落鬼の仔ら

冷世伊世

第1話

 夏の鬼王山は昼でも薄暗く、じっとり暑かった。

 木々の間の登り坂を、十三歳の少年、瑞月は必死に登っていた。歩く石畳の坂道は驟雨しゅううの余韻で濡れ光り、険しい山中を上へ上へと伸びている。汗を拭い山道を上がっていくと、足元はいつの間にか石段に変わっている。

 鬼王院きおういんへ連なる千八百階段だ──先を見ると気が萎えそうなので、なるべく下を見て歩いた。透きとおった雨水が石段のくぼみに小池をつくり、道の脇にはつゆ草が露をたたえている。体力に余裕があれば、そんな景色も楽しめるのだろうが、坂道を延々と上がっている今は、すべてに文句をつけて回りたかった。足元の青い小さな花は自分をせせら笑っているようだし、たまる雨水は己の体から絞り出された貴重な水分に思えた。とにかく蒸し暑い。きらびやかな正装を着ているせいかもしれない。着たくてこんな分厚い服を着てきたわけじゃない。「鬼王院」へ入るためには正装でないといけないと、育ての親に無理に着せられたのだ。服に編み込まれた刺繍のひとつひとつがきらびやかで重く、熱がこもってしまう。そもそも、これは舞台の上で着る衣装だ。長時間着用するような服ではない。こんな山道を汗だくで歩くときには最悪の恰好だった。両袖と裾を思い切りまくりあげてみる。行儀は悪いが、ここにはそれを見とがめる者は誰もいない。薄暗い昼の山道にいるのは自分だけで、それも不気味だった。




 今日この日まで──十三年間、舞の練習をしてきた。有力貴族の蘭家に引き取られ、小さい頃から踊りを仕込まれてきたのだ。だから、自分でいうのもなんだが、優秀な舞手だと自負している。正直なところ、物心つく前の記憶はすくない。捨て子だったと聞いている。世の中には、親に捨てられてから、そのまま生き延びられない孤児も多い。そう考えると、蘭家に拾われたことは幸運だったのだろう。それが幸せな暮らしだったかといえば、そういうわけでもなかったのだが。三歳から十三歳の今日にいたるまで、文字通り、足に血が滲むまで踊りの訓練をさせられた。そうするようにと命じたのは、有力貴族の蘭家当主・英俊えいしゅんだ。


「よいか。お前は我が子のかわりに、蘭家の嫡男として鬼王院へ入るのだ。私はそのためにお前を拾った。何不自由ない暮らしをさせているのも、お前が十三になったら鬼王院へ入れるためだ。踊れないお前に価値などない」


 恩義のために舞えと英俊は繰り返した。お前の命の価値は、その両足と両手の優雅な動きにしかないのだと。厳しい訓練の中で何度も倒れ、そのたびに血を吐く思いで「鬼王院」を呪った。

 鬼王院──それは貴族の嫡男が入る国一番の学び舎だ。貴族であれば、嫡男をそこへ送る義務がある。拒むことは許されない。嫡男を送らなければ、国の中央政府から貴族の地位を剝奪される。それは貴族にとっての義務だった。


 鬼王院では、教養としての舞楽を重点的に学ぶという。噂によると、院で一番うまく立ち回れた者の家が、次の最高権力者になるらしい。そこでの人脈が、院を出てからいきるということだろう。いずれにせよ、たった一年のことだった。山の上の閉ざされた学び舎で寮生活を送る、ただそれだけのことだ。しかしその一年に耐えられないと、最初からわかっている者もいる。それが、自分が蘭家に引き取られた理由だった。


