの目で見たからだ。何度も、何度も。己と組んだ舞手が輝かしい舞台で大鬼を斬り、心の均衡を崩し壊れていくのを。

 止められなかった。

 すばらしい才もつ舞手は、至高の舞台に立つ資格を得ると最初は喜ぶ。不安そうでも、最後には己の能力を誇り、大鬼の舞台に上がっていく。そうして大鬼を斬ると、こぞってぼろぼろになるのだ。どこで間違えたのか、何度思い返してみてもわからない。はっきりしているのは、至高の舞手に選ばれると人生の絶頂を謳歌し、それから大鬼の儀の後、心身の調子を崩すことだ。小鬼を斬っても、全員が小鬼にはなるわけではない。だから大鬼になる原因は、至高の舞手に選ばれることか、大鬼の儀に出ることか。そのどちらかの条件で鬼になるのだと、ずっとそう考えてきた。

 院で至高とうたわれ全能の悦びにひたること──それが見るに堪えない転落の原因になるのだと思った。桟代になるような舞手は全員鈴を落としている。激流のような精神の浮き沈みが、舞手の魂をくじくのだと。

 話を聞いた銀朱は苦笑する。


「そう考えるのはお前が優しいからだよ。救えたかもしれないと、自分を責めてんだろ? でも、そんなのまったく関係ないかもしれない」


 いくら手を尽くしても無駄だとしたら? 舞手全員、はじめから大鬼になる素養を埋めこまれ、時がくれば自動的にそうなるように操作されていたとしたら──?


「あり得ない」

「ないとは言い切れないだろ。おいらたちは何も知らない。知りたいとも思わない。すくなくとも、おいらはそうだった。浅葱がこんなところまで上がってこなきゃ、今だって関係なかった」


 楽器は奏でることにしか興味がない。舞手の命も、鬼王院の仕組みもどうでもいい。ほとんどの楽器がそう思い過ごしている。喉がからからになった。急に息苦しくなる。また間違えたのだろうか。瑞月を救えないのか? 自分はどこで間違えた──?


「黒子のきゃつばらがやるというなら、大鬼はどこかにいるんだろ」


 銀朱の声は淡々としていた。近々、大鬼が生まれる。すでに生まれているのかもしれない。それを斬るのは三桟代に選ばれた誰かだ。


「もし、瑞月が選ばれたら……頼む」


 懇願する声は掠れて必死な響きになっていた。情けなかったが、縋りつくことしかできない。浅葱が大役を引き受けてくれれば、瑞月は辞退させられる。浅葱はおそらく嫌がらない。誇り高く競争心の強いあの性格を考えれば、多少無理をおしても代役を受けるだろう。問題は瑞月を退かせるほうだった。また一服盛るか。どこかへ閉じ込めるぐらいのことはしないといけないかもしれない。銀朱は曖昧に頷いた。


「それはおいらが決めることじゃない。けどたぶん……浅葱には無理だよ」

「なぜだ」

「体力が……浅葱は大鬼の儀に出たがるだろうけど。今の様子だと、出ても勝てないよ」


 大鬼に勝てない。それは舞台での死を意味する。至高の舞手が踊死ようししたとき、その地位は繰り下げられる。つまり、瑞月か狼尾が次の舞手となる。


「それにおいらの見立てじゃ、大鬼になるのはたぶん狼尾だ。あいつが大鬼を斬ったんだから」


 ぐっと喉奥で悲鳴が出そうになる。


「っ、まだ、わからないだろう。狼尾は強い。心も体も」


 だから大鬼を斬らせた。滅多なことでは折れないあの精神力。清光鴻にも惑わされない自我を見こんで、一緒に舞台に立ったのだ。


「それこそ、おいらたちにはわからない。大鬼になる仕組みが何なのかも判然としないのに。大鬼を斬ることが引き金なら、たぶん狼尾が次の大鬼になる。心のありように契機があるなら、黒子のきゃつばらはなんだってやる。人ひとりの心をへし折るくらい簡単だろ」

「やわな奴じゃない」

「わかってないな。お前のせいで、清光鴻もあいつの敵になったのに」


 今度こそ呻き声も出なかった。清光鴻は狼尾をこれ以上なく恨んでいる。ともに舞台に立つはずだったのに、別の楽器を選んだからだ。舞手の心を繋ぎとめておかなかった清光鴻の手落ちでもあるが、誇り高い楽器はそうは考えない。きっと復讐を考える。狼尾の心をへし折ろうとするに違いない。これまで傷つけられたことのない清光鴻の怨嗟は深い。瑞月と一緒に舞台に立ったのも、紫微への苛烈な攻撃だった。狼尾が大鬼になれば、至高の舞手は実質ひとりしかいなくなる──紫微にとってそれはひどく都合が悪いから、清光鴻は手を緩めない。


「だから甘いって言ったんだ」


 銀朱の哀れんだ声を聞き、祈るように考えた。ほかに手はないか。瑞月を救える方法がないか──……。なにも思い浮かばない。できることはすべてやった。後は瑞月をそばで見守り、その選択を支えてやることしかできない。


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