第19話

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 紫微に連れられていく瑞月を、狼尾は見ていた。

 食堂の前にはまだ多くの楽器が集まり、騒動の余波にさざめいている。彼らの噂話を拾えば、紫微はおそらく瑞月と組むだろうということだった。ここ数日、ほかならぬ紫微を追いかけて過ごした。話しかければ拒まれ、「組手にはならん。舞台に出る気はない」と、にべもなく一蹴された。それが瑞月に対してはどうだ。


 ──なぜ俺でなく瑞月!


 鬼王院に来たのは、強いものと闘うためだ。紫微は強い。あの雷。速さと威力。誰かと舞台に立つなら、紫微以外には考えられない。他の楽器との舞台も試したが、けた違いの質に失望させられただけだった。

 あの強さと速さがほしい。

 これほどの力への渇望は初めてだった。あれほどの傑物は、並みの者には扱えない。いずれ自分が紫微と組んでみせる。そう思っていたのに──。

 そもそも、なぜ自分ではなくて瑞月なのか。速さも動きも、拍の正確さにしたって、自分のほうがすぐれている。舞とは、要するに体の動きだ。優雅な表現や静けさを表すには結局、筋肉と鍛え上げられたしなやかさがものをいう。自分のほうがうまく舞える。それなのに、どうして劣る相手を選ぶ?


 廊下の角を曲がり、そのままあてどなく庭を歩いていると、静かな池の端に出た。

巨大な池にはさざ波ひとつなく、墨を満たしたようにまろやかだ。涼しい夜風が吹きわたり、滴る月光が暗闇をそっと明るめている。人の気配ばかりの院のなかで、この場所はいつも閑散としていた。絡みつく楽器たちの視線や、舞手のお喋りから逃れたくて、時おりここへ来る。ひとりでいられる聖域だった──今日までは。

 池の端に青年が佇んでいた。

 白い衣の背はすらとして、長い銀髪が不思議な質感で光ってみえる。

 頭と両腕に金の牡鹿角飾り。装束とあわせみて、楽器だとすぐにわかった。立ち去ろうと思ったときには、相手のほうが振り返っていた。黒く濡れた瞳がかすかに見開かれ、口もとにゆったりした笑みが刷かれる。──悪夢のような美しさだ。暴力的な美と色香。艶笑に目が釘づけになる。悩ましげな吐息に体が反応した。無意識に身構えてしまう。

 これはなにか、よくないものだ。本能がそう告げている。感情の読み取れない笑みを、誰にでもばら撒くような輩。こんな奴に近づくとろくなことにならない。


「そう身構えないでほしいな」


 放たれた声は上品だった。沈黙を無視し、なおも馴れ馴れしく話しかけてくる。


「君も月見に来たんだろう。どう? 一緒に」

「ひとりで見てろ」

「つれない」


 くすりと笑む麗人に背筋が寒くなる。こいつの笑みには毒がある。貼りつけた美しさの影に、どんな感情が隠されているか知れたものではない。麗しさに惹かれ無防備になったとたん、ひと刺しで殺されかねない。そんな危険さを感じるのだ。宿舎へ戻ろうとしたとき、思いがけない言葉をかけられた。


「紫微は無理だと思うよ」

「……なに?」


 青年は優しい眼差しで笑っている。慈愛に溢れた顔なのに、獰猛な肉食獣にた気配だ。


「君が悪いわけじゃない。紫微はそういう奴なのさ。一度こうと決めたら、てこでも動かない──お気に入りが決まったらもうそれまでなんだ。けれど私は違う」


 青年は草を踏みしめ歩いてくる。気配はない。足音もしなかった。宙を舞う天女のように、重力を感じさせない足運びだ。美しく、獰猛な足さばきでもある。楽器の身体がどうなっているのか知らないが、これが人なら鍛え抜かれた武術の達人に近い動きだ。


「君もいい匂いがするね……いい舞手だ。私なら、紫微と互角に渡り合える。どう? 私と組んでみるというのは」

「それ以上寄るな。斬るぞ」

「やってごらん」


 柔らかに笑まれ、頭に血がのぼる。刀を抜く動作の一閃で相手を両断する。

 斬った。実感と手ごたえを得る。後悔は微塵もなかった。完全に理性の範疇で行ったことだ。明らかに良くないものを斬ったのだから、これでいい。けれど、相手は血しぶきを吹くでも崩れ落ちるでもなく、透明な水の塊になり消えた。ばしゃりと、地に大量の水が落ちる音だけがする。首筋に焦げつくような痛みを感じた。後ろだ。振り返る前に刀がはじかれ、手から離れる。