 蘭家には、きちんとした血筋の嫡男がいる。名を蘭涼らんりょう、三つ年下の彼は、産まれたときから医者に「動くな」と命じられていた。体が非常に弱く、すこしでも運動するとすぐに体調を崩してしまうからだ。幼い頃、医者は蘭涼に「三歳まで生きられない」と診断をくだしたそうだ。それが二年、三年と延び、ついには十歳にまでなったが、それは「生き延びた」というだけであって、一年のほとんどを今でも彼は寝て過ごしている。時々体調がいいと、舞の練習を窓越しに眺めていることもあったが、それも床からすこし起き上がっただけでせき込み、長くは起きていられなかった。同じ家で暮らしているのに、彼とはあまり話したことがない。蘭涼のことは、嫌いではなかった。ほんのすこしの会話からでさえ、素直でやさしい性格だとわかったからだ。蘭涼を恨むことはできない。だから、鬼王院へ入るように言われ、どれだけ厳しい訓練をしいられても、逆らう気にもなれなかった。──一度だけ、本気で家を出ようかと思ったこともあったが、それも病弱な彼のことを思い出すと、途端に気力がしぼんだ。自分が鬼王院へ行かなければ、蘭涼が向かわされる。嫡男を送れという国からの命令は絶対で、どんな事情があっても斟酌しんしゃくされない。自分がいなくなってしまえば、たとえどんなに体調が悪くても、当主の英俊は蘭涼を送り出すだろう。遠い山にある学び舎に向かえば、蘭涼はそう長くは生き延びられない。数歩歩けば倒れかねない脆弱な体に、山暮らしなど無理なのだ。


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 険しい山道をのぼり、安堵の息を吐いた。本当に、自分がここに来てよかったと思う。蘭涼なら、この山道のふもとで血を吐き、ばったりと死んでいたかもしれない。奪われた体力を取り戻そうと深く息を吸えば、森の不気味さが入りこんでくる。目指す鬼王院はめったに人が踏み入らない山の頂に建てられていた。どうしてこんなに不便な場所に建てたのだろう。不平を言っても仕方ないが、そろそろ体力も限界だった。連なる石段に嫌気がさしてきたとき、風に揺らぐ純白の紙垂しでが見えてきた。朱鳥居にぶらさがる注連縄と、大きな白提灯のぼんぼり飾り。ぼんぼりには、「鬼王院」と大きな墨字で書いてある。


「何者か」


 どこからともなく男の声が聞こえた。提灯の影が動いたと思ったら、背の高い男がぬっと姿を現した。黒装束姿で、頭に四角い黒頭巾をかぶっている。顔の前に長方形の黒布覆いがあるせいで、素顔を窺うこともできない。鬼王院を管轄する黒子のひとりだ。その見た目ですぐにわかった。噂通りの格好だからだ。

 溶け出す闇のような、不気味な墨染の衣。こうしてまみえても気配をまるで感じない。ここへ来る途中、町でさんざん聞かされてきた話を思い出した。


 ──鬼王院の黒子は、みな人喰いだ。


 怯えを唾とともに飲みくだした。腹の底から必死に声を張り上げる。


蘭家らんけ嫡男、瑞月です。神前に身を奉じるため、下界よりまかりこしました」


 鬼王院に入るときには、こうして名のりを上げると習ってきた。憶えてきた言葉を告げ、腰深く拝礼をする。神前に身を投げうつことを宣言し、頭を垂れるのだと。不安になるほど長い沈黙の後で、黒子はようやく頷いた。


「こちらへ。鈴を差し上げましょう」


 黒子の前に立つと、銀の鈴を渡された。藍色の長紐がついていて、手首へ固く結ぶように言われる。片手で四苦八苦していると、見かねた黒子がため息とともにつけてくれた。


「鈴を身から離してはなりません。どうぞ中へ。すぐ始まります」


 ゆっくりと朱塗りの鳥居をくぐり抜ける。

 山門の黒子に名を伝え、鈴をもらう。ここまでは事前に聞いてきた通りだ。山門を越えた先のことは分からない。鬼王院は謎につつまれ、内部の情報は少ない。有力貴族の蘭家当主ですら、中がどうなっているのかまでは知らなかった。下界の者には知りようもない。秘めやかな院のことは──……。


 鳥居の内へ一歩足を踏み入れると、すうと爽やかな空気に包まれた。境内は乾ききり、澄みきった風が吹いている。鳥居を越えた先では、明らかに湿度が違った。死後の世界へ足を踏み入れてしまったようだ。はっきりと肌で異様さを感じる。うすら寒くなり、反射的に身を震わせた。けれど怯えだけではなく、駆け出したくなるような期待も胸のうちにあった。得体のしれない空間に身をひたすのは、水池に飛び込むときに似ている。理性は恐怖を感じるのに、肉体は過剰な期待に震えている。全身が未来の壮麗さを嗅ぎつけ、興奮しているのかもしれない。

 茅葺き屋根の建物の前に、人だかりができていた。白い玉砂利を踏みしめ、ゆっくりと人のいるほうへ歩いていく。

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