第18話
夜、ひとり悄然と食堂へ向かうと、途中でたくさんの楽器たちに声をかけられた。
ほとんどは今日の舞に対する賛辞だったが、なかには「組手にならないか?」という申し出もあった。鬼王院の楽器のほぼ全員が、自分と銀朱が組手を解消すると思ったらしい。たった一度の舞台で、それほどまで関係性が知られてしまうものだろうか。とにかく今日は疲れ切っていた。神経が過敏になっている気もする。ずっと一緒だった銀朱の姿がないだけで、心にぽっかりと大穴が開いたようだ。院でひとりきりでいるのがこんなにこたえるとは思わなかった。
──今までずっと銀朱がいてくれたから、こんなことなかったのに。
何度目かに呼び止められとき、苛々していたせいで押し問答になった。食堂のすぐ前で人の往来も多く、目立ちたくなかった。はやく話を切り上げたいのに、相手はしつこい。
「瑞月、俺と組め。不自由はさせないから」
「すみません、俺は……離してください!」
しつこく話しかけてくる楽器は「
「っ、いい加減に──」
いい加減に、いい加減にいい加減に!
怒鳴りかけた言葉が途切れたのは、視線が一点に吸い寄せられたからだ。ざわめきがその場所を中心におさまっていく。
紫微だ。
集まっていた人垣がふたつに割れ、花道を進むように凛とした楽器が歩いてくる。紫微はいつものように冷然としていた。金の眼が鋭くこちらを睨む。
「な、なんだよ」
たじろぐ楽器を無視し、紫微は刺すように口を開く。
「お前、来い」
腕をつかまれ、そのまま引っ張られる。引き止めようとした楽器の声が、背後で不自然に途切れた。振り返ると、廊下にうずくまっている。その片腕から煙があがっていた。その瞬間を見ることはできなかったが、どうやら紫微が雷を向けたらしい。すれ違う人や楽器たちから好奇の目を向けられている。当然だ。あの紫微が、自分の腕を引っ張り、速足で廊下を突っ切っていくのだから。
「紫微! 放してよ、手を──」
「黙れ」
「痛い。腕が折れるって!」
足を止めた紫微は、憎々しげに金色の瞳で睨んでくる。ようやく腕が解放された。安堵したのも束の間、手近な部屋に引きこまれた。誰の部屋かもわからない。中は暗かった。入ってすぐに入り口の壁に手荒く押しつけられる。身動きができないように、喉元を腕で締められた。息がつまる。
「紫、微……」
「どういうつもりだ。あんな舞をして」
暗がりで金色の瞳が怒りにきらめく。荒々しく落ちる稲妻が、瞳のなかで光っていた。激怒を向けられ恐ろしいはずなのに、恍惚と魅入ってしまった。紫微という楽器は怒っていても美しい。
「私を愚弄する気か。あんなもの、舞でもなんでもないわ!」
喉を絞められ、苦しくなる。生理的な涙が滲む。意識が飛びそうな苦しさは、今日はもう二度目だった。伝えたいことがあるのに、うまく言葉がまとまらない。脳に空気が送り込まれていないからだ。紫微の声は苦々しさに満ちていた。
「わかっているぞ。お前が欲しいのは金だろう。それとも富か、名誉か? 院で至高の舞手を目指すのは、そういうことだろう。そのために私を望むのか。ただそれだけのためにあんな舞で──私を愚弄するか!」
ちがう。言葉にできない否定を、精いっぱい視線にこめる。こちらの真剣さを察したのか、紫微はかすかに瞑目する。その瞬間、なぜか傷つけられたような瞳をした。いままさに喉を絞められ、苦しんでいるのはこちらなのに。まるで暴力でも振るわれたみたいに、紫微は目を伏せる。喉を締め上げていた腕が離れ、空気がなだれこんでくる。壁をすべり落ち、噎せながらも紫微の裾衣をつかんでいた。この機を逃がしてなるものか。
「っ、お、れは……君と、けほっ、舞いたいだけ、なんだ」
絞り出せた声は小さかったが、紫微には伝わっている。
「なぜ、そうまでして」
顔をあげると、紫微は哀れなものをみる目つきになっている。その目を真っすぐに見返した。
「楽しいから。君も、そうなんだろう?」
舞うことは楽しい。それ以外に何も必要なかった。紫微はうつむき、喉奥で呻いた。楽器は音を奏で、舞台を完成させることをなによりの喜びとする。紫微は奏でることを望んでいるはずなのだ。はじめて彼の雷の場に入ったとき、はっきりとそれを感じた。誰より舞台をつくることを望んでいるのに、なにを躊躇う必要がある? 富、名誉? そんなものは必要なかった。舞台が終わった後の報酬なんて、どうでもいい。院で至高の舞手になれば、どんな望みでも叶うのかもしれない。けれど、それに何の意味がある?
紫微は逃げているのだ。なぜかはわからないが、舞台を恐れている。
「君は……前に言ってたね。『死ぬぞ』って。はじめて舞台の上で、君のそばに近寄ったとき。俺は、それでもいいと思ったんだ。本当にね」
ただひと時のために命を投げ打つのか。そう問われれば、答えは是だった。身も心も、魂すら捧げたっていい。自分はそのために生きている。これまでも、これからも。今だってそうだ。舞台をつくりあげるのに、いったい何を惜しむ必要がある? 完璧で最高の瞬間のために、人は生きているのではないのか。
「どうなってもいいんだ。だから、君と舞台に立ちたい」
紫微は大きく息を吐く。いっきに力が抜けたようで、呆れた声になっている。
「なんとも。お前は愚かしいな」
「それ、承諾?」
「お前、今は組手がいないのだな?」
「えっと、そう。銀朱は浅葱のところに帰るだろうし」
「黒子のきゃつばらに言われなかったか? 一週間以内に組手を見つけろと」
それがなんだというのか。紫微は「呆れた」と首を振り、手をさしのべた。壁際にへたりこんでいたのを立たせてくれる。
「お前たち舞手には、必ず楽器が必要なのだ」
紫微は「いずれわかる」と不機嫌そうだった。
「あたら鈴を落とす必要もないのい。愚かなことだ」
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