「ッ、──!」


 回転する動きで蹴りをくり出すと、避けられたばかりか足を払われた。地面に引き倒される。上から押さえかかってくる喉めがけて、袖に仕込んだ小刀をつきつけた。そこでようやく相手の動きが止まった。


「よく鍛えられているね。すばらしい」

「離れろ。でないと──」

「でないと?」


 喉仏のすぐ横につきつけた刃は、月の光にぎらついている。青年は笑んだままゆっくり身を寄せてくる。はらりと落ちかかる銀髪のひと房が、ひどく妖艶だ。紅い口もとへ目が惹きよせられる。つきつけた刃が青年の白くすべらかな皮膚を裂き、真っ赤な血が流れ出した。そのことに驚き、思わず小刀を引っこめた。殺すつもりだったのに、どうして刃を引いたのか。自分自身の行動の意味がわからず凍りつく。なんともいえない倒錯的な笑みがすぐ目の前にある。


「私と組めばいい。君は、まだ惜しいよ」


 頭を鈍器で殴られたようだった。そうだ。殺すには惜しいと、自分はさっきそう思ったのだ。白くなめらかな喉から赤い血が流れ出したとき、急に相手を傷つけることへの恐怖に苛まれた。最初は殺してやろうと思ったのに。空気に呑まれたのだろうか──立ち上がり、離れていく麗人の姿を茫然と眺めた。

 池の端へ近づいた青年は何かを拾い、無造作に投げてよこす。

 錆びついた鈴が草むらを転がってくる。風雨を経て、見る影もなく汚れている。音もからからと鈍っていた。その鈴がなにか、すぐにわかった。鬼王院へ入るとき、黒子から手渡されたものだ。「絶対に身から離すな」と言われた小さな鈴──手首に結わえた袋の中を覗くと、自分のものは変わらず袋の砂の中に埋もれている。この鈴を手放すべきではないと、なぜか本能的にそう感じていた。鬼王院の雰囲気に多少なりとも呑まれているのかもしれない。心の隅に産まれた怯えを隠したくて、与えられた鈴を肌身離さず身につけていた。こんなことは自分らしくない。誰かに言われたことを、そのまま逆らいもせずに受け入れるなんて。けれど、この鈴は必要だった。これさえあれば、自分が自分のままでいられる。そんな気がして──。


「私は清光鴻。君の名前は?」

「……狼尾」

「狼尾。ご覧の通り、私はなかなかの楽器だ。君の望む強さも持っている。どうかな? 私と組むのが最上の選択だと思うけど」


 清光鴻は池の中を覗くようにと告げてきた。


「でないと、後悔するよ。君もああなる」


 清光鴻が立ち去るのを見届け、真っ黒な池を覗いてみた。言いなりになるのは腹立たしかったが、知らないことを知らないままにしておけるほど器用でもない。

 黒い鏡のような池の底は見透かせそうにない。暗すぎるのだ。諦めかけたとき、折よく月を隠す雲が晴れ、清浄な光が水面の底を突き刺した。水草がたくさん生え、丸い小石が敷きつめられている。水は透明度が高く、ひとたび光が入るとずっと遠くまで見通せた。二、三度瞬きし、息をのむ。


 ──水草じゃない。飾り紐だ。


 池底から無数に生えていたのは、色あせて糸がほどけかけている飾り紐だった。水底に敷きつめられているのは、丸い小石ではなく鈴。錆びついた鈴、真新しい金色の鈴、銀色の鈴、半分に割れたものもある。びっしりと水底を埋めつくす、その数に鳥肌が立った。なぜこれほどたくさんの鈴がここにあるのか。これらの持ち主について考え、嫌な想像に首を振る。院を出て行った者たちのものかもしれない。

 思わせぶりな清鴻光の言葉を鵜呑みにするわけにはいかない。しかし──。

 雲に覆い隠され、底の見通せなくなった水面をしばらく眺めていた。去り際に告げられた言葉が、胸のなかに嫌なわだかまりを残している。体の芯を冷たい震えが通りすぎていく。楽器と組まなければ、いったい何が起こる?


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